第8話|動かないという選択
師走の朝特有の、身を切るような冷気が隅田川沿いの遊歩道を包んでいた。
霧羽は、誰に急かされることもなく、冬の低い陽光が反射する川面を眺めながら歩いていた。昨日、命を狙われたことなど、まるで過ぎ去った季節の出来事であるかのように、その足取りには一点の気負いもない。
護岸の縁で、年老いた釣り人が一人、微動だにせず糸を垂らしている。
「……釣れますか」
霧羽が隣で足を止め、短く問いかけた。
「さっぱりだ。餌だけ取られて、針には見向きもしねぇ」
老人は吐き出す息を白く染めながら、自嘲気味に笑った。
「そういう日もある。……だが、待っていれば潮は変わる」
「違いないな」
それだけの会話。霧羽にとっては、昨夜の殺し屋との対峙も、この釣り人との世間話も、等しく「人生の一部」としてフラットに存在していた。
昼過ぎ、霧羽は日雇いの寄せ場へは向かわなかった。
ふと思い立ったように、路地裏の片隅に取り残された、塗装の剥げた公衆電話の前に立った。デジタル化された現代において、それは忘れ去られた遺構のようだった。
受話器を取り、指がダイヤルを記憶に従ってなぞる。
だが、最後のひと桁を押す直前、霧羽の指が止まった。
……知らせたところで、何になる。
自分が言葉を発すれば、それは波紋となり、誰かの「忠誠」や「野心」を焚きつける燃料になる。今の自分にとって、それはもっとも忌むべき毒だった。
霧羽は無言で受話器を置いた。十円玉が落ちる硬質な音が、妙に大きく響いた。
「――相変わらずですね。公衆電話なんて」
背後からの声に、霧羽は眉一つ動かさずに振り返った。
そこには、三万人の配下を束ねるはずの山岸が、護衛も連れず、ただ一人の男として立っていた。その顔には、隠しきれない疲労と焦燥が色濃く刻まれている。
「用か。こんな吹き溜まりまで、ご苦労なことだ」
「……あります。どうしても、お伝えしなければならないことが」
山岸は霧羽の「間合い」に踏み込むことを恐れるように、二メートル以上の距離を保ったまま言葉を絞り出した。
「あなたに、不遜な手を伸ばした組織を特定しました。東雲会……。実体のない数字と暴力で成り上がった不届き者です。昨日、殺し屋を送り込んだのも彼らだ」
「知っている」
霧羽の短すぎる肯定に、山岸の瞳が揺れた。
「……そこまで分かっていて、なぜ平然としていられるのですか。奴らは既に、あなたの日常を破壊しようとしている。次はもっと卑劣な手段を使うでしょう」
「破壊されたのなら、また別の日常を始めるだけだ。……それだけのために、腹を立てるほど若くはない」
「俺が、潰します」
山岸の声には、明確な殺意が宿っていた。「東雲会の事務所を、今夜中に地図から消してみせます。それが、かつてあなたの下で盃を交わした俺の、最低限のケジメです」
霧羽は初めて、山岸の目をまっすぐに見据えた。
その瞳の奥にある、底知れない冷たさに、山岸は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「やめろ。……山岸、お前に一つだけ教えておく」
霧羽の声は、低く、重い。
「力というものは、一度使うと『使わなかった世界』には二度と戻れん。血で洗えば、また血で洗う理由が生まれる。俺は、その連鎖から降りると決めた。俺のために誰かが血を流せば、俺はまた、あの忌々しい椅子に座らされることになる」
「……しかし、これではあなたの尊厳が……」
「尊厳など、とっくに捨てた。……いいか、山岸。動くな。放置しておけ。東雲会という組織は、俺が手を下すまでもなく、勝手に崩れる」
「なぜ、そう断言できるのですか」
霧羽は、川面を撫でる寒風を吸い込み、静かに吐き出した。
「『奪う側』の人間だけで構築された組織は、必ず内側から壊死する。敵がいなくなれば仲間を食い、仲間がいなくなれば己を食う。俺は、そんな組織の最期を嫌というほど見てきた。……奴らは、俺という実体のない影を追って、勝手に自滅の道を突き進む。それが、この世の『理』だ」
山岸は、拳を白くなるまで握りしめた。
自分の持っている権力や武力が、霧羽の持つ「不作為の哲学」の前では、いかに子供騙しの玩具に過ぎないかを思い知らされていた。
「……承知しました。あなたの静寂を、これ以上汚す真似はしません」
山岸は深く頭を下げ、足早に去っていった。
夕刻。
霧羽は川沿いのベンチに腰を下ろし、百十円の缶コーヒーを啜っていた。
遠くで、いくつものパトカーのサイレンが重なり合って鳴り響いている。その方向は、おそらく東雲会が拠点としている繁華街の方角だろう。
内部分裂か、あるいは昨夜の殺し屋の裏切りか。はたまた、山岸が動かずとも、世界が勝手に霧羽の敵を排除し始めたのか。
「……今日は、少し騒がしいな」
霧羽は独り呟き、空になった缶を見つめた。
何もしないこと。
耐えるのではなく、ただ「動かない」という選択をし続けること。
それが、かつて裏社会の頂点に立ち、数多の命を奪ってきた自分に課した、唯一にして最大の「十字架」であり「贖罪」だった。
世界は今日も、霧羽という巨大な質量を中心に、勝手に歪み、勝手に正されていく。
霧羽はゆっくりと立ち上がると、鳴り止まないサイレンに背を向け、影が伸びきる街の中へと帰っていった。
明日の朝、また一人の作業員として目を覚ますために。




