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第7話|差し金

 午前二時。

 都心の高級マンション最上階。山岸は、暗闇の中で鳴り響くスマートフォンのバイブ音に、弾かれたように身を起こした。


「……状況はどうなっている」


受話器の向こうから届いたのは、山岸が他組織(東雲会)の内情を探らせていた**「密偵」**からの報告だった。


『――東雲会が放った刺客は、失敗に終わったようです』

「理由は」

『現場に送り込まれた殺し屋が、標的と接触した直後、独断で契約を破棄しました。標的に肉薄しながらも、結局一発も放たずに逃げ去ったと。仲介人への報告では「あれは殺せる対象ではない」の一点張りだそうです』


 山岸は受話器を握りしめたまま、天を仰いで深く、重い溜息をついた。

 それは失望ではない。**「やはり、あの人を捉えられる器など、この世には存在しない」**という、確信に近い畏怖の再確認だった。


(あの殺し屋ですら、霧羽さんの「深淵」に呑まれたか……)


 山岸は目元を片手で覆い、自嘲気味に口角を歪めた。

 彼が苛立っているのは、刺客の不始末ではない。霧羽という「絶対的な聖域」に土足で踏み込み、汚れた殺意を向けた東雲会の、身の程知らずな愚行だった。


「……東雲会の連中、本当に死にたいらしいな」


 低い声に、濃密な殺意が宿る。

 山岸にとって霧羽は、何者にも、たとえ国家権力であっても侵してはならない神聖な隠者だった。その眠りを妨げる者は、山岸にとって、この街の秩序そのものを汚す害悪に等しかった。


「……誰が依頼を出した。仲介人を締め上げろ。一分いちぶの狂いもなく吐かせろ」


『既に。……新興の「東雲しののめ会」です。ここ数年、ITと不動産を隠れ蓑にして関東へ急激に食い込んできた連中です』


 山岸の眉が、ナイフのように鋭く動く。


「東雲……。あの、過去を売って身を立てた餓鬼どもか」


 電話を切ると、山岸は書斎へと向かった。重厚なマホガニーの机の上、デジタルデバイスが並ぶ中に、唯一不釣り合いな古い写真立てがある。


 そこに写っているのは、血と硝煙の中に立っていた頃の霧羽だ。


 その目は、すべてを見通し、すべてを拒絶していた。


「何も知らねぇ連中が……」


 山岸の喉の奥から、煮えたぎるような怒りが漏れる。


 霧羽という存在は、裏社会にとっての「聖域」だ。彼を静かに眠らせておくことこそが、いびつなこの街の秩序を保つための、唯一の、そして絶対の不文律なのだ。


 それを、数字と効率しか知らない新世代の野心家どもが、あろうことか「掃除すべき過去の遺物」として処理しようとした。


「親分、いかが致しますか」


 影のように控えていた側近の若頭が、低い声で尋ねる。


「東雲会を潰しますか。今なら、名目はいくらでも作れます。あの御方に仇なす輩を放置しておくわけにはいきません」


 山岸は即答しなかった。


 脳裏に蘇るのは、雨の首都高下で再会した霧羽の、あの虚無的な背中だ。


『俺のために、動くな。俺はもう、ただの堅気だ』


 その言葉を無視して動けば、自分もまた、あの人の静寂を汚す「邪魔者」になり下がる。


「……いや。動くな」


「ですが! あの連中は既に一線を越えています。次は、もっと質の悪い素人を送り込むかもしれません」


「動くなと言っている」


 山岸の声が、部屋の空気を瞬時に氷点下まで叩き落とした。


「これは、俺たちが片付ける話じゃない。……世界が勝手に、片付け始める」


「……どういう意味ですか?」


 山岸は、窓の外に広がる東京の夜景を、忌々しげに見下ろした。


「いいか。霧羽さんという男は、もはや一人の人間じゃない。この国の裏側そのものだ。彼を害そうとする意志そのものが、この社会の『自浄作用』に触れるんだよ」


 山岸の予言は、既に現実となり始めていた。


 その頃、東雲会の本部では、幹部たちが奇妙な違和感に包まれていた。


「……会長、おかしなことが起きています」


「何だ」


「先月まで蜜月だった銀行の融資が、今朝、理由もなく打ち切られました。それから、提携していた海外の投資家とも連絡がつきません」


「……不手際があったのか?」


「いえ、一切。それだけではありません。我々の息がかかったフロント企業の周辺を、公安の連中がうろつき始めています。まるで、巨大な磁石に吸い寄せられるように、あらゆる圧力が同時にかかり始めている」


 会長の男は、苛立ち紛れに高級な灰皿を叩いた。


「ただの日雇い老人一人を消そうとしただけで、なぜこんなことになる!? 霧羽なんて男、調べても何も出てこなかったはずだ!」


 その「何も出てこない」ことの恐ろしさを、彼らは最後まで理解できなかった。


 霧羽は、何もしていない。


 ただ、そこに存在し、安物の缶ビールを飲んでいるだけだ。


 しかし、彼を「敵」と見なした瞬間、彼を守るために構築された国家規模の沈黙のシステムが、獲物を絞め殺す蛇のように、東雲会の喉元を締め上げ始めたのだ。


 公安、山岸組、そして霧羽を慕い続ける無数の怪物たち。


 霧羽自身が手を下すまでもなく、世界は彼を損なおうとする「異物」を、音もなく排除しにかかる。


 山岸は、震える手で煙草を咥えた。


「知らせるな。あの人は、自分のために血が流れるのを一番嫌う」


「……しかし、東雲会は暴走しますよ。追い詰められた鼠は、何をするか分からない」


「ああ。分かっている」


 山岸は、煙を静かに吐き出した。


「だからこそ、最期まで見届けてやる。……神を撃とうとした愚か者たちが、どうやって地図から消されるのかをな」


 夜の底で、巨大な歯車が回り始めた。


 霧羽の知らないところで、霧羽のために、一つの組織が歴史から消えようとしていた。


 当の霧羽は、今頃、狭いアパートの布団の中で、明日の一日の労働のために、ただ深く眠っているはずだった。

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