第6話|静かな対面
夕闇が街を侵食し始める、もっとも視界が曖昧になる時間帯。
城東地区の寂れた商店街を抜けた先、人通りの途絶えたガード下で、殺し屋――「木偶」は、死神のような足取りで間合いを詰めていた。
標的は、いつものように半額の惣菜が入ったビニール袋を提げている。
足音を殺し、気配を断ち、完全に背後を取った。距離は三メートル。上着のポケットの中で、サイレンサー付きの自動拳銃のセーフティは既に解除されている。
「……霧羽」
あえて名を呼んだ。プロとしての慢心ではない。
背後からの一撃で仕留める前に、この男が「何者」なのかを、その反応で確かめたかった。
男が足を止めた。
だが、肩を震わせることも、身構えることもない。ただ、長年連れ添った知人に声をかけられたかのように、自然な動作で静止しただけだった。
「用か」
低く、ひどく落ち着いた声がコンクリートの壁に反響する。
霧羽は、ゆっくりと時間をかけて振り返った。
目が合った。
その瞬間、木偶の背筋を、冬の夜の海に放り込まれたような戦慄が駆け抜けた。
(……何だ、この目は)
これまで何人も殺してきた。死に際に見せる人間の目は二種類だ。生への執着が混じった「恐怖」か、すべてを諦めた「絶望」か。
だが、霧羽の瞳はそのどちらでもなかった。
彼は、自分に向けられた銃口や殺気を見ているのではない。ただ、目の前に立っている「男」という存在を、道端の街灯でも眺めるかのような、絶対的な平熱で捉えていた。
「依頼だ」
木偶は、自分の声がわずかに上擦ったのを自覚し、奥歯を噛み締めた。
「あんたを殺せ、と。……かなりの大物が、あんたの存在を不快に思っている」
霧羽は驚きもせず、ただ淡々と聞き返した。
「そうか」
「逃げないのか。抵抗もしないのか」
「理由がない。俺が死んで、誰かが満足するなら……それで済む話だ」
死を「済む話」と切り捨てるその無造作さに、木偶は激しい眩暈を覚えた。
こいつは死を恐れていないのではない。死という概念が、彼の日常において何ら特別な意味を持っていないのだ。
木偶は、状況を動かすために「名」を出した。
「……『九条会』。この名を出せば、少しは心当たりがあるか」
その瞬間。
霧羽の眉が、一分の狂いもなくピクリと動いた。
静止していた空気が、重力そのものが変質したかのように、唐突に重く、鋭く尖り始める。
「……九条か」
霧羽の眼光に、わずかな熱が宿った。
「あいつは、元気か」
木偶の喉が鳴る。心臓の鼓動が、自分の耳元で爆音を立て始めた。
「……知り合い、なんですか」
「昔、世話になった。……貸しがある。あいつの親父が死にかけた時、俺が少しだけ手を貸した」
木偶は、凍りついたまま理解した。
――依頼主が、間違えた。
依頼主は霧羽を「消すべき邪魔者」だと言った。だが現実は違う。これは、恩義を感じるあまり、その存在を神格化しすぎた者が、霧羽をこの世の汚れから「解き放つ」ための暴挙か、あるいは、恩を返せない恐怖からくる狂乱か。
「……俺は」
木偶は、ポケットの中の銃から手を離した。
指先が、自分の意志に反して震えていた。プロとしての直感が、かつてない音量で絶叫している。
(こいつを撃てば、お前は死ぬより恐ろしい地獄を見ることになる)
「俺は、仕事で来た」
「分かっている」
「だが……」
「帰れ」
霧羽の言葉は、命令ですらなく、ただの「結論」だった。
「ここで引けば、誰も困らん。依頼主には、失敗したと伝えればいい。お前ほどの腕があれば、逃げ切ることも容易いはずだ」
「……引かなければ?」
木偶は、最後の確認として問いかけた。
霧羽が、初めて真正面から、木偶の魂を射抜くような視線を向けた。
「その時は」
一瞬の静寂。
「……お前が、困る」
「殺す」とも「死ぬ」とも言わない。ただ、霧羽という存在を損なおうとした瞬間に生じる「理」の報復。
その言葉に込められた圧倒的な質量に、木偶は屈した。
「……了解した」
木偶は一歩、また一歩と距離を取り、影の中に消えていった。
霧羽はもう、その去り際に興味を示さなかった。
再び前を向き、何事もなかったかのように、半額の惣菜が入った袋を揺らしながら、暗い夜道へと消えていく。
木偶は、物陰からその背中を見送った。
(殺せない……。いや、人類にあれを殺す術なんて存在しないんだ)
夕暮れの城東地区。
サイレンも、銃声も、悲鳴もなかった。
だが、この国でもっとも腕の立つ殺し屋が、一発の弾丸も放たずに敗北した。
霧羽という男の「静謐」は、あらゆる暴力を無効化する、最強の盾であった。




