第5話|依頼
深夜、遮光カーテンで密閉されたワンルーム。
部屋の中央にあるデスクの上には、軍用規格のノートPCが一台、青白い光を放っている。
男は、音を立てずに椅子に腰を下ろした。通称「木偶」。感情を排し、ただ指示された座標を無に帰すことだけに特化した、裏社会でも指折りの「掃除屋」である。
画面には、暗号化されたメッセージボックスが開いていた。
提示された報酬額を見て、男はわずかに眉を寄せた。
「……安いな」
相場よりも二割は低い。このレベルの殺し屋に回ってくる仕事としては、屈辱的ですらある報酬だ。だが、標的のプロフィールを開いた瞬間、その不自然な安さの意味を考え始めた。
添付された写真は一枚。
画質は粗い。望遠レンズで隠し撮りされたものだろう。
そこに写っていたのは、くたびれた作業着に身を包み、夕暮れの街角で信号待ちをしている中年男だった。
少し丸まった背中。使い古された安全靴。どこにでもいる、社会の歯車として摩耗した男。
「ターゲットの名前は?」
端末のボイスチェンジャー越しに、仲介者へ問いかける。
『……霧羽』
短い返答。
「下の名前は。漢字はどう書く」
『必要ない。その名だけで通じる』
一つ目の違和感。裏社会で「苗字だけで通じる」人間は、二種類しかいない。圧倒的な権力者か、あるいは語ることすら忌まわしい怪物か。
「前歴は」
『十年以上の服役経験あり。出所後、約三年。現在は日雇い労働で生計を立てている』
「現在の所属、及びバックは」
『なし。完全に独立している。……いや、孤立と言った方が正しい』
「護衛の有無。武器の携帯習慣は」
『確認されていない。常に一人だ。抵抗の兆候も、これまでのところはない』
男は写真を拡大し、霧羽の「目」を凝視した。
二つ目の違和感。
長年、死線を潜り抜けてきた男の目には、特有の「警戒」が宿る。四方八方への微かな視線、あるいは殺気を察知する動物的な予敏。だが、この男の瞳には、それらが一切なかった。
あるのは、すべてを受け入れたような底なしの虚無。
殺される準備ができているのではない。殺されるということ自体が、彼の日々において「大したイベントではない」と言わんばかりの、異常な弛緩。
「……依頼主は誰だ」
『……。聞かない方が身のためだ』
「なら、なおさら聞く必要がある。この報酬額で、この経歴。不自然すぎる。これは単なる『口封じ』か?」
通信の向こう側で、仲介者が長く、重い息を吐く音が聞こえた。
『……消去だ。この男の存在そのものを、歴史から、記憶から、物理的に消し去りたいという奴らがいる。表に出てはいけない名前なんだよ。存在しているだけで、均衡を崩す毒になる』
三つ目の違和感。
これは「殺害」ではなく「抹消」の依頼だ。
「場所は」
『都内、城東地区の寄せ場周辺。時間は朝の出勤時、あるいは夕方の帰路。場所は選べる』
「成功条件」
『確実な死亡確認。可能なら、顔の判別がつかない程度の破壊を推奨する』
「分かった。……引き受けよう」
男は通信を切り、スマホを閉じた。
だが、すぐに準備にかかることはなかった。彼は慎重だった。
別の秘匿端末を起動し、ダークウェブの奥底に存在する「裏の名簿」にアクセスする。過去三十年の広域抗争記録、逮捕者リスト、死亡者名簿。
検索欄に、その名を打ち込む。
――霧羽
検索結果:0件。
男は目を見開いた。
ヒットしないはずがない。十年以上の服役、かつての組長クラスの噂。どんなに隠蔽しても、どこかに断片的なログは残るものだ。それが、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗に削り取られている。
これが四つ目、最大の違和感。
「……消されているのか。警察か、あるいは国家規模の何かが、意図的にこいつの足跡を削り取ったのか」
男は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
報酬が安いのではない。この依頼は「関わってはいけない人間」を排除するための、毒入りの餌なのだ。
だが、男は立ち上がった。
どれほど巨大な過去を持っていようと、今のターゲットはただの中年男だ。背中は丸まり、武器も持たず、独りで歩いている。
眉間を一発。それで終わるはずだ。
「面倒な仕事だ」
男は、黒いナイロン製のバッグに、分解されたスナイパーライフルを詰め込み始めた。
標的が、何も持たない「かつての亡霊」に過ぎないことを。
そして、自分が「起こしてはいけない神」の眠りを妨げようとしていることを。
この時の彼は、まだ知る由もなかった。




