第4話|語られる伝説
六本木の路地裏、雑居ビルの地下二階。
看板すら掲げず、鉄扉一枚で世間と隔絶されたそのバーは、通称「止まり木」と呼ばれていた。そこは、警察の目が届かず、かつて血を流し合った敵対組織の人間同士でさえ、ここでは武器を収めるという暗黙の不可侵条約が守られている場所だ。
紫煙が澱のように漂う店内で、グラスの氷が触れ合う音だけが響いていた。
「……で、聞いたかよ。その話」
カウンターの端で、安物のテキーラを煽っていた若い男が、隣の連れに笑いかけた。首筋まで刺青を覗かせた、新興勢力のチンピラだ。
「最近、港湾地区の寄せ場に、伝説の元組長が日雇いで紛れてるらしいぜ。ボロい作業着着て、コンビニ弁当食いながらよ」
隣の男が鼻先で笑う。
「ハッ、そりゃまた傑作な御伽話だな。時代錯誤もいいとこだ。今どき、そんな枯れた化石が何の役に立つ? 仮想通貨と闇バイトで回ってるこのご時世によ」
「だよな。俺も盛りすぎだと思ったんだけどよ。名前は、確か――霧羽、とか言ったかな」
その瞬間、店内の空気が凍りついた。
ジッポライターの蓋を閉じる音。カクテルシェイカーを振る音。談笑していた客たちの喉の音。それらすべてが、まるで電源を切られたように消失した。
カウンターの奥で、黙々とグラスを磨いていたマスターが、手を止めた。
白髪混じりの、枯れた老人だ。だが、その眼光だけは、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……小僧。その名前、どこで聞いた」
低い、地を這うような声だった。
若い男は、自分の背筋に冷たい刃物を押し当てられたような錯覚に陥った。
「え? いや、……ただの噂ですよ。どっかのネットの掲示板か、それとも酒場の……」
「冗談じゃねぇ」
ボックス席に座っていた、体格の良いスーツ姿の男が立ち上がった。地元を仕切る中堅組織の幹部だ。
「その名前を、こんな吹き溜まりで軽々しく口にするんじゃねぇ。命がいくつあっても足りねぇぞ」
「な、なんだよ、みんなして。そんなにヤバいのかよ、その霧羽ってのは」
若い男の声が裏返る。場違いな軽口が、最悪の不敬であったことにようやく気づき始めた。
マスターが、磨き終えたグラスをカウンターに置いた。コン、と乾いた音が静寂に波紋を広げる。
「『ヤバい』なんて言葉で片付けられるような御仁じゃねえ」
マスターは、遠い記憶を手繰り寄せるように目を細めた。
「かつて、この街で二つの巨大組織が全面戦争を始めたことがあった。街中に火炎瓶が飛び交い、連日死体が転がった。警察も手を出せず、国家非常事態が囁かれた夜だ。……だが、ある一通の連絡が両組織のトップに届いた。ただ一言、『これ以上、街を汚すな』。霧羽という署名が入ったそれだけで、翌朝にはすべての銃声が消えた。和解の条件交渉も、金の受け渡しもなしだ」
若い男は唾を飲み込んだ。
「……そんなの、出来過ぎですよ。まるで映画だ」
「映画だと? おめでたい奴だな」
ボックス席の幹部が吐き捨てるように言った。
「今、お前が座ってるその席も、平気で女を抱いて飯を食えてるこの街の秩序も、すべてはあの人が『生きてそこにいる』という一点だけで支えられてるんだよ。あの方が隠居したからこそ、今の組織図が成り立ってる。もし、誰かがあの方を再び『修羅』に戻すようなことがあれば――今の席に座ってる連中は、一人残らず首を挿げ替えられるだろうな」
「……脅し、なんですか?」
「いいや、感謝だよ」
マスターが別のボトルを手に取る。
「霧羽さんはな、暴力が強かったから畏れられたんじゃない。誰よりも『死の匂い』を知りながら、誰よりも『平穏』を尊んだ。だからこそ、野心に狂った連中も、あの方の目を見た瞬間に己の小ささを悟る。……それをカリスマと呼ぶのか、神格化と呼ぶのかは知らんがね」
店内の客たちは、皆一様に、自分の手元にあるグラスを見つめていた。
そこには霧羽に対する恐怖だけでなく、畏怖と、ある種の信仰に近い敬意が混じっている。
「……今は、本当に日雇いなんてしてるんですか」
若い男が、震える声で尋ねた。
「表向きはカタギだ。それが一番怖いんだ」
マスターは、カウンターを拭き直した。
「嵐の前の海が一番静かなのと同じだ。あの方は今、ただの人間として、この街の呼吸を感じている。それでいいんだ。誰も、あの眠れる獅子を起こしちゃいけねぇ」
マスターは、若い男のテキーラを無造作に下げた。
「忘れろ。もし偶然見かけても、目を逸らせ。話しかけるな。近づくな。……もし逆らって、あの方の逆鱗に触れるようなことがあれば」
マスターは一度言葉を切り、カウンターの下に隠した古い傷痕をそっとなぞった。
「日本という島国から、お前の居場所がなくなるだけじゃ済まない。歴史から、お前の存在そのものが消される」
地下のバーに、再びジャズの旋律が流れ始めた。
だが、さっきまでの軽薄な喧騒が戻ることはなかった。
若い男は、自分の手が止まらないほど震えていることに気づき、慌ててポケットに隠した。
霧羽という名。
それは、裏社会においては法律よりも重く、死よりも確実な「絶対の終止符」であった。
地上に出ると、夜の六本木は相変わらずのネオンで輝いていた。
だが、行き交う群衆の中に、もしあの「作業着の男」が混ざっていたら。
そう考えただけで、若い男は足早にタクシーへ乗り込むしかなかった。




