第3話|日雇いの現場
午前五時十五分。
簡易宿泊所の薄い壁越しに、誰かの咳き込む声と、安っぽいラジオの音が聞こえてくる。
霧羽は、アラームがその役目を果たす数分前に、静かに瞼を持ち上げた。
昨日、山岸という過去の残滓に出会ったことなど、もう忘れたかのような平熱の目覚めだ。
洗面所の錆びついた鏡に向かい、冷水で顔を洗う。無精髭を剃るカミソリの刃が、硬い皮膚をなぞる感触。
鏡の中の男は、白髪が混じり、目尻には深い皺が刻まれている。
「老けたな」
乾いた独り言は、湿った洗面所に吸い込まれて消えた。それに対する感慨も、未練もない。ただの事実確認だった。
寄せ場――山谷の朝は早い。
作業着に身を包んだ男たちが、まるで吸い寄せられるように広場へ集まってくる。借金を抱えた若者、社会の枠組みから零れ落ちた者、過去を捨てた者。
皆一様に、今日一日の命を繋ぐための「労働」を、飢えた獣のように求めている。
「おい、あんた」
拡声器を首に下げた手配師が、霧羽の佇まいに目を止めた。
数多の荒くれを見てきた手配師の直感に、霧羽の持つ「静謐」は異質に映った。
「今日、郊外の鉄骨運びだ。結構キツいが、行けるか」
「問題ない」
「……いい面構えだ。乗れ」
揺れるトラックの荷台、埃っぽいシートに身を預けながら、霧羽は流れる景色を眺めていた。
かつて、黒塗りの車列を従えて通った道だ。
今は、排気ガスにまみれた風を受けながら、千円札数枚のために運ばれている。
どちらも、彼にとっては等しく「時間の消費」に過ぎなかった。
現場は、巨大なクレーンが空を刺す再開発地区の最奥。
「チンタラすんじゃねえぞ! 怪我しても自己責任だ!」
ヘルメットを被った若い現場監督の怒声が飛ぶ。
霧羽は黙々と動いた。指先に食い込む鉄骨の重み、背中を焼く日差し、膝にたまる疲労。
肉体が悲鳴を上げるたび、自分が「ただの人間」であることを実感できた。それが、今の霧羽には心地よかった。
正午。
埃の舞う休憩所に、不穏な風が吹き込んだ。
現場の境界線を跨いで、派手なジャージを纏った数人の男たちが現れた。地元の半グレ集団。資材の横流しや「場所代」の徴収を狙って、定期的に現れるハイエナたちだ。
「おい、作業の邪魔なんだよ。通りてぇなら誠意見せろや」
一人の半グレが、若い作業員から水筒を取り上げ、わざと地面にぶちまけた。
周囲の作業員たちは、一斉に目を逸らした。監督でさえも、警察を呼ぶリスクと報復を恐れ、奥に引っ込んでいる。
霧羽は、ぬるくなった水を一口飲み干すと、音もなく立ち上がった。
足音すら立てず、半グレたちの背後に立つ。
「ここは現場だ」
低く、だが鋼のような強さを持った声が、騒音を切り裂いた。
「邪魔なら、帰れ」
半グレのリーダー格が、信じられないものを見るような目で振り返った。
「あぁ? 何だ、このジジイ……死にたいのか?」
男が霧羽の胸ぐらを掴もうと、手を伸ばした。
だが。
男の手が、霧羽の顔の前で止まった。
霧羽は、構えもせず、ただそこに立っているだけだった。
しかし、その「目」を見た瞬間、男の脳内にある生存本能が、最大級の警報を鳴らした。
それは、暴力の目ではない。
何千人もの命を奪い、またそれと同じ数の命を見届けてきた者だけが持つ、「死の深淵」そのものだった。
その瞳に映った自分は、もう殺されている――男はそう錯覚した。
「……あ、……あぁ……」
男の顔から、一気に血の気が引いた。
握りかけた拳は力なく下がり、膝が微かに震え始める。
「おい、アニキ……? どうしたんすか」
仲間が不審そうに声をかけるが、リーダー格の男は、背中を伝う冷や汗を拭うこともできない。
「……行くぞ」
「え、まだ何も……」
「いいから来いッ!!」
悲鳴に近い怒声を上げ、男たちは逃げるように現場を去った。
後に残されたのは、理解不能な事態に困惑する作業員たちと、重い静寂だけだった。
「……あんた、一体、何したんだ?」
呆然とする現場監督の問いに、霧羽は視線を落とした。
「何も。……風が吹いただけだ」
夕暮れ時。
日当の現金を受け取った霧羽は、帰り道のコンビニで、百十円の缶コーヒーを買った。
プルタブを開け、ベンチに腰を下ろす。
ふと、右手の拳を見つめた。
この拳を一度も振るわず、ただ視線を合わせただけで場が終わる。
かつて、何千人もの男たちが命を懸けて追い求めた「究極の格」を、自分はまだ捨てきれていない。
どんなに底辺に紛れようとしても、染み付いた「魔」の気配が、平穏を拒んでいる。
「……嫌な因果だな」
霧羽は独り呟き、空き缶をゴミ箱へ。
遠くでパトカーのサイレンが鳴り響いているが、それが自分に関係のないことであると、今はまだ信じている。
霧羽は再び、匿名性の高い群衆の中へと足を踏み入れた。
その背中は、やはり誰の目にも止まらない。
だが、彼が歩く一歩一歩が、見えない波紋となって裏社会の深部へと伝わっていくことを、彼はまだ知らない。




