第2話|監視対象A-17
警視庁公安部、地下三階。
太陽の光を完全に遮断されたそのフロアは、特殊空調の微かな動作音と、無数のサーバーが発する熱気で満たされていた。そこは、一般の警察官が一生存在すら知ることのない、この国の「深層」である。
「……信じられませんね。これが本当に、同一人物なんですか」
若手の捜査官、佐久間はモニターに映し出された二枚の写真を交互に見比べ、困惑の声を漏らした。
一枚は、十数年前のもの。精悍な顔立ちに、氷のように冷徹な眼光。漆黒のスーツを纏い、周囲を威圧するその佇まいは、まさに「暴力の権化」そのものだった。
そしてもう一枚。昨夜、首都高速下の監視カメラが捉えた、粗末な作業着の中年男。コンビニの袋を提げ、少し猫背気味に歩くその姿は、都会の闇に溶け込む無力な労働者にしか見えない。
「そうだ。日雇い、独身、住所は築四十年のボロアパート。前科はあるが、出所後は交通違反一つ犯していない。完全な『透明人間』だ」
背後で、内藤がぬるくなったコーヒーを啜りながら答えた。二十年以上、この地下で「光の当たらない闇」を凝視し続けてきた男だ。
「ですが、前歴調査では組との接触も一切ありません。報告書には『再犯の恐れなし』とありますが……」
「接触はあった」
内藤は短く遮った。
「昨夜、山岸組長とな」
佐久間は息を呑んだ。
「……山岸といえば、今や関東最大の広域組織のトップ。それがわざわざ車を停めて、こんな男に声をかけたと?」
「偶然だ。山岸がたまたま見つけたんだろう。だが、その後の山岸の様子を見てみろ」
内藤がキーボードを叩くと、別のカメラ映像が流れた。霧羽と別れた後、車内に戻った山岸の顔は、明らかに蒼白だった。
「恐怖、だな」
内藤は呟く。
「三万人を統率する怪物が、たった一人の堅気に、震え上がっている」
佐久間は、資料の右上に押された鮮血のような朱印に目をやった。
【監視対象:A-17】
【危険度:S(極秘)】
【対応方針:完全静観・刺激禁止】
「正直に申し上げます。内藤さん」
佐久間は椅子を回転させ、上司を直視した。
「この『危険度S』という評価は、過去の功績に対するリスペクトに過ぎないのでは? 武勇伝は聞きましたが、今はもう、ただの枯れた中年です。身体能力だって衰えているはずだ」
内藤は黙って、一冊の古い極秘ファイルを佐久間の前に放り出した。
そこには、十年前のある大規模抗争の「公式には存在しない記録」が並んでいた。
「この抗争、知っているか? 敵対する二つの巨大組織が、東京湾を血で洗おうとしていた」
「……ネットのまとめサイトで読みました。結局、開戦直前に和解が成立したという、奇跡的な一件ですよね」
「奇跡じゃない」
内藤は指で、霧羽の顔写真を叩いた。
「霧羽が、止めたんだ」
「どうやって? 一人で説得にでも行ったんですか」
「いや。霧羽は動かなかった。ただ、彼の『名前』が出た。それだけだ」
佐久間の口が、半開きになる。
「……名前が、出ただけ?」
「そうだ。両陣営に、霧羽を慕う者がいた。いや、慕うどころじゃない。彼がかつて組長だった頃に直接指導し、骨の髄まで恐怖と美学を叩き込まれた直弟子たちが、今や両組織の幹部になっていたんだ。彼らは悟った。もしここで抗争を始め、霧羽の平穏を邪魔すれば――自分たちは恩師の手によって、組織ごと根絶やしにされるとな」
内藤の言葉は、冷たく重い。
「命令も、金も、恫喝も必要ない。彼がそこに『いる』というだけで、裏社会のパワーバランスは強制的に沈黙する。これを『抑止力』と呼ばずして何と呼ぶ」
「……じゃあ今も、実質的な支配力を持っているということですか」
「違う。逆だ」
内藤はきっぱりと否定した。
「彼は、何も持っていない。金も、地位も、兵隊も。だが、何も持っていないからこそ、誰も彼を支配できない。欲がない人間に、権力は通用しないんだ」
佐久間は背筋に、氷を這わされるような悪寒を感じた。
「山岸との接触……尾行をつけますか? 応援を要請して――」
「馬鹿を言うな」
内藤の声が低くなった。
「尾行はするな。半径百メートル以内に入ることも禁ずる。記録は固定カメラの映像だけで十分だ」
内藤は立ち上がり、出口へ向かった。重厚な鋼鉄の扉を開ける前、彼は一度だけ振り返った。
「佐久間、覚えとけ。霧羽は『事件を起こす側』じゃない。起きた時に、すべてを『終わらせる側』だ」
「終わらせる……?」
「そうだ。もし彼が再びその気になれば、俺たちの仕事は監視から『事後処理』に変わる。死体の数を数えるだけの、な」
重い扉が閉まり、電子ロックの音が響く。
静まり返った室内で、佐久間は再びモニターを見た。
夜道を歩く霧羽の後ろ姿。
かつては、ただの弱々しい背中に見えていたそれが、今は嵐の前の静寂を孕んだ、巨大な「空洞」のように見えていた。
その背中を突けば、日本という国が、音を立てて崩れ去る。
佐久間は知らず知らずのうちに、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。




