最終話|裏の支配者
ジャーナリストとして裏社会を追い続けて三十年。私の仕事は、暗闇に蠢く獣たちの名前を白日の下に曝すことだった。
しかし、ここ数年、この国の裏側は不気味なほどに凪いでいる。
巨大組織の解散、カリスマと呼ばれた組長たちの突然の失踪。かつてのような派手な抗争や、権力争いの火種はどこにも見当たらない。
裏社会は今、奇妙なほどに「静か」だった。
誰もが頂点を名乗らず、誰もが目立つことを恐れている。まるで、この街のどこかに目に見えない「絶対的な掟」が刻み込まれているかのように。
「……誰が、この街を仕切っているんですか?」
馴染みの情報屋や、引退した老幹部、あるいは現場を走る若手の刑事。誰に聞いても、返ってくる反応は同じだった。
彼らは一様に、愉快な冗談を聞いたかのように薄く笑い、ふいと視線を逸らすのだ。
「……知らないほうがいい。あんたが命を惜しむなら、その質問自体を忘れることだ」
ある夜、場末の酒場で顔馴染みのベテラン刑事が、赤くなった顔で漏らした。
「いいか。今の静寂は、警察が作ったものじゃない。昔な……名前を出しただけで、十万人規模の組織がたった一晩で瓦解した事件があったんだ。俺たちはそれを『不可視の崩壊』と呼んでる」
私はメモを取ろうとして、ペンを置いた。
刑事が浮かべた表情が、職務上の警戒ではなく、神に対する「畏怖」に近いものであることに気づいたからだ。
取材の帰り道だった。
師走の寒風が吹き抜ける駅の高架下。再開発の手から取り残されたような暗がりに、その男はいた。
地面に段ボールを敷き、壁に背を預けて眠っている。
汚れた作業着。無精髭。どこにでもいる、社会から零れ落ちた「持たざる者」の象徴。
だが、そこだけが真空のように静かだった。
駅へ急ぐ通勤客も、酔っ払った若者も、誰もがその男の数メートル手前で無意識に歩みを変える。まるで、そこに見えない結界でも張られているかのように、本能が「侵してはならない領域」を察知していた。
私は立ち止まり、その男を観察した。
年齢は判別がつかない。だが、その呼吸は驚くほど深く、静かだった。
もし――。
もし、この国の裏社会に「王」がいるとしたら。
王座に座らず、命令も下さず。
金も持たず、暴力さえも揮わない。
ただ、そこに「存在している」という事実だけで、この国の毒を中和し、猛獣たちを沈黙させる王。
何もしないことが、最大の統治。
動かないことが、最強の武力。
風が男の頬を撫でる。男は目を覚まさない。
私はカバンの中の一眼レフに手をかけた。これを写せば、私のジャーナリスト人生における最大のスクープになるかもしれない。
だが、指が動かなかった。
この男は、写してはいけない。
ファインダー越しに彼を捉えた瞬間、私の中の何かが「取り返しのつかない崩壊」を始めると予感したからだ。
彼を暴くことは、この国の平穏を支えている最後の「楔」を抜くことに等しい。
翌日、私が書き上げた「不在の王」についてのルポルポタージュは、編集長のデスクでゴミ箱に捨てられた。
「証拠がない。ただの妄想だ」
編集長は吐き捨てるように言った。
確かにそうだ。
彼には肩書きがない。組織もない。前科さえも記録からは消されている。
ただ、作業着を着て、地面で眠る中年男がいるだけだ。
社会的には「無」に等しい存在。
しかし、私は今も確信している。
この国で一番強い男は、今日も何も持たず、何も語らず、ただそこにいる。
彼が安物の缶コーヒーを飲み、静かに眠り続けている限り、この街の影は暴走することなく、均衡を保ち続けるだろう。
私は窓の外、無数の灯りがともる夜の街を見下ろした。
誰も、その王の顔を知らない。
誰も、その王の名前を呼ばない。
だが、私たちは皆、彼の「沈黙」という恩恵を受けて生きている。
空になったデスクで、私は最後の一行を書き添えた。
――日本で一番強い男は、今日も何も持たない。
(完)




