第11話|最後の選択
山岸の執務室は、都心の夜景を一望できる贅沢な空間だった。
だが、今夜の山岸には、その煌びやかな光が死者の弔い合戦の火のようにしか見えなかった。
机の上には、数万人の運命を左右する報告書と、絶え間なく震える暗号化された携帯電話。それらは権力の象徴ではなく、彼をこの椅子に縛り付け、窒息させるための「重い鎖」だった。
「……もう、十分だろう」
誰に向けるでもない呟きが、広い部屋に虚しく響く。
脳裏をよぎるのは、血塗られた栄光ではなく、河川敷のベンチで安物の缶コーヒーを啜る、あの男の「静寂」だった。
――隅田川・河川敷
夜風が川面を叩き、波紋が街灯の光を砕いている。
霧羽は、いつもの場所にいた。まるで背景の一部としてそこに置かれた彫像のように、微動だにせず闇を見つめている。
背後に立った山岸の気配を感じ、霧羽は短く言った。
「来たか」
「……はい」
山岸は霧羽の隣には座らず、一歩引いた場所に立ち尽くした。三万人の頂点に立つ男が、今は迷子の子どものような顔をしている。
「引退を……考えています。すべてを、捨てようと」
言葉にした瞬間、肺の奥に溜まっていた熱い塊がせり上がってきた。
霧羽は、すぐには答えなかった。ただ、ゆっくりと冬の湿った風を肺に満たし、吐き出す。その間、山岸にとっては永遠にも思える沈黙が続いた。
「降りたいなら、今だ。……足が動くうちにな」
短く、それでいて重い宣告。
「……理由は、聞かないのですか。組織の綻びや、新しい世代の台頭……」
「聞くまでもない。理由なんてものは、後から理屈でつける飾りに過ぎん」
霧羽は初めて顔を上げ、夜の闇を見据えた。
「この世界はな、山岸。『降りる理由』なんてものはいくらでも転がっている。だが、『降りる覚悟』だけはどこにも売っていない。それは自分の骨を一本ずつ折るより重い作業だ」
山岸は歯を食いしばった。視界が、冬の夜気とは別の熱で潤み始める。
「俺は……。あなたのように、何も持たず、何にも縛られず、ただそこに立っていられる男になりたかった。あなたの背中を見ていれば、いつかそんな境地に辿り着けると思っていた」
霧羽が、ゆっくりと山岸を振り返った。その眼光は鋭く、同時に悲劇を見守る慈父のような深さを湛えていた。
「勘違いするな。俺は立ってなどいない」
「……え?」
「俺は、あの夜に膝をついたんだ。……ただ、膝をついたまま、二度と動かないと決めただけだ。それは誇らしい立ち姿なんかじゃない。醜い居直りだ」
その言葉が、山岸の胸を鋭利なナイフのように貫いた。
伝説の男ですら、平穏を保つためにそれほどの絶望を飼い慣らしている。
「降りたら……俺には、何が残るでしょうか」
「何も残らん」
霧羽は即答した。
「名前も、地位も、これまで守ってきた虚栄も、全部ゴミだ。……それでも、お前は生きるのか?」
沈黙が流れる。
川面を撫でる風が、山岸の頬を冷やす。
「俺が、あの地獄でお前を引き上げた。……だから、最後くらいは自分で決めろ。誰のせいにもせず、自分の意志で地獄へ戻るか、あるいは、何もない荒野へ踏み出すか」
その瞬間、山岸の視界が完全に崩れた。
抑えていたものが決壊し、熱い涙が頬を伝って地面に落ちた。三万人の首領が、雨に打たれた犬のように肩を震わせている。
「……怖いんです。全部失うのが、耐えられないほど怖い」
「知っている。怖くない奴は、ただの狂人か、最初から何も持っていない奴だけだ」
霧羽は静かに立ち上がり、上着のポケットに手を突っ込んだ。
「失うのが怖いまま降りられるなら、お前はまだ人間に戻れる。……間に合うさ」
山岸は、その場に深く、深く頭を下げた。これまで一度も、誰に対しても見せたことのない、魂からの礼だった。
「……ありがとうございました。霧羽さん」
「礼は要らん。俺が勝手にお前を助けただけだ」
霧羽は踵を返し、背中を向ける。
「生きろ。名前のない、ただの男としてな」
霧羽の背中は、夜の深淵へと溶け込んでいく。
追いかける声はもうなかった。ただ、冷たい夜風だけが、新しく生まれた「普通の人」を祝福するように吹き抜けていた。
――翌朝・山岸組本部
組長の執務室は、整然と片付けられていた。
机の上には、組の全権を委譲する遺言状と、代紋の入ったバッジだけが残されていた。
逃亡でもなく、追放でもなく。
ただ、一人の男が「消えた」のだ。
組員たちは狼狽し、裏社会には激震が走った。
だが、時が経つにつれ、噂は一種の神話へと変わっていった。
三万人の兵隊と、数千億の資金を、一晩で捨てて消えた男。
裏社会の歴史において、「一番うまく降りた男」。
その男が今、どこで、どんな顔をして、百円の缶コーヒーを飲んでいるのかを知る者は、この国にたった一人しかいなかった。




