第10話|公安の結論
警察庁公安部、特別会議室。
窓のないその部屋には、この国の治安維持を司る冷徹なエリートたちが集まっていた。卓上に並べられたのは、新興暴力団「東雲会」の瓦解を詳細に記した厚いファイルと、一人の「無職」の男に関する極秘報告書である。
資料をめくる規則的な音だけが、高性能な空調のノイズに混じって響いていた。
「……東雲会は、事実上の消滅です」
若い分析官が、抑揚のない声で報告を始めた。
「主要幹部十二名を別件で同時逮捕。資金源となっていたフロント企業は一斉に不渡りを出し、残された構成員は内部抗争と山岸組による『整理』によって散り散りになりました。再編の可能性は、限りなくゼロに近い」
「霧羽はどう動いた」
上座に座る理知的な眼鏡の男が、感情を排した声で問う。その名前が出た瞬間、室内の温度がわずかに下がったように感じられた。
「……直接的な関与は、一切確認されていません。通信傍受、Nシステムによる移動履歴、金融機関のログ、すべて白です。彼は事件の間、アパートと工事現場、そして馴染みのコンビニを往復していただけです。誰とも会わず、一通のメールすら送っていない」
「では、なぜこれほどの連鎖反応が起きた」
沈黙が会議室を支配する。誰もが理解していながら、言葉にすることを躊躇っていた。一人の分析官が、意を決したように口を開く。
「……『彼に手を出した』その事実そのものが、裏社会のアルゴリズムにとって致命的なエラーだった。そう判断せざるを得ません。霧羽という名は、今の秩序を形作っている多くの人間にとって『聖域』であり、同時に『触れたら終わる地雷』だった。彼を排除しようとする動きに対し、社会の自浄作用が、我々の想像を絶する速度で働いた……。オカルトじみていますが、これが現実です」
「馬鹿げている。一個人の存在が、国家の法や組織の理を上回るというのか」
その否定を、内藤が静かに遮った。
「馬鹿げているが、それが『レジェンド』と呼ばれる男の質量だ」
内藤は腕を組んだまま、モニターに映る霧羽の――相変わらず丸まった背中の写真を見つめていた。
「結論は出ているはずだ」
内藤の声が、会議室の空気をまとめ上げる。
「霧羽は、危険人物ではない」
ざわめきが起きた。「しかし、これほどの影響力は――」「彼がその気になれば、この国の警察機構すら――」
「影響力は『彼の意思』ではない」
内藤は断言した。
「彼は力を使わない。誇示もしない。周囲が勝手に彼を神格化し、勝手に守り、勝手に敵を排除する。彼自身はそれを止めることも、利用することもしない。ただ、そこに在るだけだ。彼を危険人物と定義することは、彼という『静かな均衡』を我々自身で壊すことに繋がる」
内藤が手元のタブレットを操作すると、資料の最終ページに赤い文字が刻印された。
【対象:霧羽】
危険度:低(攻撃的意思皆無)
影響度:極大(広域組織・行政への不可視の波及力)
対応方針:接触厳禁・監視継続・介入不可
「触れないこと。それが、この国が出せる最善の答えだ」
それが、国家という巨大なシステムの出した、一人の老人に対する「敗北宣言」に等しい結論だった。
会議後、重い扉を出た佐久間が、内藤の背中を追った。
「……内藤さん。正直、まだ納得できません。彼は世界を壊せる武器を持っている。それなのに、なぜあんなボロアパートで安酒を飲んでいられるんですか」
内藤は足を止め、窓の外、夕闇に染まり始めた霞が関の街並みを眺めた。
「佐久間、世界を壊せる人間が、壊す気がない。それが一番恐ろしいんだ。自制心という名の鎖を、自分で自分に巻きつけている男だ。その鎖が外れる瞬間を、俺はこの世の終わりと呼ぶことにしている」
「……それでも、彼はこれからも何もしないと?」
「ああ。だからこそ、彼は『霧羽』なんだ」
その頃、城東地区の再開発現場。
霧羽は、泥に汚れた作業服のまま、資材の片付けを終えていた。
「おっちゃん、今日も最後まで残ってくれたのか。助かるよ」
二十代の若い作業員が、明るく声をかけてくる。
「暇だからな。これくらいはやる」
「はは、相変わらずだな。明日も頼むぜ!」
霧羽は軽く手を上げると、現場の外へと歩き出した。
ポケットの中で、小銭がわずかに音を立てる。今日の日当だ。これで今夜も、安い酒と、温かいとは言えない惣菜が買える。
遠くで、パトカーのサイレンが鳴り響いている。
どこかで誰かが争い、誰かが法によって裁かれている。
霧羽は、一度もその音の方を振り返らなかった。かつて自分がその中心にいた頃の喧騒は、もう遠い記憶の地平に沈んでいる。
「……もう、俺の役目じゃない」
独り言のように、風の中に言葉を放り出す。
彼はかつて、一言で戦争を止め、一瞥で命を散らした「掃除屋」だった。
だが今の彼は、ただの労働者であり、名もなき群衆の一部だ。
夕陽が、彼の長く伸びた影をアスファルトに焼き付けていた。
過去という重荷を背負ったまま、それでも一歩一歩、確かな足取りで「表の世界」を歩き続ける。
伝説は終わった。
そして、一人の人間の「平凡な一日」が、また明日も続いていく。
それが彼にとっての、唯一の戦いであり、最大の救いだった。
霧羽の背中は、やがて夜の帳へと溶けて消えた。
誰も知らない平和を、その沈黙の中に残したまま。




