Ⅵ
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佳月は鏡を見ることが出来なくなっていた。
あれから自分が一体どんな顔をして今を生きているのだろうかと何度も考えた。安心したような、圧力から解放されたかのような、そんな嫌な顔をしている自分の矮小な姿が鏡の中にあったら、きっと正気を保てる気がしない。そう思っていた。
悪夢を見ることも多くなった。悪夢にうなされて、まだ未明である時に目を覚ますことが増えていた。だが妙なことに、まるでその夢の内容を覚えていないで、ただただ恐ろしいことだけは鮮明に、起きる時は必ず漠然とした強い恐怖とあまりにも苦しい動悸と息切れだけがあって、痛む心を感じて、悪夢だったのだと知る日々だった。
だから佳月はその日も眠れぬ夜を過ごしていた。
時計の針がそろって真上を向く頃ともなれば、殊更に部屋は驚くほど静かであった。
静けさの中に窮屈さを覚えて、佳月は息苦しく感じていた。窓を開けて冷めた夜風を浴びても、まるで見えない圧力が満遍なく佳月を四方八方から押し潰すようにあって、きっと深海に沈むことと同じようなものだろうかと漠然と思った。
耳鳴りすら忘れてしまうほどの、この息苦しさから逃げ出したい。そう思うことが常であって、その日は遂に堪え切れず部屋を飛び出して、夜の景色に逃げ込んだ。
「ここは…………」
気がつけば、いつのまにか学校の見慣れた屋上に立っていた。暗闇が辺りを満たしていて視界はまるで良くなかったが、暗闇との区別がつかないほど暗い遥か上空には三つほど際立って瞬く星があって、その隣には変に欠けた月があった。
辺りを見渡しても暗闇があるだけで、それは自らの足元すらまともに見ることがままならないほどの深さであった。
しかし、首を左右に振って見回すと、恐らく西の方の、その暗闇の遠くに光の群れがあって、それが学校の屋上から見渡した覚えのある街の形をしていたから、学校の屋上にいるのだと気がついたが、すぐさま冷たい風の鋭い音の中ではどうでもいいことになった。確か、あれから屋上の侵入は固く禁じられて、生徒が入り込まないように鍵も新しいものに変えられていた筈だが、自分がどうやって学校に侵入して、どうやって暗闇の中でここまできたの分からなかった。だが、それもすぐにどうでもいいことだと思うようになった。
どうやら靴も履かずに飛び出してきたから、足はコンクリートの冷たさに呑まれて立っている感覚はとうに消え去るように無くなって、それがまるで自分が幽霊になって暗闇の中に浮いているようだった。
ひょうひょうと音を立てて吹く風は語りかけているようにも思えた。
何を言っているのか分からないが、それが言葉の形を持ったとしても、あまり心は傾きも揺らぎも持たないのだろうと佳月は思った。
コンクリート地の屋上を歩く素足の音は軽いような、乾いたような音がした。風の音も合わさってか、なぜか寂しげに聞こえるのが佳月には不思議だった。
佳月はあの時に花緒がしたように柵を乗り越えて、縁に立った。下を見たがそこにはなにも見えず、あの桜の姿も見えず、ただ暗闇がどこまでも深くあるようだった。
「ねぇ、花緒。……見てる?」
呟いても応えはどこにもなかった。佳月にとっては、その沈黙がただ嫌だった。
振り返って柵を掴んで、手前の方を見た。そこにもやはり暗闇が広がっているだけで、何も見えなかった。きっとあの時の佳月と向かい合っていた花緒にもこう見えたに違いない。どうしてかそう思えた。
佳月は体を後ろに傾けて、そっと柵を掴んでいた手を離した。
ふらりとよろけた体は、花緒に押し倒された時のように、後ろにゆっくりと倒れて、次に縁を踏み締めていた両足の感覚も無くなった。
ふっと体が浮く。重さを忘れたような、時としてあまりにも軽やかな感覚が、何かから解き放たれたような心地よさを呼んだ。瞬く間のことではあったものの、何かふんわりと、薄い空気の膜のようなものに包まれる感覚さえあった。
だが不思議なことに、あぁこれでよかったのだと軽くなると同時に、得体の知れない重さがあった。暗闇へと引っ張られるような、押し込まれるような、一体その重みが何だったのか佳月は露知らず、思う程なくその体は深い闇の海に深く沈むよう落ちていって、そして見えなくなった。
夏の空に花火が開くような音が響き残ったのは、それから間もないことであった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これを読んで少し……、ほんの少し、心がモヤっとしていただいたのならば、上手くいったと思います。
もしそうならば嬉しいです。