Ⅴ
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「あの、一ノ瀬さんのことは本当に残念だったわね。クラスの中で貴方が一番仲が良かったものね。安い同情をするわけじゃないけど、心中お察しするわ」
一ノ瀬。その苗字に佳月は初めはぴんとはこなかった。魂が抜けているように、ただ呆然として窓の外に広がる景色を望んでいたままだったからか、それが花緒の苗字だったことに気がつくまで少しばかりの時を要した。
幻のような日から間もなくして、放課後に佳月を呼び止めたのは担任の浅原であった。
浅原は眼鏡をかけていて、年がら年中を数枚のジャージで過ごすほど飾り気のない『けったい』な女性で、三十路の独身であるにも関わらず、化粧などの身嗜みに頓着があるようには思えない、——悪くいえばだらしなく見える教師であった。
その性格も教師にしてはやけに暗く、口数も少なく、言葉運びは至極淡々としている。あまり子供好きとも、何かを教えるのが好きだという様子の全くない、なぜ教師になったのか皆目見当もつかない人間であった。
言ってしまえばまさしく、お洒落で快活な花緒とは正反対のような人間で、佳月は浅原のことをどうにも好きにはなれなかった。
「一体、……なんの用件ですか」
佳月と浅原の向かい合って座る二人しかいない狭い会議室に小さな声が響く。自然と出た言葉は酷く子供じみた意地っ張りなものだった。きっと眼前の人間には、とても強がってる子供に見えたことだろう。酷く惨めに見えるだろう。そう分かっていても、悪態をつくような姿勢はひたすらに佳月の意思に反して幼かった。
目の前の大人にはため息のひとつもなく、眼鏡の奥にあるその目つきがすっと軽いものに変わる。
「……そうね、貴方は賢いものね。回りくどいのは嫌いよね。ええ、分かったわ」
やけにもあっさりと身をひく、素っ気ない言葉。
気に食わない。佳月はそう思った。この大人はなんでもそうであった。あくまでも佳月は生徒であるのに、ふとした時にその仕切りを飛び越えてやってくる。その言葉はまるで事務的なのに、その冷静さの中には無機質を越えた何か同情のような、まるで佳月を鏡として見るような目があり、そしてその時、そこには必ず佳月はいない。
「単刀直入に訊きたいんだけど、貴方と一ノ瀬さんはどんな関係だったのかしら。場合によっては言いづらいこともあるだろうから言いたくなければ言わなくてもいいわ。もちろん、沈黙したからといって、貴方と彼女との関係を邪推することはないわ」
相も変わらず、担任の目は佳月を見ている様子はない。あれほど他人行儀だった会話の切り口の様子はどこやら、今はただ淡々と佳月の後ろの壁に質問しているようであった。
無遠慮。その言葉も浮かんだ。
「どうということもないです。普通に友達です」
「そうね。貴方達は確かに仲は良かったものね。なら、ご両親とは会ったことはあるかしら?」
「ないです。一度も」
「そう。一ノ瀬さんには他に仲が良かった子はいたかしら? 知らないなら想像でもいいわ」
「そんなこと分からないです」
「なら。貴方は一ノ瀬さんのことをどう思っていた——いいえ、いるのかしら?」
「…………。だからどうということもないです。友達でしたので、居なくなったのは辛いです。でもそれだけです」
「そうね。そういえば、確か式は家族間での執り行いだったみいね。どうにか顔合わせはしたいとは思わなかったのかしら?」
「っ、……特には思わなかったです」
「なら——」
「もういいですかっ……‼︎」
遂に佳月は苛立ちを抑えきれずに、浅原の言葉に被せるように声を張った。思っていたよりも大きな声が出たから、佳月は自分ながらに驚いたが、浅原は至極冷静な様子のままであった。
「この後に用事があるので帰ります……っ」
佳月はすぐさま逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。この空間からも、この人間からも、その全てから逃げ出したくて仕方がなかった。
佳月は乱暴に鞄を掴んで立ち上がって、戸の方へと踵を返した。浅原はただその様子をじっと見つめていたが、佳月が戸に手をかけたところで俄に、
「いいの、狭野さん。これは貴方のことよ」
と小さく言った。背中を突き刺すような言葉だった。
思わず佳月はその手を止める。
「……………………」
「これは一ノ瀬さんの話じゃない。貴方のことについての話よ」
横目で見やると、浅原はそっと眼鏡に手をやって、静かにそれを取って机の上に置いた。
佳月は少し驚いた。眼鏡を取った浅原の姿は麗しかった。もともとそれなりに端正な顔立ちではあると思っていたが、今は紛う事なく美しいと言えた。しかし、佳月が驚いたのはそれではなく、眼鏡を置いた彼女の姿はまるでひとりの少女のようであったからであった。どうしてか鏡の中の自分を見ているようだと佳月は思ってしまった。
「きっとその選択は間違いじゃないわ。でも、……少し嫌ね」
今までどこか遠くを見ているようだった大人の目が佳月の方を向く。
その時、初めてその人間と目があったような気がした。
*
気がつけば、ひぐらしの声が耳に入った。
あまりにも煩いものだから、日が落ちかけてもなおも暑いことに佳月は気が付かなかった。空気は酷く湿気ていて、額に浮かぶものが汗なのかどうかも分からないほどだった。
佳月は学舎から少し西に外れた方の、南に海が広く見える小高い山の、その中腹ほどにいた。うら淋しい道が上の方へと伸びていて、その道を辿っていた。道は獣道というものに近かった。足元は心地の悪い感触の砂利道であり、草木が手を伸ばすように道の両脇から生えていて、少し進行を妨げるようだった。
一週間経っても浅原の言葉は耳から離れなかった。水面に石を投げ込み、そこに幾つもの波紋が重なるようにして広がって水面が複雑に震えるように、たった一言が心を乱してならなかった。一体、何をすればこの蟠りが解けるだろうか。そう考えると間もなく、一つのことを思い浮かべた。
思い立ってから暫くした今であっても、佳月はこのことが正しいのか分からず、ただ漠然とした足取りで歩を進めていると、突如として視界が開けて、それは現れた。
大理石の柱が無数に並び、刈り取られた後の森のようなそれは、墓地であった。
墓地の入り口から整然と並べられた墓石たちの列の合間を九つほど奥に進んで、左に六つほど進んだところに、目的のものはあった。
「……………………」
眼下にひっそりと佇む墓石には、一ノ瀬、とよく知った名前があった。ここらでは珍しい苗字であったから、探し出すのは容易であり、いやに墓石が真新しいものだったから、間違いはないと確信を持った。
「……遅くなって、ごめん」
夕焼けの赤色の中、ひぐらしの声が遠く感じるほどの沈黙に耐えきれず、掠れた声で言葉を落とした。しかしながら、やはり応える声などもなく、虫の声が遠く思えるほど、きんと張り詰めた耳鳴りを覚える沈黙が深くあった。
何もちゃんとした供えるものも、墓を綺麗に掃除するものなどなかったから、手を合わせることほどしかなかった。
目を閉じて祈るよう俯くと、周りの音が大きく聞こえた。夕暮れは静けさの中にあるようで、それまでどうということのないありふれた雑音のような、虫の音や草木が微風に騒ぐ音が鮮明になって初めて耳に入ったようだった。
あとどれぐらい、こうやっていれば心が晴れるだろうか考えた。
そうしていると、ふと、
「あら」
と明確に声と分かる音が遠くに聞こえた。
目を開けると視界の端に人影があった。
横目に見るとそこにいたのは、初老の夫婦に見える男女二人であった。墓地に来るというのだから、顔色は暗く、聞こえた声もあまり穏やかなものではなかった。
二人のうち女性の方と目があった。女性は何かに気がついたようで、夫らしき男性に二言ほど発するよう口を動かして、男性は頷いた。
二人はゆっくりと佳月の元へとやってきて、女性の方が口を開いた。
「どうも、こんにちは」
「あっ……、こんにちは……」
「その制服、間違ってたら申し訳ないのだけど、もしかして花緒のお友達の子かしら?」
「………………はい。そうです。仲良くさせてもらいました」
「あらあらそうなのね。ありがとうね」
女性はあれほど暗かった顔色が嘘のように目元を綻ばせて微笑むと、はっとしたように口を開けて、
「あら、申し遅れてごめんなさいね。もう何となく分かるでしょうけど私達は花緒の親なの。一年経った今でもお墓参りに来てくれるなんて優しい子ね。本当にありがとうね」
「いえ、そんな……」
やはりそうかと佳月は思った。茶色の髪とその目元が母親で、細い眉と通った鼻筋は父親譲りなのだろう。夫婦は共にどこか花緒と似ていた。花緒は自分のことを語らがらなかったから花緒の家族についても佳月は知らなかった。だからこのことは新しい驚きと嫌な納得があった。父は寡黙そうであり、母の方が饒舌な様子なのが、どちらかといえば母親に似ているのだろう。そうとも思った。
するとどうしてか、
「……花緒さんはご家庭ではどんなことを?」
と思わず口をついて言葉が出てしまった。あまりにも突飛で無遠慮で、間の悪い質問だったろうかと佳月は肝を冷やしたが、しかし母親は何一つとして嫌な顔をすることなく、嬉しげに声を弾ませて矢継ぎ早に多くのことを語った。花緒の家での様子や、その時に花緒が話した学校での出来事、佳月も知らなかった花緒の幼い頃の話などを聞いた。
話の中には恐らく佳月のことだろうと思われる内容が多く、その話を母親の口から一つ一つ聞く度に、その時のことを思い出して佳月は泣き出しそうであった。
全てを話し終えた時、母親はいたく満足げであった。心の奥に溜まっていたものを全て吐ききった。そう言うようだった。
「これほどあの子を想ってくれた子がいて嬉しいわ。きっとあの子も報われる筈だわ。——もしよければだけれども、あなたのお名前を教えてもらっていいかしら?」
「私は、……狭野佳月です」
言い切ると同時に佳月はしまったと思った。そう思った理由は定かではなかったが、嫌な予感がした。
案の定、佳月が名乗った瞬間に、空気が一瞬冷え固まったようだった。
そして、あんなにも穏やかだった母親の血相が、まるで色が滲むようにみるみると移り変わっていくのが見えた。
「あぁ、そう……。あんたが……、あんたが佳月……」
そうぶつぶつと小さく呟きながら母親は佳月に近寄って、
「あんたがやったのねっ⁉︎」
「ぐっ……!」
重い怒声が耳を打ち、母親の両腕が佳月の首に伸びて、ぐっと力が篭った。息が吸いたくとも空気の塊が喉元で詰まって苦しく、行き場を失った血が頬あたりに溜まってか、佳月はかあっと首と顔が熱を帯びるのを感じた。
しかしそれも一瞬のことで、
「やめないかっ!」
父親の強い声と共に肩を抱かれ、母親ははっとしたように身を固めた。
「彼女になぜ助けてやらなかったと責めるのならば、私たちは一体何だって言うんだ。……それを言うなら、いのいちに責められるべきは私達だろう。親でありながら何もできなかった私達とは違い、彼女に罪はない。あれから沢山話しをて、母さんももう分かっているだろう」
悲しいほど優しい言葉に、強張っていた母親の両腕は力無く垂れ下がり、佳月の首からするりと離れた。ほどない沈黙の末に、嗚咽が聞こえ始め、「ごめんなさい……、ごめんなさい……」と繰り返し言っていた。この嗚咽も酷く力無いものだった。
父親は震える母親を墓園の片隅にある長椅子に座らせると佳月の元に寄った。迷いのない足取りに驚いて佳月は二歩ほど後退りするが、父親にそのようなつもりはないようだった。
父は佳月から三歩ほど離れたところに立って眉を申し訳なさそうに歪めて、おもむろに父は爪先と踵を揃えて深々と頭を下げた。そこに威厳はなかったが、確かに悲しいほどの強さがあった。
佳月が大人が頭を下げるのを見るのは初めてだった。佳月はどう受け止めればいいのか分からずに戸惑い、
「あ、頭を上げてくださ——」
慌てた拍子にそこまで言って佳月は口をつぐんだ。
この言葉は違う。望んでいるのはこの言葉ではない。そう思うと同時に、どう言葉にすればいいのか全く見当もつかない歯痒さと居心地の悪さがあった。
「本当に、家内がすまない。分かってやってくれと声を大きくは言えない。だが、どうか大事にはしないでくれないだろうか」
「は、はい……私は大丈夫ですので、お気になさらず」
「それは良かった。ありがとう……」と安心したように呟き、
「よければだが、少し話をしないかい?」
と言われ、
「………………」
佳月は断れぬまま小さく肯首した。
花緒の両親は近くまで車できたらしく、花緒の父親は魂が抜けたようにぼうと佇む母親を車の方へ連れて行ったあと、先ほどまで母親が座っていた長椅子に佳月と共に腰を下ろした。「暑い中、若い子を付き合わせて申し訳ない」と自動販売機で買ったペットボトルのお茶を貰ったが、どうしようもなく飲むのが憚られて、未開封のままの冷えたボトルから滴った水滴が握りしめる手の上に滑り落ちるだけだった。
「君が佳月くんだったんだね」
「……はい。……気に障ることをしてしまってすみません」
「いやいや、いいんだ。君が気にすることはない」
はっは、と父親は軽く笑った。彼の皺の深い目尻を見ていると、また気を使わせてしまったと思い、佳月は居た堪れなく身が縮む思いであった。
「さて本題なのだが——」と父親は改めて、
「そのだね…………。こんなことを言っておいて強いことは言えないのだが、私も初めは君を憎んだんだ。本当にすまない。なぜ一番身近にいながら、何もしてやらなかったのだと怒ったんだ」
斜め左にある墓石を見つめながら、だが、と静かな瞳のまま続けて、
「思い返せば花緒は、——あの子は君のことを心底気に入っていた。あの子は友達というものを私達に紹介したがらなかったからよく知らなかったのだが——、唯一、佳月という一番の友達がいるのだと、しきりに言っていた。きっと私達には分からない、温かい時間を過ごしてきたのだろう。そう思えるほどあの子が笑顔で帰ってくることが殆どだった」
過去を思い返しているのか、父親の顔が柔らかく見えた。しかしそれも一瞬のような短さのことで、父親の眉間に皺が寄った。祈るように向かい合わせで組まれた大きく無骨な男の両手に、ぎゅっと力が入るのを佳月は見逃せなかった。
「だからこそ、あの子に幸せな時間を与えてくれた君を恨むのも馬鹿らしいことだと、ほどなくして気がついた。——だがしかし同時に、それならば私達が知らないあの子の辛さを君に打ち明けていたのではないか、そうも思った。何か心当たりはないだろうか。あったからと言って君を責めるつもりは毛頭ない。もう怖がらなくてもいい。出来る限りでいいから、どうか何も知らない私達にも教えてくれないだろうか。それだけは知っておきたいんだ。頼む」
強い瞳に見据えられて、佳月はたまらず目を横に逸らした。それでも逃そうとしない視線に当てられて、無意識的に右手で左腕を抱くように寄せ、唇を強く噛む。
「正直私もよくわかりません。今になって思えば、か、——っ花緒さんがそういうサインをしていたのではないかと思うことばかりです。それ以外は本当に何もできませんでした。わかりませんでした。………………すみません」
「そうか——」
そう呟くと父親は一度、天を仰ぐように顔を上げて、そして下ろして、
「ありがとう」
そう言葉をこぼした。その時の、半ばほど茜に染められた父親の顔は、付き物が取れたような、恨めしいような、失望したような、微笑んでいるような、あまりにも複雑な表情で、佳月にはその正体が掴めなかった。
それから父親と言葉をいくつか交わした。緊張からか佳月はその時話したことをまるで覚えていなかった。ただ、花緒の父親は「そうか……、そうか……」と口に含んで吟味するように相槌を打って、染み染みという言葉がふさわしいほど静かに聞いていたことだけは、目に焼き付くより遥かに鮮明に覚えていた。
その後、父親達と別れた頃には、ふと見ればもう星が見えそうな空であった。