Ⅳ
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その日は急な雨であった。まるで梅雨を忘れさせぬというように突如として降り始めた雨は強かで、大きな音を伴って乾いた空気を瞬く間に濡らした。
誰しもが雨なんて降ると露ほども思ってはいなかったからだろうか。ぶっきらぼうに、あるいは不機嫌そうに、またあるいは笑い合いながら人々は、鞄や両腕、上着などで体を雨から守り、逃れるように小走りだった。
確かに、朝方に見た予報では晴れと言っていた筈である。柔らかな髪が潰れて可愛くないと雨を嫌っていた花緒が濡れることを許したのだから、佳月はこれが突拍子もない天気雨なのだとすぐに気がついた。
とはいえ、少し前から空は不機嫌そうな曇り空であり、二人は帰る頃には降りそうだと話したのだが、悪い予感は得てして当たるように、果たして学校に近い佳月の家に逃げ込む形となった。
「ふぃー、突然の雨ってほんとに嫌になっちゃうね」
唇を尖らせながらスカートの右裾を絞る花緒の、猛雨でしとどになったその姿は魅力的なものだった。額や頸、その横顔に雨の重さに枝垂れた髪が柔らかに張り付き、それがいやに艶かしく、花緒は着痩せする方であったから、半透明に透けて肌に張り付いた制服のブラウスの膨らみは目のやり場に困る。
その明け透けとも窺える姿に、近くに異性がいなくてよかったと心中で安堵するとともに、この姿は今は私だけが目にしていて、そしてその姿を私に見られることを許しているのだと佳月の胸は妙に打ち振るえた。だからこそ、頬の熱りは雨によるものではないのだと佳月は己の確信を疑うことはなかった。
髪の水気をバスタオルで押し挟むようにして取っている花緒を横目に、佳月はベットに腰を下ろして、ざあざあとさんざめく雨達の音と、窓に当たっては不規則に表面を伝うその粒を見つめて、
「変な噂が流れてるみたい」
「ん、変な噂って?」
「…………、私と花緒が互いの体を慰め合う関係なんだってさ」
「あっははなにそれ。一体どういう噂なのそれ」
「分からない。変な冷やかしだと思うけど、花緒は可愛くて人当たりが良くて、よくモテるから妬んだ女子の嫌がらせかも」
「なにそれ、それを言ったら佳月もでしょ。眼鏡外してから告白されまくってるじゃん。むしろそっちかもよー?」
「それはない。私は花緒みたいな目立つ華はないし、告白されると言っても数えるほどで、花緒のそれとは全く違うよ」
「またそうやって自分を貶すー。佳月の悪い癖だよー」
言いながら花緒は唇を尖らせて髪を乾かしていたが、ふと手を止めて、佳月のすぐ隣に腰を下ろした。
「にしても体を慰め合う関係、ね。そういう関係も世の中にはありふれてたりするんだろうね」
と花緒は呟くように言い、「そうだね」と佳月は生ぬるい返事を返した。
それから黙々と二人は髪を乾かしていたが、花緒の方が先にその手を止めて、
「ねぇ佳月……」
と呼びかけた。いつもの鈴を転がすような軽やかな声ではなく、少し艶やかな声色のような気がした。
「何? どうしたの?」
「私は好きだよ。佳月のこと。友達としても、仮に……そうじゃなくても」
揶揄うにしてもタチが悪いよと言いかけて、花緒の表情を目にした佳月は開きかけた口をつぐんだ。
「佳月は——どう?」
「……うん、私も好きだよ。花緒のこと好きだよ」
「そっか」
呟くように言葉を溢して、花緒は佳月の方を見た。釣られて佳月も花緒の方を見ると視線が噛み合った。花緒の双眸は濡れそぼって震えていて、それが近づいた。どうしてか、佳月は自然と目を閉じた。
暗闇の中で唇に柔らかい感触があって、そこから桜の匂いが辺りに散った。
無言のまま花緒は佳月の両肩をとんと押した。佳月はその力のままに押し倒されて、その体はいとも簡単にベットの上に落ちた。
両の手首を掴まれ、押さえ込まれたが、佳月はそれを振り解かず、ただ伏し目がちに目を開いて、花緒を見つめていた。
「ねぇ、何か言ってよ」
花緒の手は震えていて、その手を止めようともしない。彼女の大きな瞳が、彼女の胸の内にある欠けてしまった器から、潤いを吸い取るように湿っているのを見ていると、情けないことに佳月の方が先に泣き出しそうだった。
「花緒。私、怖くない。全部が怖くないよ」
花緒の双眸を強く見つめて、佳月が小さく言い放つと、彼女は一度僅かに目を見開き、すぐさま細く鋭くして、白い肩を庇うように体を小さく窄めた。何かを怯えるようぱっと手を離した彼女の、その華奢で小柄な体躯が佳月には消え入って見えなくなりそうだった。
「嘘つき。ずるいよ、そんなの……」
彼女は幅の狭い小さな足取りで扉の方へ行って、遂には扉の奥に消えてしまって、影すら見えなくなった。
「待って……!」
佳月は慌てて手を伸ばしたが、その時初めて、虚空へ伸ばした自分の手が花緒よりも震えていたのに気がついた。
*
あの雨の日以来、佳月は花緒と疎遠になっていた。
佳月は何度かよりを戻そうと花緒に話しかけたが、花緒の方が振り向いてはくれなかった。佳月が話しかけてもまるで無視を貫いて、恰も佳月が存在しないような素振りであった。佳月の家に来ることもなく、花緒と過ごした日々がまるで嘘のように思えるほどであった。
するとある日の放課後のこと。日も暮れて辺りが暗くなった頃に花緒に屋上に呼び出された。あまりにも急だったから佳月は驚いたが、この機会を逃せば次はないように思えて、慌てて向かった。
佳月が到着する頃には、もう日は殆ど落ちきっていて、辛うじて人の顔が判別出来るぐらいの明るさであった。
花緒は先に来ているのか、屋上の鍵は空いていた。恐る恐る戸を開けると、果たしてそこに彼女は背を向けて佇んでいた。
彼女は佳月に背を向けたまま、ちらりと一瞥して、
「来たんだ」
と短く言った。佳月の知る花緒とはかけ離れて、声が冷たかった。一瞬向けられた瞳も無機質なようで、佳月の背筋はぞくりと震えた。
「花緒は、……私と友達でいるのが嫌なの?」
「ううん。嫌じゃなよ」
「だったらなんで——」
「なんで、じゃないよ。それを言いたいのは寧ろ私の方だよ」
ぴしゃりと佳月の言葉を遮るようにして花緒は言った。
花緒が徐に振り返って、佳月は息を呑んだ。先程の一瞥では見えなかったが、花緒は泣いていた。どうしようもなく涙が溢れ出てとめどないというように泣いていた。
咄嗟にかける言葉が見つからなくて、佳月が黙りこくると、今度は花緒の方が口を開いた。
「あの時と同じことをもう一度訊きたいんだけど。佳月は私のこと好き?」
「好きだよ」
「本当に?」
「……好きだよ。本当に好きだってっ!」
「じゃあ、なんで佳月も泣いてるの?」
はっとして、佳月は頬を拭った。
嘘だと信じたかったが、頬を拭った掌は濡れて薄明かりに光っていた。
何度拭っても、それは止まることも無くなることもなかった。
「……ふざけてるよこんなの」
「ふざけてないよ。至って普通だよ」
涙を振り払おうともがく佳月を見つめる花緒は酷く哀しげな笑顔であった。嘲笑するような苦笑であったが、それは佳月に向けられたものではないようであった。だがその笑顔が今の佳月には煩わしく思えた。なぜこんな時に笑えるのか。佳月には分からなかった。その笑顔がどれほど信用できるものなのか分からなかった。
「私には分からないよっ……!」
佳月はいやいやと駄々をこねる子供のように、力いっぱいにかぶりを振った。髪が大きく乱れても、佳月はやめなかった。
「そうだね。本当に分からないね。私達二人は、良いか悪いかで言えば……、良いよ。でも、正しいか正しくないかと言えば、正しくないんだよ。普通でもないんだよ。きっと」
花緒は悲痛な微笑みのまま、佳月のもとから更に離れて、屋上の端の方へと寄って、
「さっきの質問で分かったよ。やっぱり佳月は何も間違ってない。私の方がおかしいって確信を持てた。きっと佳月が正しいから私にとっては間違ってて、上手く考えられない」
花緒は屋上の端に並ぶ柵を乗り越えて、その向こう側の縁に立った。
花緒が何をしようとしてるのか分かりたくもながったが、嫌な予感だけがそこはあって、佳月は無闇に言葉を発することが怖くなった。自分の一声が何かの引き金を引いてしまうように思えてただただ恐ろしかった。
「私はね。佳月に愛して欲しかった。なのに佳月はそうじゃなかった。初めはなんでって思って悲しかったけど、少しして佳月の方が正しいんだって分かった。あぁ、私の方がおかしいんだって分かっちゃったんだ」
花緒は失敗しちゃったと肩をすくめた。風が吹いて花緒の制服がばたばたと音を立ててはためく度に、佳月の心臓は苦しいほどに鼓動を速くした。
「私は佳月に捨てられるのがとても怖い。佳月を求めたら、きっと怖がって離れていっちゃうんだろうなと思うと怖くてたまらない。だったら、いっそ消えてしまっても良いと思っちゃうくらいに。だからね——」
花緒は手を振っていた。その表情はいつもの花緒らしい朗らかな笑みだった。
「見ててね佳月」
花緒がそう言った。
「嫌っ……!」
どうにか花緒の言葉を否定したくて、佳月は反射的にぎゅっと目を瞑った。
しかしそれ以上、花緒の声は聞こえなくて、少しして、どん、と打ち上げ花火のような、大きく綺麗な音がした。
音に驚いて佳月はびくりと体を震わせる。目を開けるとそこに花緒はいなかった。
「……花緒?」
どこにいったのか初めは分からなかった。あるいはそう信じたくなかったのかもしれない。しかし程なくして、実感というものが追いついて、どうしようもなく体が震えて止まらなかった。どうすればいいのか佳月には分からなかった。足がすくんで動けなかった。
ふと、ひょうと鋭い音と共に風が耳元を通り過ぎた。
「ひっ……! あぁ、う……」
暗闇の中で、次はお前だと風が言っているようであった。途端に竦んでいた足に力が入って、佳月はぼんやりと灯る非常口を示す灯の元へと駆け出した。
家に帰るまでに何度躓き、そして何度転んだことだろうか。足元が既に暗闇だったからよく見えなかったという故もあったが、それ以上に足元が覚束なく頼りないものだったからだった。
掌や腕には痛ましい無数の擦り傷が出来ていた。血の気が引いて冷えた体には、その傷の鋭い痛みが温かく感じて、異様に心地が良かった。
まだ息が苦しいほどに荒かったから、窓から差し込む薄明かりを頼りに辿々しい足取りでキッチンへと向かい、震える両手のままグラスに水を注いで、並々となったそれをぐっと一息に嚥下した。たった一杯のものだったが、佳月はそれだけで憑き物がどっと落ちたような気がした。
しかし、張り詰めていた緊張の糸が切れて、溜めているたものが一気に溢れ返るように、途端に吐き気を催した。まずいと思うものの、時はすでに遅く堪えきれず、そのまま胃の中にあるものを全て吐き出してしまった。
伽藍堂だったシンクの中に甘酸っぱい匂いが広がって、鼻がつんと痛んだ。たまらなく気分が悪かった。
息も苦しげに喉を鳴らしたまま、くたりと壁に背を預けて座り込むと、ぼんやりとした視界の中に、机の下に小さな紙袋が置いてあったのが見えた。
佳月はそんなものを買った覚えはなかったが、その紙袋は見覚えのあるパッケージのもので、花緒が買った化粧品のものだとすぐに分かった。
震える足のままなんとか机にまで辿り着き、まるで隠すように置かれていた紙袋を見ると、果たして中身は化粧品であった。紙袋の中にあった見覚えのある細長い箱を開けると、これも見覚えのある薄桃色の円柱があった。
「ぅ、あっ……」
佳月の誕生日に花緒が贈ったものと全く同じで、真新しいリップクリームがあった。
よく見ると紙袋の中には一枚のカードが入っていて、そこには短く、
『これを見てるってことは、多分私は来年はお祝い出来ないだろうから、プレゼントは今、渡しておくね。ごめんね』
と花緒らしく丸い筆跡で書いてあった。
佳月は呆然としたまま、リップクリームの蓋を恐る恐る開けると悲しいほど小さく、ぽんと音がした。捉えようによっては間の抜けたような音が、確かに何か抜け落ちてしまったように聞こえて、佳月が慌ててすがるように鼻先を近づけると、そこにはあの時のようなものはもう感じられなかった。
佳月は全身の力が抜け落ちるようにして、鳶座りにへたり込んだ。
そしてしばらくは静かに虚空を見つめていたが、徐に嗚咽に似たものが喉奥からこぼれ始め、いつのまにか堰を切って溢れるように、声は悲痛でとめどなく、涙は際限ないようになった。
泣き枯れてもう一滴も涙も出ず、声も出ないという頃に、眩い光が佳月の目を刺した。反射的に目を窄めて、それがカーテンの隙間より溢れ出ている朝日の斜光なのだと気がついた。
不思議なことに、あれほど悲しかった筈であるのに、心はすっと落ち着きはらしていた。それは心地よいものではなく、虚無というものに限りなく近しいものであり、もうなにも考えることは出来なくなってしまった。
腫らした目元の熱を残して、何もかもが消え去ってしまったようだった。