Ⅲ
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夏も半ばに差し掛かった朝は思ったよりも日が登るのが早く、しかし時の流れは緩やかなようで、すっと静かな夜のその残り香のような空気の中に、向こうに見える山陰より日が面を徐に擡げて、白む光をゆっくりと放とうとしていた。
一体その様子をどのぐらい眺めていただろうか。カーテンの合間から差し込む薄明光線のような光が、ほんの少し前まで部屋の奥の壁を白く輝かせていたのに、気がつけば既に窓際にいる佳月達の足元までやってきていた。
「ねぇ……」
「ん、なぁに?」
「……手、繋いでよ」
囁くような小声に花緒は目を瞬かせる。
「どういう心境の変化? 子供みたいでやだって前は言ってなかった?」
「色々あったの。色々とあって、それで少し成長した。多分」
言い切ってから少しの間をおいて、佳月は顔を赤らめた。付け足すようにして、「やっぱりいまのは無しで」と吃ると、花緒が佳月に背中を向けて、なだらかな肩が小さく震えた。
「ちょっと、恥ずかしいから笑わないでよ……」
佳月が肘でその小さな背中を幾つか小突くと、目尻に光るものを湛えながら「ごめんごめん」と花緒は小さく手を振った。「もう」と言いながら佳月は僅かに腰を浮かして体を寄せ、
「寒いから早くしてよ……」
「ん、そうだね。ちょっと寒いかも」
内に含むように言って、指を絡めるようにして佳月の手を取った。
「今年の夏はなにしよっか。昨日みたいに、ただのおしゃべりをしてるだけで夜が明けちゃうんだから、一年なんてあっという間だよ」
「それ去年も同じこと言ってなかった?」
「言ったね〜。思えばもう一年経ったんだ。早いね」
「確かに、怖いくらい早い」
佳月の家に花緒が上がり込むことは多くなった。もともと佳月は一人暮らしであったから家に家族がいるからと困ることはない。面白いほど居心地が良いと花緒は足げよく通い、その内に寝食を共にすることも少なく無くなってきていた。
そのお陰か、互いの距離はおおよそ姉妹に似たようなものになってきていて、佳月はその感覚をとても心地く思った。より親しくなったから、互いの好みも良く分かって、月曜の夕食は佳月の好みであるあっさりとしたパスタで、金曜のそれは必ず花緒の好物である魚介カレーを食べると決めていた。
花緒がカレーが好きな理由というものが、第一に味が好きなのはともかく、一度に大量に作れて、尚且つその大量のものを作り置きをしてもあまり味が損なわれないというところにあった。つまりは花緒は面倒くさがりなのだと気がついた。
それなりに行動を共にすればそういう事柄に気がつくことが多くなっていた。
花緒曰く、魚介カレーには有頭の海老と輪切りの烏賊、程よい大きさの浅蜊とムール貝、そして小さめの帆立に玉葱は絶対に欠かせない食材らしく、佳月にはあまりよく分からなかったが味付けにも深いこだわりがあるようだった。
めんどくさがりだが、そのくせ好きなことには特にこだわりがある。あまりにも花緒らしいと佳月は思った。
朝昼晩と料理をするのは気が重いと毎度のように花緒が言うから、その日の二人も朝から多めにカレーを作ることにした。朝から晩までカレーであるのは、最初こそ堪えた佳月だったが、慣れると案外悪くないものであった。
「うひゃー、目に沁みるー」
花緒はあまり料理をするのは得意ではないらしく、その勝手を良く知っているものの、その悉くが辿々しいようだった。ちまちまと玉ねぎを切るのが遅いものだから、すぐに目に沁みたらしく、ぱたぱたと足踏みをして目の痛みを堪える姿が子供っぽくて愛おしいようだった。
「ほら、包丁を貸して。私がやっておくから」
「あー、佳月ありがとー。助かるー」
花緒とは対照的に佳月は一人暮らしの時期が長かったから、料理は得意だった。花緒から包丁を受け取って軽快な手つきで切り始めたものの、すでに切られていた玉ねぎのせいで果たして目が痛んだ。
「ん、少し沁みる……」
佳月が眼鏡をとって傍にあった調味料台に置いて、涙の溜まった目を拭うと、滲んだ視界の下側にひょっこりと花緒の顔が現れて、下から覗き込むようにして佳月の顔をまじまじと見つめた。あまりにも強く注視するものだから、もとよりくりくりとした大きな瞳がより一層大きく見開かれていて、明るい薄茶色の飴玉のような可憐な虹彩が艶やかに光っているように見えた。
佳月は眼鏡を掛け直して、
「な、なに?」
「いやー、前々から思ってたけど、佳月って美人さんだよねって思って」
「そ、そんなことない……」
「ねぇねぇ、眼鏡取ってみたら?」
「い、嫌だよ。見えなくなるし」
「だったらコンタクトでいいじゃん」
「それも嫌だよ。目が乾いて痛くなるし、……眼鏡がないとなんか恥ずかしい」
似たような問答を数回繰り返しても、尚もやだと渋ると花緒の頬が不機嫌そうにむくれていたった。花緒は一度機嫌が悪くなると一向に直らないから、仕方がないと佳月は諦めて、
「……………………ん。……………………こう?」
言われた通り佳月は眼鏡のフレームに手をやって、一瞬だけ躊躇うようにぴくりと手を震わせ、そして観念したように眼鏡をそっと外した。少し俯きながら外したから耳に掛けていた横髪が垂れ落ちて揺れた。
「うん、そう。折角綺麗なのに、眼鏡で隠すのは勿体無いよ」
上目遣いに佳月を見上げる花緒はそっと佳月の頬に両手を遣って、
「ほら、顔をあげて、こっちを見て?」
気恥ずかしさから足元に逸らしていた目を恐る恐る花緒の方へと向ける。すると視線が噛み合って、花緒は口元を柔らかく綻ばせた。
「うん。やっぱり美人さん」
互いの鼻がつくほどの距離で見つめられて、佳月は顔を赤くした。もとより裸眼というものを何故か恥ずかしく感じていたから、そのせいでもあった。
あっそうだ、と呟いて花緒はぱたぱたと小走りにリビングの方へと行って、ぼんやりとした視界の中で、彼女が着ていた薄茶色のカーディガンの裾が揺れて、遠ざかっていった。
暫くして彼女は同じようにぱたぱたと足音を鳴らして戻ってきて、その手には小さな紙袋があった。
「じゃーん!」
と言って彼女は両手でそれを掲げて、なんだろうと佳月は思って眼鏡をかけてみると、それは化粧品店の紙袋であった。確かその店はかなりの高級な類のもので、花緒のお気に入りの店のものだ。
「どうしたのそれ」
「ふふーん、これは佳月へのプレゼントッ! いつも家に上がらせてもらってるからね。そのお返しに少しでもって思って。普段使い出来るものを買ってみたよ」
「花緒……」
気恥ずかしそうに彼女ははにかんだ。
花緒はサプライズというものが好きで、良くプレゼントを贈ろうとしてくるが、佳月の方がプレゼントは貰うのが気がひけると躊躇っていたから、実際に花緒からプレゼントを貰うことは少なかった。だから花緒がプレゼントをするのは年に一回だけと決まっていて、それは佳月の誕生日であった。
正直なところ、佳月は自分の誕生日にさえ無頓着であったから、今日が誕生日であったことさえ忘れていた。思い返せば去年にもそのことで花緒に怒られたのだが、全く成長していなかったなと佳月は内心で苦笑いを溢した。
花緒は紙袋の中から、いかにも高級そうな細長い箱を取り出し、またその中から薄桃色をした細長い円柱のものを取り出した。初めはそれがなんだったかわからなかったが、花緒が自らの唇をとんとんと叩いて、やっとそれがリップクリームなのだと気がついた。唇を叩いたからといって、口紅の可能性も捨てきれなかったが、学校での化粧は許されていなかったから、それがリップクリームなのだと気がつけた。
「試しに私が塗ってあげるね」と花緒は佳月に近寄りながらキャップを外して本体を捻ってリップクリームを押し出した。佳月の手前で足を止めると、花緒は踵をそっと浮かせて、その視線より少し高い位置にある佳月の唇に塗りつけた。どうしてか、無意識的に瞼を下ろした佳月の、その暗闇で満たされた世界の中で、唇を左から右へと滑る淀みない動きに釣られて、柔らかで覚えのある匂いが横切った。
「……あっ、これ桜の匂い」
思わず目を開いてそう呟くと花緒の表情が一瞬の驚きを挟んで、そしてその緊張をほぐすように笑みの形に和らいだのが見えた。
「当たり。佳月、桜の匂いが好きだって言ってたでしょ? ちゃんと覚えてるよ」
サプライズ成功と花緒は笑った。いつもと同じように呆れるほど爛漫な破顔。鈴を転がすかのように軽やかで、しかし内に含むような静かな笑い声。心なしか今日という日にはそれが一際、輝いているようだった。