I
いつかに書いたもの。
少し重めの、やりきれない話。
p.s.行間開けてないから読みづらいかもです。
言ってくれれば多分開けます。
Ⅰ
あの子のことを思い出す時、まず佳月は唇のことを思い出した。
それはあの子——、花緒が魅力的な唇をしていたからであって、その彼女から一つのリップクリームを贈ってもらったことがあったからだった。
花緒という少女は明朗な性格であった。人当たりが良く、口数も多く、彼女から話題を持ちかけることも、言葉の往復も多くあったから、彼女は人に好かれていた。
佳月は彼女と長い間を過ごした。だが不思議なことに彼女について知ることはあまりにも少なかった。彼女との間には絶対的な距離があって、それは深い溝のようであった。
*
佳月と花緒とはいつのまにか仲良くなったという不思議な関係だった。初めは入学式のことで、例年より桜の開花が少し遅れて、ちょうどよく入学式と同じ時に桜の色が溢れた時であった。
昼下がり。長く思えた入学式も終わり、暇な時間があったからまだ見慣れぬ学舎を巡っていると、佳月は校舎の外れに一際大きな桜を見つけた。
新入と共に渡されたパンフレットによれば見慣れぬ学舎は最近になって大幅な改装を施したらしく、真新しい白さのあるそれは山と隣り合わせになるように三棟あって、その三つは麓の流れに沿って、文字通り三の字に並んでいた。その中の一番山に近いものの離れの、目立たぬ位置にひっそりと桜はあった。
大きな桜と言っても、あまり見栄えは良く無いもので、不思議なことに年功を積んだ古木というよりは、時の流れに取り残されて燻んでしまった老木というように佳月には映った。
普通、こういった季節の大きな桜の周りには少なくとも人が幾つか集り、花見でもするものだと佳月は思っていたが、幹が乾いてぼろぼろと朽ちているような桜の足元には整えられた様子はなく、起伏が荒い地面に埋め尽くすよう雑草が生え散らかっていた。
確か校舎は山から離れるほど真新しいものだったから、様子から思うに、この桜は一番古くからあるものだろう。新しい校舎が建ち、物理的な距離が離れていく度に、まるで色が抜け落ちるよう、どんどんと人が離れていったものなのだろうと佳月は思った。人の気配がまるで無いのも頷けるものであった。
佳月は散り初めの色を見せる桜の根元へと寄った。不思議なことに、遠目から見た桜は甚く古ぼけて見えたが、見上げた桜の枝先に開く花々は瑞々しく、はっきりとしていた。風がそよぐ度に花びらがさわさわと心地よい音を立てて揺れていて、花びら達の隙間からは無数の陽の光が溢れて降っていて、木漏れ日のようだった。
佳月は見上げるようにしてその天蓋のような桃色の姿をほうと眺めていると、その背後から、
「桜、好きなの?」
と声があった。驚いて振り返ると、そこには一人の少女がいた。佳月と同じ制服を纏っていて、その年齢では平均的な背丈である佳月より背が低く華奢で、肩ほどまで伸びた明るい茶髪が桜の枝の合間より漏れ出る日差しに照らされて光って、なによりも印象的であった。
じっと猫のように佳月を見つめる少女に思わず肩が竦む。何か言葉を返さなければと佳月は慌てふためいて、
「えっ、……えっと。うん、特に匂いが好き」
「ふふっ。よかったぁ、私も桜好きなんだ。——そのタイの色、同じ一年だよね。私、花緒。あなたは名前、なんて言うの?」
「わ、私……、佳月。……狭野佳月」
肩を縮める佳月に彼女はいい名前だねと笑いかけて、隣ごめんねと言うと共に、スカートの裾を押さえながら、佳月の少し横にあった、地中から飛び出してしまったのだろう桜の根らしきものに腰を下ろして、
「突然話しかけちゃってごめんね。私、緊張であんまり馴染めなくてふらふらしてたら、おんなじ感じに馴染めてなさそうだなーって思って、つい声かけちゃった」
花緒という少女はころころと可愛らしく笑った。彼女のその時の様子を佳月は忘れられないと思った。
線が細く、少年と少女の中間を彷徨う彼女の顔立ちは端正にまとまっていた。愛らしく波打った前髪は左右に柔らかく分かれているから、丸く小さく幼気な額がその下にある大きな双眸と共によく上目遣いに佳月を見据えていた。すっと通っているものの、少女らしい鼻は低すぎない、ほどよい高さで、なによりも艶やかで皺一つ見つからない小ぶりな唇は、比喩ばかりだと思っていた桜色のそれという物の実在を佳月に教えてくれていた。
佳月も花緒に劣らず端正な顔立ちではあったが、いかんせん、その時は野暮ったく重く見える黒縁の眼鏡をかけていたからか、その風貌に花緒のような華はなかった。その逆に花緒はまるで見えない輝きを纏っているように見えた。
「私達、仲良くなれるといいね」
「うん、……うん」
その光を知りたい。そう思い始めたのが始まりか、それから佳月は惹かれるようにして花緒と親しくなっていった。
それから、桜の下で幾つか言葉を交わすと、更に惹かれていく感触が佳月の中にはあった。彼女が笑いかけるたびに、佳月の中に一つ一つと幼い火のようなものが灯るのを感じていた。彼女に笑いかけられる度に、やはり違うと思うようにもなった。
佳月は人見知りであり、会話というものを嫌う方だった。人と会話をするぐらいならば、孤独を呑むことの方が気楽な性分だったが、しかし花緒と話すその時ばかりはどうしてか、会話というものが嫌いにはなれなかった。