【第7話】餞の誓い
【第7話】
──私が貴女になるならば、貴女は貴女に成るのでしょうか?
“ma déesse”──もう一度、貴女に逢えるのならば、私は何者にでもなりましょう。
銀花の褥に腰を預け、ルナは指先に降り立った一匹の光の蝶を見つめていた。
淡い光を纏うその羽は、震えるたびに星の雫のような鱗粉を夜気に散らす。やがて蝶は、音もなく、ルナと同化するようにゆっくりと消えていった。
肩や髪に触れては消える、他の蝶たち。
残されたのは、仄かに残る光の残滓と、胸の奥に触れるような温もりだけ。それが記憶か、想いか──誰のものか。 答えはなく、ただ懐かしさと切なさが静かに混じり合っていた。
「まるで────」
呟きかけた声は、喉の奥で霧のように溶け、言葉にならぬまま天へと散った。
ルナの周囲には、無数の「ラグナレク」が聳えている。沈黙を守るその群像は、世界そのものを包むような静謐を湛えていた。
神聖さと緊張がひとつに融けた空気のなかで、ルナの心にまた──波が立つ。
(ルキナティアナ様……なぜ、こんなにも)
その問いは、つい先刻にもルナの胸を打ったばかりだ。
この地が“楽園”として姿を変えたとき、ルナはすでに答えに手を触れかけていた。無数のラグナレクが遺された理由も、それが朽ちずに在り続ける仕組みも、知っていたはずだった。
鎮魂、弔い──確かにそう呼ぶこともできる。だが、それだけが理由ならば、遺す「ラグナレク」は一本でよかったはずだ。
そもそも「ラグナレク」は、“魂魄”を宿す神話級武器。 代えのきかぬ存在としてルキナティアナと共に在るべきもので、重ねて生まれるべきものではない。
そう──「月虹 」の力により朽ちることがないとしても、時の遡洄に応じて新たな「ラグナレク」を都度生み出すなど理に適わないのだ。
(私は、幾度となくルキナティアナ様の記憶を辿った。けれどいまだ──その矛盾の核心にだけは、触れられていない)
そのとき、思考に沈むルナの耳へ──まるで記憶の澱から浮かび上がるように、声が降りてきた。
明らかにルナに向けられたものではない。それでも、その響きはなぜか、ルナの意識を強く引き寄せた。
──「ふふ、我もなかなか往生際が悪いであろう? 友と呼べる者は、今や汝しかおらぬのでな。……これは我の我儘だが、汝には、いつまでも変わらぬ姿でいてほしいのだ」
──『まったく……こんなのを創り出してまで。ああ、くそっ……随分と自分勝手な女神様だよ、お前は。次の旅でお前が手にする私は、私ではないのだからな。自分に嫉妬しなければならない、この最悪な気分を──どうしてくれる?』
愉悦を忍ばせた低い笑いが、前者の発する言葉の合間に滲むように漏れていた。それがルキナティアナの声であることを、ルナはすぐに悟る。
しかし、不機嫌そうに応じた後者の声には、どうしても聞き覚えがなかった。 声音にこもる苛立ちや諦めが、妙に人間的であったが──それゆえに、ルナの“神キスの記憶”の奥にも存在しない。
声の主を探るよりも早く、ルナの視界に幻影が揺らぎ始める。 交わされた声とともに、ふたつの影が空間に重ねられるように現れた。
それもまた、ルキナティアナの記憶の断片なのだろうか。
(あれは……)
ひとつの影は、ルキナティアナ。だが、その周囲には誰もいない。彼女はただ、その腕にそっと抱かれていた“何か”へ向け、慈しむように語りかけていた。
その輪郭、その威厳────見紛うはずもない。
(……ラグナレク)
ラグナレクの存在をルナが認識したと同時に、幻影のルキナティアナが発した言葉が、ルナの唇からも自然と紡がれる。 二つの声が、時空を越えて重なり合った。
「「我にとっての唯一無二は、汝だけだと申したであろう」」
それは、もはやルナの意志ではなかった。
自覚もないまま、思念が言葉として零れたのだ。先方の、「月虹」の名を口にした瞬間に覚えた感覚──それと酷似している。
その直後、ルナは静かに息を呑んだ。
(……唯一無二……?)
その語を噛みしめた刹那、 ルナの視線は自然と、整然と並ぶラグナレクたちへと向かっていた。
ルキナティアナ自身が“唯一無二”だと言い切った「ラグナレク」──やはり、その“魂”が複数あるというわけではなさそうだ。
自らの疑念に気圧されて、ルナは「ラグナレク」のうちの一本へと手を伸ばす。
「……!?」
触れた瞬間、掌を冷たさが駆け抜ける。それはただの感触ではなく、胸の奥を貫くような確信。覆しようのない真実の響きだった。
「……形はラグナレクだけど、魔力の痕跡が一切ない。これは──模造品、だ……」
このランクの武器は本来、埋め込まれた「神心石」に魔力を宿し、持ち主はそれに力を上乗せして戦うことになっている。扱う者が神、もしくは神に等しければ、そこから流れる魔力の循環によって半永久的に力を引き出すことさえ可能だ。
──にもかかわらず、この「ラグナレク」達にはその痕跡すら見つからない。
(まさか……! この『ラグナレク』達には、最初から『神心石』が無かったというの!?)
もしそれが真実だとすれば、ルキナティアナはただの“玩具”で、ミコト達との熾烈な戦いをを繰り広げてきたということになる。
神話級武器を“己の力のみ”で振るう、という非現実的な行為。
それでもなお、「神心石」無しで“究極魔法”を放てるルキナティアナ──それこそが、史上最恐たる彼女の名に刻まれし“神威”。
(全ては……ラグナレクの“魂”を守るため。そして────愛したこの“世界”そのものを、守り抜くため)
その想いが、心の奥からあふれ出る。
「「必ず……迎えにくる」」
先ほどよりもずっと穏やかに、温かく胸へ染み渡るように。その声は確かにルナ自身のもので、けれど同時に、ルキナティアナの想いを宿した響きでもあった。
「……今の私には、分かる。本当のラグナレクは────」
その言葉に導かれるように、ルナは歩みを進める。幻影の中で、ルキナティアナと“彼”が語らっていた、あの場所へ。
そこには、一本の「ラグナレク」が静かに突き立てられていた。見た目は、他のどれとも変わらないはずなのに、明らかに異なる“気配”を纏っている。空気は濃く、重く──吸い込むたびに胸の奥を満たすような感覚。
それはまるで、眠るように呼吸しながら、“誰か”を待ち続けていた。
(────“私”を、待っていたの?)
締め付けられる想いに促され、そっと触れようとしたルナの指が、柄に触れる直前でかすかに震える。
(私が……ルキナティアナ様になれるんだろうか?)
それは疑問というにはあまりにも切実で、胸の奥底から湧き上がるような不安だった。
本物のラグナレクに触れてしまえば、もう後戻りはできないだろう。それは“ルナ”自身を捨てる選択にも等しい。しかし、それこそが──終わりなき旅の果てにようやく辿り着いた「物語の扉」に、ようやくルナの手が触れたということでもあった。
(ルキナティアナ様、私は……)
────ふと、記憶の底から映像が立ち上がる。それは、ルナへと「究極魔法」を放った際の、ルキナティアナの顏だった。
“神キスの記憶”にも、実際に対面したときにもない──あの不敵で堂々たる笑みが似合うルキナティアナが、ごく僅かに目元を和らげ、哀しみを封じ込めたような微笑を浮かべていた。
(あのとき、光に包まれてよく見えなかったけど……ルキナティアナ様は、こんな顔をしていたんだ)
狂わされた歯車。修復のかなわぬ箱庭。
たとえ終焉が闇に沈もうとも──ルキナティアナは、無理にでも「もうひとつの歯車」を組み込み、世界の命脈を繋ごうとした。
新たな歯車────その名は、ルナ。
願いを誰かに託すということ。それが、どれほどの痛みと未練を伴うか。それでもなお、ルキナティアナが最後に選んだのは、悔悟ではなく一縷の希望。
そしてあの微笑は、自らの終焉に安らぐ者のそれではない。祈りを託す者が、託される者へと送る、最後の信頼の証。
(──“ルキナティアナ命”を自負しておいて、躊躇するなんて……私らしくない)
ルナは静かに目を伏せ、涙を拒んだ。崇高なる女神の名を穢さぬように。
(ルキナティアナ様……私はもう、絶対に泣きません。貴女にこの体を還す、その日まで)
胸の奥に燃え上がった熱は、悲しみではなかった。それは、喪われた尊さを知る者だけが抱く、確かな怒り。誰よりもルキナティアナを敬愛するルナだからこそ、その想いに応えたいと願い、その願いが──揺るがぬ刃となっていく。
(……ミコト、ミストルティス達──そして、創造神。絶対に許さない。 貴女が愛したこの世界を私利私欲で貶めようとする者は、私がすべて、討ち滅ぼす)
────そうして、ルナは「ラグナレク」を引き抜いた。
その刹那、刀身を包んでいた時の封印が、その名残りを宿した一滴の光となって、音もなくほどけていく。それはまるで、“運命”そのものが、ルナの手を待ち侘びていたかのようだった。
ルナの誓いは、ラグナレク解放の余波とともに周囲へと満ち渡り、朽ちた数多の“模造品”を永遠に咲き続ける白銀────スターチスの花へと変える。
────世界を再び廻す歯車が、音もなく、しかし力強く動き出した。
やっと『起』が終わった(気がする)……!
◆ 2025.7.24
改行の調整。




