【第1話】消えたはずの命
【第1話】
(──消える……そう思ったのに)
ルナは、宇宙のような空間に漂いながら思索に耽っていた。
遠くには、塵のような小さな光が幾つか瞬いている。それらとは異なる、銀色の輝きを放つひときわ大きな光が──静かにルナを照らしていた。
近づこうとしても、それらとの距離は一向に縮まらない。 まるで、幻の背を追いかけているような感覚だけが胸に残る。
ミコトの「聖剣ユグドラシル」によってルキナティアナの身体ごと貫かれた、あの瞬間──“消失”したはずのルナの意識は、むしろ異様なほど冴え渡り、濁りなく澄みきっていた。
「気のせい……だったの?」
──否。
幻覚でも錯覚でもない。胸元に残る聖剣の冷たい鉄の感触は、今も“深層”に突き刺さったまま、静かに存在を主張している。
ルナにとってそれは、『気のせい』で済ませられるような感覚ではなかった。記憶の残響ではなく、“魂の輪郭”に染みついた異質な痕跡。傷こそ残っていないものの、確かにそこに“在る”のだ。
あのとき、ルナが“消失”を恐れていなかったのは事実だ。
ルキナティアナとの繋がりによって、すべてがただの“事象”として──ルナの内へと流れ込んでいたのだから。
しかし今、意識の底からじわりと這い上がってくるものがある。顔から血の気が引くほどの戦慄。それは“死”への怯えではなく、「ユグドラシル」そのものに対する拒絶だった。
“聖剣”と謳われていながら、宿っていたのは神性とは程遠いもの。神具が帯びるはずの神聖な光は失われ、代わりに何者かの邪念が染みついたかのような禍々しさがまとわりついていた。
痛みではなく、得体の知れない何かが“存在の核”へとぬるりと忍び込むような不快感がルナを襲う。
「……っ」
ルナは、貫かれた胸元を咄嗟に押さえた。その掌の下には、確かな鼓動──。
指先に脈動が触れた瞬間、ルナは息を呑んだ。
(……動く……?)
ルキナティアナの中で覚醒したとき、確かに遮断されていたはずの“四肢への信号”が、脳へと明確に伝わっている。
自在になった手指で顏や髪を数回撫で、ルナはひとつの疑念を“確信”へと変えた。
そもそも、ルキナティアナとルナでは身体の造りが全く異なるため、その“確信”とやらは、目視だけでも十分に得られるものだったのだが。
特に四肢の長さや骨格が示す身体のラインは、天の地ほど差がある。
(悲しいかな、見てくれで何となく分かってはいたけれど──これは、私の体だ)
手の形、指の長さ、体型そのもの──日々目にしていた、当たり前の姿。
元の身体へと還ったことを知り、ルナの胸の奥にふわりと安堵が広がっていく。けれどそれは、どこか淡い寂しさを滲ませるものでもあった。懐かしい温もりの中で、静かに浮かんでくるのは、“彼女”の存在への問い。
(……それならルキナティナ様ご自身は?)
言うなれば、ルキナティアナは先程までルナの“器”であった。ルナがそこから解き放たれたのであれば、ルキナティアナ本人は今どこにいるのか。
跡形もなく消滅してしまったのか? あるいはルキナティアナもまた、この空間の何処かに漂っているのか?
ルナは、ルキナティアナを“再推し”として崇敬している。それゆえに、後者であってほしいと強く祈った。
──だからこそ、ただ願うだけでは終われない。
(……祈るだけでは駄目。こういうとき、ルキナティアナ様なら──)
ルキナティアナの姿勢を胸に、ルナは自分に何ができるかを考え始めた。
(私がこの世界に来た理由は全く分からないけれど、ゲームのことは覚えてる。だから、今はストーリーを思い出してみよう。何かヒントがあるかもしれない)
ルナはプレイヤーとして「神キス」をプレイしていた時の記憶を辿る────。
ルナが「神キス」始めたのは、当時もっとも仲の良かった友人の勧めがきっかけだった。最初は興味も薄く、攻略対象の男性キャラクターがとにかく美形だったため、その外見だけが印象に残った程度。
だが、プレイを進めるうちに致命的な問題に気づく。
主人公「ミコト」にまったく感情移入できなかったのだ。『ああ、こんなものか』と、勧めてくれた友人の感性を疑いたくなるほど、退屈な時間が続いた。
──ゲームの中盤、ルキナティアナが登場するまでは。
(あの衝撃は、今でも鮮明に覚えてる。威厳と婉麗を兼ね備えたルキナティアナ様の──あの登場スチルを見た瞬間を)
ミコトと攻略対象キャラクター達の、甘すぎる幼稚なストーリーに投入された、凜乎たる存在。それがルキナティアナだった。
ルキナティアナが登場する章は、物語全体を引き締め、スパイスのような緊張感をもたらしてくれる。
奔放に振る舞うミコトへ忠告を与え、神域へ足を踏み入れた際には戒めを施し、系譜外の神々や他種族達からの怒りを鎮めるため鋭意善処し続ける。
神々と人間が運命を交わらせる危うさについて、父神ミストルティスや兄弟神達に真摯に訴え続けていたのも、ルキナティアナだ。
世界を統治する神々が、ただ一人の人間に心を傾けることは、種族間の均衡を崩す。それを防ぐ為に、彼女は孤独に尽力し続けたのだ。
ルナは、そんなルキナティアナの姿に心を奪われていった。
“推し”、という言葉では足りない。むしろ神として“崇拝”していると言っても過言ではない。ゆえにルナは、ルキナティアナを「様」付けで呼ぶのだ。
──だが、ルキナティアナのその努力は、あまりに理不尽で残酷なものとして返されることとなる。
(ルキナティアナ様が“最終戦争”を起こすのは『大団円ルート』だけ。確か、あのルートでは……)
「大団円ルート」のエンディングでは、ミコトが兄神ロキソニアスの求婚を断るところから始まり、他の兄神達の申し出もすべて拒否する。
『では、望む相手とは誰なんだ』と問われたミコトの答えは────
『ルキナティアナ姉様が亡くなった直後に、私だけが特定の兄様と幸せになるなんてできない。だから皆で幸せになりましょう』
支離滅裂とも言えるこの言葉に、なぜか兄弟神達は感銘を受け、全員が婿神としてミコトを愛することを誓う。そして、最高神である父神ミストルティスは「愛の祝 福」をミコトへ授ける。
それは人間を不老不死にする秘術であり、その祝福を受けたミコトは、天界で彼等と永遠に幸せに暮らすのだ。
──彼等にとって本当の家族であるはずの、ルキナティアナは不在のままで。
(思い出すんじゃなかった……吐き気がする)
記憶を辿ったことを、ルナは深く後悔した。
通常、「自分=主人公」なのだから、ミコトを主軸した展開は“それ”が正解だろう。逆ハーレムという構造に満足するファンも多い。実際、ルナに「神キス」を薦めた友人も、『逆ハーレムエンドが最高!』と言っていた。
だがルナは、大団円ルートどころか──すべてのルートのエンディングで“ラスボス”として討たれる役を「ルキナティアナ」へ押し付けたシナリオライターに対して、激しい怒りを覚えていた。それは単に“最推し”だからという理由からくるものではない。
本来、“悪役”とは、物語の冒頭から悪事を執り行う者として描かれるものだ。あるいは、なぜ“そうなったのか”を丁寧に描写するべきだ。
しかしルキナティアナには、それがなかった。「絶世の美と規格外の強さを持つ」「ミコトや父兄に凛たる態度をとる」──それ以外は、これといった背景を描かれずに、全ルートで突如“悪役”へ転ずる。
まるでルキナティアナが、家族から寵愛を受けたミコトに壮絶な嫉妬心を抱き、ただそれだけで世界を滅ぼそうとしているかのように。
プレイヤーにそう誤解させる構成に、ルナはどうしても納得できなかった。
「乙女ゲームの都合」と言ってしまえばそれまでだ。だが、ルナはどうしてもルキナティアナの“幸せ”を諦められなかった。運営に電話やメールで抗議を繰り返し、ついには「危険人物」として認知される始末だった。
「どれだけ主人公贔屓にしたかったのよ、運営は。そもそもルキナティアナ様がいなければ、ミコトなんてとっくに天罰下されていてもおかしくないのに! それに、あんなに聡明で、美しくて──」
その瞬間、空気が僅かに揺れた。
まるで、時の流れが一拍遅れ──世界そのものが呼吸を止めたかのように。見えざる何かが降り立つ気配が、ルナの背後へと静かに満ちていく。
「──汝のその想い、天すら震わせるほどに真っ直ぐだ。聞いている我が、胸を打たれるほどにな」
その声は、澄みきった静寂の中に響く鐘のようだった。
柔らかさの奥に、揺るぎない威厳が宿っている。それは、ただの言葉ではなかった。空間そのものが共鳴するような────透徹した響き。
一瞬のことだった。通常であれば聞き逃していたかもしれない。だがルナは、その声を聴き取ることが出来ないほど愚かではなかった。
ルナは思わず口元を押さえ、瞳から大粒の涙を零す。
(──っ! なんで……どうして、今まで気が付かなかったの……)
己が憧れてやまない、それでいて心から崇敬している存在。凛とした気高さと、胸の奥を静かに照らすような温もり。そんな響きを、どうして聞き逃すことが出来ようか。
「ルキナティアナ様────」
声のした方向へ振り返ることもしないまま、ルナはその声の持ち主を断定していた。
疑う余地など、どこにもない。胸の奥に灯った微かな熱が、静かに、けれど確かに“彼女”の名を告げていた。
次回、ルキナティアナの登場となります。
◆2023/7/13
括弧の使い方や台詞の入れどころ等を少々修正しました。
◆2024/6/14
兄神の名前が間違っていました。
ロキソニウスではなく、ロキソニアスです。
訂正しました。
◆2024/6/22
加筆・修正しました。
◆2025/7/11
改行などの調整、引用符の使い方の見直し、修正しました。