9.小心者の大木 2
ややこしい話です
「それであの…大木さんはどうなったんですか?」
「実はな、1年としない内に退職しちまったんだ。どうにも負傷の一件が原因らしい」
「退職、ですか」
言い渋っていたものの、話を進める上で必要だと判断したのだろう。中原から聞かされた大木のその後に、祐輔は目を丸くした。
「でも、大木さんは負傷した時の記憶を忘れてるんですよね?」
「ああ。だからこれは、俺の推測だ」
「推測?」
コクンと頷いた中原と対照的に、祐輔は首を傾げて不思議そうな顔をする。奈々子もいまいち要領を得なかったらしく、訝しむ顔色を向けていた。
「俺が"らしい"とか推測しか出せないのはな、俺にも記憶がないからさ」
「え…あれ?ちょっと待って下さいよ?」
祐輔が混乱するのも無理はない。つい先程、自分も経験したのだから。本来なら、中原は事件当時の大木の葛藤を覚えていないはずである。なのにどうして──。
「もしかしてチュウさん、日記とかつけるタイプの人?」
「…ああ。警察官になってからはな。忘れちゃいけない事件や人のことを思い返せるよう、毎日記してるんだ」
「壮大なページ数になりそうですね…真似してみようかな」
祐輔は別のところに意識を持っていかれたようで反応を示せなかったが、店の主である奈々子は違う。本来ならば誰しもが忘れているはずの"大木の思い出"を、推測による補完を加えたなりにも覚えているのだ。そんなことが出来るのは、大木のガラス玉を購入した人間か、日記等をつけている人間に他ならない。
「チュウさんはあのガラス玉を買ってないからね。あるなら日記の可能性だけだよ」
「よく分かったもんだ。…で、俺の推理は合ってたかな?」
パチン。中原の視線と奈々子のものが交わると、目を逸らした彼女はぼそりと呟いた。
「チュウさんが購入してない思い出に関して、私は何も言えないよ。でもまあ合ってるんじゃないかな。聞いてる限り可笑しな部分もなかったし」
「そうか…だが良いんだ。大雑把でも合っているかが分かれば。それでナナちゃん、ここからが本題なんだが」
肝心な部分をはぐらかされたものの、大方の予想と合っていたようで中原は満足そうに頷いている。それから奈々子の方に向き直ったかと思うと、襟を正して堅い表情で話を切り出した。
「俺に大木の記憶を売ってくれないか?」
「理由を聞いても良い?」
「勿論だとも。…俺も退職するからって今までつけてた日記を振り返ってやっと、大木が辞めた理由に見当をつけられたんだ。それがなきゃアイツが辞めた訳だけじゃなく、大木って男のことを曇りない眼で見てやることが出来なかったはず。これはな、戒めだよ」
「戒め?」
疑問を口にした奈々子につられ、祐輔も真剣な眼差しで中原を見遣った。同じ職の人間として、自分もしっかり聞かねばならぬとそう感じているためである。
「俺はてっきり、大木は怪我を負いたくなくてへっぴり腰に戻ったんだと思ってたんだが…自分の日記を見るに、どうも違ったらしい。アイツには、アイツにしか分からない葛藤があったんだ」
「きっと思い出の修正力のせいだね。"記憶にないということは、記憶に残らぬ程度の大したものではなかったのだろう"って脳が決めつけたんでしょう」
「そう……だと思う。現に俺は、大木の怪我も記憶に残らないくらいのモノって考えて、アイツを訓練に連れ回してた。便乗して他のヤツらが稽古つけてくれてたのも、もしかしたら」
「そうだね。…私の予想だけど、大木さんは体が上手く制御出来ない中、みんなから稽古で揉みくちゃされて精神的に疲れちゃったんだと思うよ」
やっぱりそうだよなぁ、と苦しそうに俯いて呟くのを、祐輔は他人事に思えなかった。あの大柄で明朗な性格の中原が、今は肩を振るわせ縮こまって泣きそうな声を上げている。それだけでも、心に迫る何かがあった。
「俺が覚えててやれなかったから…俺が大木に無理させたからアイツは辞職したんだ。だから、その戒めを俺が受けるしかないんだよ」
「チュウさん……気持ちはわかったけど、そう上手くはいかないよ?いいの?」
何を、と失意の中原に代わり祐輔が険しい顔して奈々子に迫ったところで、伏目になった彼女が小さく語り始める。静寂を、か細い声が断ち切った。
「チュウさんが退職している世界線に、怪我をした大木さんの思い出を重ねる…ということは、大木さんみたいに辞める道を選ばなかったってことだよ?となれば、彼が受けた痛みそのものは味わえても、辞めるほどの苦しみは半分だって得ることが出来ない…と思う。きっと修正力が働いて、"事件で犯人に怪我を負わされ入院したチュウさん"と"怪我と別の理由で退職した大木さん"って記憶を生み出すだけだよ」
ここまで聞いても、祐輔にはどういう意味かちんぷんかんぷんである。想像力の足りない頭は、結局どうなるんだ?と結論を急かす他ない。けれども、中原は違う。
「構わない。大木の苦しみを1ミリでも代わってやれるなら、全て受け入れたい」
覚悟の決まった目に、奈々子も軽々しい否定や制止をかけることが終ぞ叶わなかったのである。一人の男の決心が、第三者たる祐輔に固唾を飲ませた。