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ようこそ、菜摘屋へ。  作者: 湯気ゆっけ
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6.中原という男 4

「大木だがな、このままだと別部署へ異動になるかも知れん」

「は…?復帰したばかりなのに、ですか?」


声を潜めた課長から告げられた内容に、中原も驚きを隠せない。まだ話の続きがあるのだろう。デスクから見上げてくる顔にコホンと咳払いしてすみませんと述べると、中原は再び聞く姿勢に戻った。


「詳しく知る訳じゃないが…実は術科訓練の途中でな、震えて立てなくなったらしい」

「それはつまり…」

「あの一件がトラウマになってるんだろうよ。それを運悪く、副署長のいる訓練で発症してしまった。あの人は仲間意識も高いが、警察官として厳しい面もある。現に俺も、次の異動で大木を警務課に送るべきじゃないかと言われたくらいだ」

「しかし課長、大木の気持ちはどうなるんですか!?アイツだってまだ地域課で、」


声がデカい、と片手を上げ制止させられれば、中原もハッとなって周りを見回した。まだ正式に決まった話ではない。誰かに聞かれて大木が後ろ指をさされるなんて、あってはならない。


「係長がメンタルケアを兼ねて大木と話してるところだが…アイツの状態次第では、希望にそぐわなくとも決定事項になるだろうよ」

「漸く戻ってこれたってのに…」


俯き拳を握り込んだ中原の気持ちを悟って、課長も言葉をグッと飲み込む。本当ならばここで、大木の相棒たる中原に残酷な話をせねばならないのに。


「確かお前も大木も今日は定時上がりだろ。快気祝いも兼ねて、どっか飲みに行って来い。2つ先の駅から歩いたところにある商店街に、美味い小料理屋があるんだが…あそこは静かだし女将も空気を読む人だから、時間があるならどうだ?」

「……ありがとうございます」


重い沈黙の後、礼を述べて中原は自分の机に戻る。タイミングが重なったのか、大木も係長に連れられ戻ってきた。目の周りが赤く見えるのは、気のせいではないはずだった。


「ちゃんと係長に足の調子は伝えられたか?」

「へ?ああ…、えっと、ハイ」

「そうか。折角今日は早くに上がれるんだ。お前の復帰祝いに、飯でも奢ってやるよ!」

「班長その、自分は」

「なんだぁ!?人が奢ってやるってのにシケた面しやがって!お前は大人しく、俺の気分が変わらない内にハイって言っとけ!」

「はっ、ハイ!お気遣いありがとうございます!」


戻ってきた大木に悟られまいと、離席の理由が足にあるように思い込んだ振りも中々様になっている。加えてお節介な性質である自分の行動が功を奏したのだろう、"何も知らない体で飲みに誘ってきた上司"の役が上手くハマったらしい。大木は疑う様子もなく、気を引き締めるためにパチンと顔を両手で挟み込んで叩くと、机の上の仕事に取りかかった。彼に合わせるように、中原もデスクワークに精を出す。

そこから時刻を経過させ、17時15分。終業の時間に合わせて揃って退勤すると、メールで課長に送ってもらった小料理屋まで向かい始める。帰宅ラッシュには少し早いのかまだ混み合う前の電車に乗り込み、二駅目で降りたらマップに従って歩き始めて。その間、どちらも言葉を発さないのは気まずさだろうか。


「お、見つけたぞ。ここが課長オススメの"鞠つき"って店らしい」

「流石は課長、渋めの店もご存知なんですね」

「だな。すみません、今から2名イケますか?」

「はい、いらっしゃい。見ての通り誰も居らんからね。お好きな席にどうぞ」


2人の間に重苦しい空気が流れていたものの、料理屋に入ると途端に気分が紛れる。初対面の客に対しニコニコと笑顔を崩さぬ女将の人柄か、新しい場所に来たことで気が散ったためか。来るまでの空気感を取っ払うことに成功した中原達は、奥のカウンター席に腰掛けると女将の声に顔を向けた。


「初めてのお客さんですねぇ。こんな婆でもまだまだ若い人らと出会えるだから、料理人ってのは辞められませんよ」

「あはは…若く見えますか?」

「ええ、ええ。この婆からすれば、年下の子なんて皆んな若い子ですよぉ」


貴方もね、と皺の深まった老齢の女性が笑むだけで、中原も母親が出来たかの如く胸中に安心感が生まれ始めた。長年様々な人間を見てきたが、どうやら彼女は人を安堵させる顔や態度を取るのが上手いようだと考察する。


「召し上がりたいものは決まってますかね。なければ私お勧めの煮付けなんて如何かしら?熱燗に合う、美味しい金目鯛ですよ」

「じゃあそれを…あと数品、摘めるものを見繕っていただいても?」

「ええ勿論。婆のセンスにお任せいただけるなんて、光栄ですよ」


久し振りに腕を揮いましょうかね、と早速支度に取りかかった女将の背を眺めながら、中原は隣で縮こまっている大木に語り始めた。


「今日は久し振りの勤務で他のヤツらに揉まれて疲れたろ。けどな、腹一杯に飯食って風呂に浸かれば大抵の嫌なことなんて忘れるさ。お前が落ち込んでんのだって、そのあたりが理由だろ?」

「は、はい…そうですね」


嘘だと理解しつつ、話を続ける。本当は中原だって、大木に嘘を吐かせたい訳ではない。腹を割って話してくれるのが一番だが、落ち込んだ彼に言わせるほど、自分も酷い男には成りきれなかった。今はただ、時が解決してくれるのを待つ他ない。


「実はあの…お袋さんから別の部署に行かないかと言われまして、」

「なんだぁ?俺の元を離れてやってけるほど、デカくなりやがったってのか!」

「まさか…自分はまだ、班長の元で経験を積みたいですよ」

「大木、」


目線を逸らし俯いた相手に、自然と中原も視線が下を向く。可愛い部下に、泣きそうな顔なぞ見せられない。グッと拳に力を入れて、大木の背をバシンと叩いた。同時に自分の背を叩いたような気分になる。


「何をくよくよしてっかは知らないけどなぁ!お前がしたいこと続けられりゃ、それが最善なんだよ!」

「ひぃ…ッ!?」


励ましというのは、中原の自己満足に過ぎなかったのだろうか。何時もならバシンと背を叩けば「痛いですよぉ」などと不満を漏らしつつ笑って返す大木が、目の前で普段と違う行動を取っている。


「足、痛むのか…?」

「いえ、ちがっ、これは…!」


ガタガタ震える手を、隠すように後ろに背へ回したのを見逃すはずもなく。大木の様子から中原が推測できることは、ただ一つだ。


「お前…痛みに対して恐怖が出るようになったのか?」

「それは…ッ!」


否定できるほど、大木は強くない。寧ろ今の彼は弱りきっている。あの事件がもたらした後遺症は、中原が考えていた程度の軽度なものではなかったのだ。


「実は訓練中に…」

「いい、無理はするな。吐き出すのが辛いんなら今は、」

「いえ…班長にはお伝えしないと、」


短く吸った息を深く吐き出しながら、大木が決心したように中原へ向き直る。震える右手に左手を重ねて勇気を振り絞り、重い口を開いて朝の出来事を話し始めた。


「自分はもうダメみたいっすね…訓練の途中で後輩に掴みかかられたんですけど、受け身を取る時に背中にきた痛みであの時のこと思い出して」

「けど、あの時やられたのは足だし、後遺症が残った訳でも」

「っす。柔道で受けたのは背中への衝撃のはずだったのに、気が付いたら起き上がれませんでした。全身が…痙攣してて、」

「かなり重症だな…」


足へのダメージならば当然の理由だろうが、他の箇所への損傷で体が使い物にならなくなったとなれば、確かに周りの意見は最もで。現場の警察官として生きていくには、厄介な障壁となる。


「大したことないって、頭ではわかってるんです。けど、どうしても体が震えて……俺、まだ班長達と働いていたいのに、」

「そうだよなぁ…!あんなにビビリだったお前が、やっと警官らしくなってきたってのに!あんまりだよなぁ…!」


大の大人が2人して、料理屋というのも忘れボロボロと涙を零して止まらない。誰よりも身近にいた部下だ。感情が昂って涙を流したって仕方がない。どうすることも出来ない現実が、2人の男を狂わせる。


「昔に戻れたらどれだけ良かったか…」

「ああ……それか、襲撃の時の記憶でも吹っ飛んじまえば良かったのに、」

「はは…っ、班長に思い切り喝入れられたとしても、それだけは無理そうですね…」


グスン、グスッ。大人2人して鼻を啜る音と惨状に、料理を提供しにきた女将がビックリした顔で言葉を発す。


「あらあら、子供に戻ったようにわんわん泣いて。嫌なことでもあったのかしら」

「ずみまぜん…ありがどうございまず…」


聞こえていたであろう話も、長年女将として店を切り盛りしていた彼女は自ら首を突っ込むなんて野暮な真似しない。台所の端からティッシュを持ってきた彼女は2人の前に差し出すと、全部吐き出しちゃいなさいな。と実の母みたく大人達を見守った。


「すみまぜん…自分、忘れだぐても忘れられないものがあっで…」

「いいのよぉ。人間誰しも、忘れたいものの一つや二つありますもの」


ウチの倅なんてねぇ、と話し始めかけた彼女だが、どんより重い空気を悟ると世間話を止め真剣な眼差しを見せる。


「茶化したり余計なことを言うのも失礼な話よねぇ、御免なさいね」

「いえ、勝手に店で泣き始めたのは自分達ですので…」


スーツの袖でグイグイ顔を拭った中原は、気恥ずかしさで頬を掻きつつ自分も1枚ティッシュを貰った。その間にも、女将はテーブルに料理を並べていく。


「食べて飲んだら元気が出ますよ」

「ありがとうございます…ははっ、それでも忘れられなくって、」


女将の人柄に大木も感化されたらしい。酒を呷る前から吐き始めた愚痴だが、彼女はうんうん聞く姿勢を取ると会話を途切れさせることなく相槌を打っている。この人だからこそ話せる、というのはあるのかも知れない。

2人とも何やかんやで食事を摂りながら己の心境や今後をぼんやり考える頃には、どの料理皿もすっかり空になっていた。長居しても悪いですから、と中原が立ち上がりかけたところで、聞くに徹していた女将が薄い唇を漸く開く。


「そんなに忘れたいことなら、奈々子ちゃんのところで買い取ってもらいなさいな」

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