5.中原という男 3
誤字脱字があったらすみません…
振り翳した右手が頭に当たる直前、中原の言葉に反応した大木が間一髪のところで拳を避けた。一瞬の出来事に息を詰まらせた大木は直ぐ態勢を整えると、犯人を捕らえようと動く。中原が安堵した、その時。
「ぐ、ぁ…ッ!?」
呻き声が、ビルの狭間に反響した。犯人を注視すれば、その左手に小型のナイフが握られているのが見て取れる。足を押さえて倒れる大木と、血のこびり付いたナイフを持つ男。何が起きたか一目で理解できた。
「クソッ!?しっかりしろ大木!」
「はんちょ…自分はいいっすから…!」
「ああ…!俺がとっ捕まえて来るからもう少し待ってろ!」
油断した。
この時の記憶は、中原の警察人生で一番の後悔として残っている。
向こうは相当に頭が良いらしい。追い込まれ大人しくなったと印象付けてから殴りかかってくるだけなら、他の犯人と似た行動とも言える。しかし相手は、それに加えて刃物による襲撃まで起こしたのだ。恐らく、一手目のパンチはフェイクか何かだったのだろう。現に左手の繰り出した一撃は、確実に大木の腿へダメージを与えた。偶然にしては、狙いが定まり過ぎている。犯人は元々、利き手が左だったのだろう。
「ま、てや……このッ!!」
「ッぐ、」
捕らえた。追いかけては逃げの鬼ごっこは、中原が相手の首根っこを掴んだところで漸く終了の音を告げた。捕まるとは思ってもみなかったのだろう、先程と打って変わって理性のカケラもない暴れっぷりだが、それこそ経験を積んだ中原には通じない。言葉の通じぬ相手への対応は、慣れたものだ。
「見縊るなよ若造がッ!!捕まえた以上、きっちり罪は償ってもらうからな!」
「クソッ!クソが…ッ!俺がこんなジジイに捕まるなんてぇぇえ!!」
咆哮。負け犬の遠吠えとも形容できる男の叫びに、聞き付けた応援の警察官達がぞろぞろ路地へ入って来る。犯人の身柄を引き渡し、仲間に手を貸され立ち上がった中原の横を、他の警察官に担がれた大木が通り過ぎた。狭い路地より、広い場所の方が確かに救急車も呼びやすい。声をかけようにも、自分は後処理があるからまだ現場を離れられない。後回しになってしまうが、時間を置いてから顔を見せようと大木のことは一度、心の隅に留めておくことにした。
「お疲れ様です班長。逃走中の強盗犯を捕らえるなんて、相変わらず持ってますね」
「おう、お疲れさん。ヤツを見つけられたのは大木のお陰だよ。…一発喰らっちまったけどな」
「大木が?昔はあんなにビビリでヒョロガリだったのに、犯人に立ち向かえたんですか?」
「ああ。1発目のパンチは避けられたんだが、ヤツもそこそこ賢くってな」
確保の瞬間を思い出すと、中原の眉も顔の中心へ寄ってしまう。確かに自分の顔は今までの気苦労と歴史の積み重ねで老けて見えるかも知れないが、それでも年齢は十も変わらないだろうに。人をジジイ呼ばわりするとは失礼なと、今になって若干腹が立ったのだ。
「ったく、生涯現役だっつーの!野郎、俺のことジジイ呼ばわりしたんだぞ?」
「はは、それは失礼な輩でしたね。まあでも、大木と比べたら中原さんの方が風格があったんでしょう」
「そりゃあ、まだまだ大木にもお前にも負ける気はないっての」
しかし、言われてみれば彼の言う通りなのかも知れない。犯人目線、ヒョロっとした大木と体格の良い自分とを比べれば、どちらが翻弄し易いかと言われれば前者だろう。だからといって大木が狙われて良いという訳でもないが、そこまで見通していたのだとしたら恐ろしいものだ。
「思い出しても腹の立つ男だったな。早く大木の顔も見に行きたいし、上がったら酒飲んで忘れたいぐらいだよ」
「そうですね。その時は大木への労いも込めて、班長の奢りだと信じてますよ」
「ガッハッハ!調子の良いこと言うなぁ!」
事件が終結したことへの安心感、そして口が上手い後輩の返しに気分を良くした中原は、報告書であろうといつもと変わらぬ仕事っぷりを発揮するため持ち場へと戻るのだった。
さて、そこから時計の針をグルグルと回し続けて2ヶ月を過ぎた頃。休養を経て現場復帰した大木が、出勤早々に中原と顔を合わせ敬礼した。
「お久し振りです、班長!お陰様でこうして現場に戻ることが叶いました」
「おう、たっぷり休んで体が鈍ってないだろうな?朝の術科訓練はお袋さんが来るらしいから気張れよ」
「うげぇ、それは一層気合を入れないといけませんね…」
「だな。課長に挨拶済ませたら、早く着替えてお前も柔道場で待機しとけ。その方が周りにも良く映るだろ」
「お気遣いありがとうございます!」
提げていた鞄を胸に抱え込み直して一礼した中原が、失礼しますと告げて地域課内に入っていく。課長に挨拶をしている姿を見て、中原も「漸く戻ってきたか」なんて自然と笑みをこぼした。
警察官は上下社会だ。大木の階級は下から数えて2番目。まだ上には巡査部長や中原と同じ警部補もいるし、今日は副署長が見学にも来る。自分より階級が上の面々を柔道場で待たせるよりは、早めに待機させておいて会話のひとつでも交わせた方が相手の心象も良く出来る。考えは課長も同じようで、話を終えた大木は通り過ぎ様に中原へ軽く会釈すると、小走りで更衣室へと着替えに向かった。こってり絞られて来いよ、なんて思ったのは部下への愛情が深い中原だからこそだろう。
そう、仲間思いだからこそ、この1時間後に課長に呼び出された中原は、苦渋の決断を下すことになる。それは大木にとっても中原にとっても重要な、警察官人生の分岐点となるのであった。