32.通報された女・立花百合子 2
2階の廊下に上がった2人。生活安全課の部屋まで案内するという上垣に、件の女性・立花百合子は首を振って拒絶を示す。家出というのは捜索する我々側に分からない内情を含んでいる以上、気軽にどうしてですかと引き止めることも難しい。例えば家族に問題があり、本人が会いたくないと拒否する可能性だってあるのだ。迂闊なことは言えないと、上垣は気を引き締めた。強引にいくより、ゆっくり心を開いてもらう方が得策か。
「記憶喪失というのは?差し支えなければ、お話をお伺いしても?」
「はあ…大した話も出来ませんが、それでも大丈夫ですか?」
「お願いします」
一先ずアプローチの方法を記憶喪失の観点からにした上垣は、何から話そうかと口籠もる立花を廊下に配置されているソファへ促す。彼女自身が課内に立ち入るのを良しとしていなかった辺り、ここで小声でやり取りする方がまだマシなのだろう。
「私も覚えてないので詳しく話せないんですが、引越してくる時に頭をぶつけたみたいで…S県にいた頃の記憶が曖昧なんです」
「頭をですか?大きなお怪我に繋がらなくて良かったですね」
「ありがとうございます。移動は車だったと思うんですが…かなり曖昧なんです。車に損傷はなかったので、多分乗る前に何処かでぶつけたんだと思います」
今はもう傷や瘤などもないだろうが、無意識でか後頭部を触る立花に、上垣は次いで何と訊こうか躊躇った。本人が正確に覚えていないと何遍も唱えてくる以上、話をどう掘り下げれば良いのか判別し辛いからだ。
「ご家族のことも、お忘れに?」
当たり障りのないよう尋ねるなら、これがベストな質問だろう。2階を行き交う人の数は少なく、通りがかるのはほぼ同僚だが、それでも"配慮しています"と分かり易いよう声を小さくして質問する。聞き込むなら相手への尊重は忘れてはならない。それに、自分のことを思い遣ってくれる人だと感じさせた方が、相手も込み入った話をし易いのだ。
上垣の言葉を受け、立花は考え込むように天井を眺めた。家族に関しても記憶は曖昧なのだろうかと感じさせるほど、無言の時間は続く。暫く逡巡して漸く、立花は薄くリップを塗った唇を開いた。
「ええと、多少は覚えている…と思います」
「随分とあやふやな言い方ですね」
「すみません。あんまり思い出さないようにしているので」
言葉に躊躇った立花に、上垣は慌ててフォローを入れる。言い方に棘があったように感じるかも知れないが、疑っている訳ではないと懸命に弁解した。彼女も理解はあるようで、大丈夫ですよと返すと言葉を続ける。
「人様にして気持ちの良い話ではないと思うんですが…私、世間で言う"優しい両親"に育てられた思い出がないんです」
「と、言いますと?」
神妙な面持ちで語り始める彼女を邪魔しないよう、上垣はなるべく最低限の言葉で返す。続ける意思があるのか頷いた彼女は、何かに決心をつけたらしい。話を伝えるため小さく息を吸った。
「子供の頃のご飯は給食だけ。お風呂は3日に1回入れれば良い方で、洗濯は週に一度。小学校の時の渾名は"貧乏ちゃん"です」
「失礼な言い方になって申し訳ないのですが、経済的に厳しいご家庭だったんですか?」
「いえ、父も母もブランド物のアクセサリーや良い服を着ていたと思うので、貧乏だった訳ではないと思います。お風呂も洗濯も毎日してましたし、単に私が邪魔だったのかと」
何とも反応のし辛いコメントに、上垣はつい次の言葉を失う。しかし彼女の話は歯止めが効かず、まだまだ発言は終わらない。
「両親は私を高校に入れる気がなかったらしく、中学を卒業したら知人の店で夜の仕事をさせるつもりだったようで…何とか説得して高校に入ることが叶いましたが、代わりに高校生の時に稼いだバイト代は全て"養育費"という形で没収されました」
「多感な時期をかなり過酷な状況で過ごされていらしたんですね…」
「ええ、お恥ずかしながら。それが嫌になって大学は家からかなり離れた、寮のある場所を受けたんです。バイトの稼ぎを誤魔化して僅かに貯蓄していた分と奨学金、市のサポートを受けながら何とか通学できて。やっとの思いで就職まで漕ぎ着けました。両親と連絡を取ることなく今日まで来たのですが、今になって向こうが探しているとは。正直な話、連れ戻す気なんじゃと違和感があるんです」
ついに下を向いてしまった立花に、上垣はかけて良い言葉を探して困り果ててしまった。彼女の境遇には同情するが、それより彼が気になっているのは家出の捜索願について。
「立花さん、免許を取得されたのは大学に入ってからですか?」
「はい。2年生の時だったと思います。滅多に運転しないお陰か無事故無違反なので、ゴールド免許が続いてますよ」
「そう、ですよね…ありがとうございます」
彼女の返答に、上垣は心の中でつい腕を組んでしまう。悩まし気な表情を表に出さなかったのは、長年の経験のお陰だろう。再び家族との問題に向き合わなければならない可能性があるのかと肩を落とした彼女の隣で、上垣も1つの問題に直面してしまった。解消せねばならない問題を、ぽつんと頭の片隅に入れる。
彼女の家族が家出捜索の願いを届け出たのは、最近のことなのかもしれない。
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