5.陽炎の奥
5.陽炎の奥
「あ、いや、いない、よな」と年配が言う。他の三人は頷く。
「ぜひ彼女に見張りをつけてください。梶谷さんが殺されたと仮定すれば彼女が絡んでいる可能性が高いです」
「と言いますと?」
「わたしも知らずに梶谷さんを捕まえたのですが、品田さんは偽被害者というか、梶谷さんにわざと痴漢させたのではと。陽晴の彼女というのも疑惑の元です」
「仰りたいのは、例えばこういうことですか?」と年配刑事が言う。
「梶谷さんをバイオレットピープルと知って、色川さんに見えるように痴漢させて嫌がるフリをして捕まえさせ、すぐに篠崎を呼び犯行に及んだと」
「そうです。でもひとつ詰められない部分が。梶谷さんは篠崎の犯行と仮定して、雨はたまたま降っていたわけで、指紋が出ないのはそのせいだとしても、篠崎陽晴にあの殺し方は無理です」
「えっ?」
「どこにも痕跡を残さずに頭部を打って死ぬようにはできないはずです。報道通りなら不思議な死に方で、あくまでも仮説ですが、複数犯等でないと三件とも成立しないでしょ?」と引き締まった顔になる。
色川の言うことは確かに的を得ている。動機が痴漢者抹殺としても、単独犯では困難な殺し方である。仮に複数犯として、下手人は誰なのか。
「色川さん。中野のジムの隠しマイクの場所はどこに?」若手が言う。
「男子のロッカールームとジム内全体に10数本。あとはサウナに確か4本」
「女子のロッカールームには?」
「あえて付けていません。意味がないというか、わたしも使う場所ですしね」
「だったら、女性なら、ロッカールームではどういう会話もできますね」
「確かに。でも女性に危険分子がいるようには思えませんね、少なくともあのジムには」
「今夜にでも、こちらのほうで、女子ロッカールームにマイクを付けてみたいですね。女性でも複数犯なら、あの死に方は可能ではないですか」
と年配が言葉を選びながら言った。
「ああ、気が付かなかった」と悔しそうな顔をして色川が言う。
「0時から朝6時まではメンテナンスのために閉店しますので、さっそくお願いします。裏口の合鍵を貸しましょう」とチェストの引出しから鍵を取ってテーブルに置いた。
渋滞を抜け切れない野津はなんとか裏道に入り、たまたま自分のマンションが近いので着替えに寄った。史代は
「あらきょうはもう・・・」
「いや、甲州街道が渋滞でさ。丁度いいから着替えに来た。この黒スーツ最近ウエストがきつい」
「ねえ、来月でわたしも30よ。言いにくいけど、そろそろ子供が欲しいのよ。あなたも、もう35じゃないの」とお茶を淹れながら、史代は暫くぶりに夫に要望を出した。
「わかってる。オレだって子供のひとりや二人は欲しい。ただ、それをいまみたいに忙しいときに言うか?」
「疲れているときこそ『して』から眠ったほうが疲労はとれるそうよ」
「なんの都市伝説か。いやごめん、わかった。なるべく夜と日曜日は家にいられるようにするよ」と史代のか細い手を取った。
そのとき岩田から着信があった。
「いまから梶谷邸に入るぞ。早く来い。あったんだよ鍵が」
「わかりました。いまちょっと家に寄ったんですがすぐ行きます」
急いで普段のスーツに着替えてエントランスに降りた。マンションの敷地の桜は蕾が開きそうになっている。春か、と思いながら車に乗ろうと玄関を出た瞬間、黒い影が目前を横切った。
あっと思う間もなく腹部に激痛を感じ、シャツの右腹部を見ると、破けたところから大量に出血している。うめき声さえ出せない。ただうずくまって気が遠くなりそうになりながらも、かろうじて野津は119に掛け、出た相手の問いかけにはまったく応答できなかった。
見送ろうと出てきた史代は「あっ」と声を上げ、野津に駆け寄り、「どうしたの、ねえどうしたの!」と叫んだ。血の付いたスマホを手に取り、「怪我人です!切られたみたいで、血がたくさん」と言って、マンションの地番を伝えると、腰が抜けたように夫の傍らに崩れ落ちた。降りしきる小雨が、野津の出血を赤い小川のように流してゆく。
岩田達一行は、梶谷邸に着くと両親に深く一礼し、
「お待たせしました。一緒に中を捜索しましょう。ただし、鑑識と同様の装備をしていただきますが」
岩田は、本来身内でも入れないところを百歩譲って提案した。
止まない小雨の中、皆、コンビニで買ったビニール傘をさしている。
「だったら、あたし、ここで待ってる」と従妹は言った。
「弓絵ちゃん、ごめんね」と母親が言う。
梶谷光の20代の従妹は、都心で暮らすOLだそうだ。梶谷亡きいま、東京での頼りはこのお嬢さんだけだろう。そう岩田は思った。少しイントネーションに関西訛りがあるのは愛嬌の内だ。
「ノリベンが来ないなあ」と岩田はボソリと言い、そんなに酷い渋滞なのかと案じたところへ、野津の妻から電話。マンション入り口前で腹部を何者かに切られ、救急搬送されたとのこと。命に別状はないが、現場に謎のメモがあったという。
「奥さん、内容は?」
「真相は知らないほうがいい、それだけです」
岩田は搬送された病院を聞き、用が済み次第向かうと言った。野津が襲われたとなると穏やかではない。しかも一瞬で腸に達するほどの傷を負わされているという。殺意はなかったとしても見せしめにしては酷い。ここは冷静に梶谷邸を捜索して何か掴みたいところだ。
鑑識を先頭に梶谷邸に入る。広い玄関に脱がれた靴はない。下足痕もすべて梶谷と加古のものだろうと推測された。まあ、後で詳しく調べないとわからない。廊下には梶谷のスリッパ痕のみが採取できた。応接室の奥、左に梶谷の仕事場兼寝場所がある。元々、仕事で疲れたとき用にシングルベッドがあるという。本当の寝室は2階だ。
梶谷の10畳ほどの仕事場に入ると、ドアの奥真ん前に横向きにパソコンデスクがあった。ここで作品を産み出していたわけだ。鑑識が調べる間に、岩田はパソコンの右に活字で大きく印字された貼り紙を見つけた。
需要があるものは供給されるべきだ 十文字光
これを励みに執筆していたのか、と考える。あ、と岩田は気付く。これはバイオレットピープルのことも表していないか。なんとも含みがある言葉だ。だが、これはご両親には秘密にしてある事項。鑑識の課長に話すと、
「いろいろな意味に取れますよね」と言って、貼り紙と留めた画鋲の指紋を採取したが、どちらも梶谷のものだった。出版社の者が原稿取りに訪問する時代でもないので、梶谷と加古の痕跡しか見当たらない。部屋の反対側の大判カレンダーには原稿の締め切りや子供と会う日、通院日など、予定がびっしり書き込まれていた。西東京医大高尾というのは通院日だろう。本来なら先週の月曜日が通院日だった模様。その辺は病院にも確認して、死亡も報告してある。前回の診察では病状は安定していたという。ここの先生は日本の線維筋痛症の権威で、だから梶谷も多摩総合医療センターからの紹介で行ったらしい。
「床から家具から壁も全部確かめましたが異状はないようですね」と鑑識課長。
ご両親は手袋の手で、息子の著書などを懐かしむように手に取っていた。もちろん、鑑識が調べた後で。
「刑事さん」と父親が言う「殺されたとして、何かわかりましたか」
岩田は残念そうに首を左右に振って、
「なにしろ、ここが現場ではありませんしね。投薬の種類と量も見ましたが、かかられている病院の指示通りに服用していた模様です」
「この貼り紙の意味は」
岩田は一瞬とまどったが「息子さんのスローガンでしょう」と言った。
「ご自分が社会に求められていることが生き甲斐だったようですね」
「なるほど」
母親は「痛みと闘いながら頑張っていたんですね」と涙ぐんだ。
そのときキッチン横のパントリー(収納庫)の奥から出てきた鑑識が、
「これは、投薬されてない薬だ」と木の小箱を持ってきた。
中に多数の小さなカプセルがポリの薬袋に密閉されていた。
鑑識課長が両親に背を向けて、野津を部屋の隅に誘う。
「おそらくですが、人工ではない本物のモルヒネかも」
「だとしたらちょっと問題か」
「微量ならましですが、依存性がありますからね」と課長は囁いた。
「これ、ちょっと押収して調べさせて貰う」
梶谷は「あの日」もモルヒネを服用していたのか?岩田の心になぜか引っ掛かりができた。痴漢事件との関連性はないのか等々である。ただ、梶谷の遺体からはモルヒネの反応は出ていない、というか、人工と天然の区別がつかない。トラマドールという成分は検出されているが投薬量から言って正常値ということだった。
それ以外、梶谷邸に異変はなく、目ぼしい遺品は両親に了解を得て預からせて貰い、梶谷宅
の鑑識捜査は一応終わった。
岩田は野津のことが心配で、公用とみなして1台のパトカーで病院に向かった。
野津の意識は回復しており、付き添いの妻も一安心したようだ。
「油断しましたよ」と野津。
「いや、狙われていたんだろうな。仕方ない」岩田は慰めた。
「例のメモはここには?」
「ありますよ。史代」と野津が妻に言う。
ベッド脇の引き出しから、濡れて皺の寄った白いB5版の紙が。
大きな活字で『真相は知らないほうがいい』とだけ記されている。パソコンで打ってプリントしたものだろう。警告文と取れなくはない。
「犯人の姿は?」
「左から、黒い影が来たと思ったら、激痛で、見ていません」
傷が痛むらしく、言葉を切りながら言う。
「奥様は?」
「わたし、誰も見ていませんし、音も聞いてません」
「犯人、自転車だったのかも、ですね」
「ガンさん、なるほど。ちょうど雨で車輪痕も消えてしまうし」
と痛みで顔をしかめた。
「チャンスを伺っていたんだろう、だがなぜきみが標的に?」
「もしかして、加古くんと個人的にやり取りしていたことも知っていたとか」
「うーん」と岩田は黙考に入った。だとしたら、次に狙われるのは加古かも知れない。嫌な予測が広がってしまう。
梶谷光事件以外の2件の裏取りをしている刑事たちからは、遺族は痴漢をしたときに死んだとは聞かされていない、また変死ではあるが事件性はないと言われているという報告が入った。それで遺族が納得しているかといえば、聞き込みでは「殺されたような気がする」と言っているそうだ。
『解決してあげたい』と岩田は思う。だが、その糸口が事件の連続で皆目わからなくなっている。彼はその意味も含めて内心苛立ちを覚えていた。
「ガンさん」野津が口を開いた。小声しか出せていない。
「うん?」
「LGBTQって知ってます?」
「LGBTじゃなくか」
「Qというのは自分のセクシャリティが分からない人です。合意痴漢などいわゆる変態はQには当てはまらないかも知れません。でも、性的マイノリティなことは、共通項です」切れ切れの囁き声になっている。痛むのか、野津はまた顔を歪めた。
「なるほどなあ」岩田はまた考え込んだ。
その頃、明京大学ラウンジで、高島慶菜は奇妙な光景を目にしていた。寝不足の目を擦っても見間違えはない。演劇部の活動日で、休憩しようと入ったラウンジの片隅、退職したはずの矢野元教授と高校のクラスメイトだった英文科の多和田茜が談笑している。
高い天井がガラス張りの窓際。学内で最も欧米大学風の場所だ。外には四季折々の花壇が見え、灌木も植えてある。小雨は先程やっと止んだ。
慶菜が、
「茜、どうしたの?」と少し距離を置いて呼ぶ声が反響し、茜はくったくなく
「あ、ケイちゃん!」と応じた。
矢野は途端に居心地が悪くなったようだったが、慶菜が近寄ると、
「もう三年生になるから進路をね・・・」と小声で言う。
役柄でミニスカート設定なので白いスパッツ一体型のテニスウェアを着ている彼女の服装に戸惑っているようにも見えた。
「そう。教授にはずっとキャビンアテンダントになることを相談していたの。湯浅准教授からの紹介で。だから先生が大学辞めても、いろいろと話したいことがあってさ」と茜がフォローする。
慶菜は幾分不審にも思ったが、嘘をつけない茜だからと信用した。
「へえ茜、英文科行ったのって、そういう志望があったの?」
「だよ。高校時代はまだほんの夢だったけど、英会話にも自信できてきたしね」
両手を広げる癖でそう言って笑顔を浮かべる。
「わたしには話してくれてもよかったじゃない」と慶菜も微笑む。
「うーん。でも、いまみたいに叶いそうになるとは思ってなかったからさ」
矢野もリラックスして、
「わたしは英文学じゃないけど、一応英語は読み書きできるし、いくつかの外資系航空会社にコネがあるから、就活で紹介しようと思っていたんだよ」と笑う。
「TOEICで910点取れたし。あ、世界的な英語の検定で990点満点でね、ネイティブでも900点以上は難しいんだよっ」
茜はまた嬉しそうに慶菜に説明した。
「ここいいですか?」
「どうぞ」偶然、茜と矢野の声がシンクロした。
その場の雰囲気で、飲み物を持っていた彼女は茜の隣に座った。
「教授、辞職されたの残念です。で、その、噂は本当ですか?」と小声で切り込んだ。
矢野は少し困った顔になったが、
「まあ、ほぼ冤罪なんだけどね。騒がれると事実みたいになる。大学にとっては汚名だから、自主的に辞めたんだよ」淡々と言った。と茜が頭を抱えて、
「また頭痛!最近頭痛いこと多くてさ」とピルケースを取り出し、辛そうな表情で薬を飲んだ。
きのう加古とデートして痴漢に遭っているので、いろいろなケースはあるだろうが、矢野はどうなのか、と慶菜は考えた。残っていたオレンジジュースを飲み干し、
「本当に冤罪なら、お辞めにならずに国文科に残って欲しかったです。わたし、先生の講義で単位取ろうと思っていたのに」
「いや、そう言ってくれる声も少なくはなかったんだが、大学にマスコミが出入りするようになって、辞任か解雇の二択になってしまったんだよ」
矢野は心底悔しそうに言う。
慶菜は基礎練習の休憩時間が終わりそうなので、席を立った。
「茜、また具体的な話、今度聞かせてね」と囁くと、
「うん、最近ケイちゃんと話してないしねっ」と明るい。
慶菜は考えても仕方がないので、クラブハウスの屋上に戻ると、発声、柔軟体操、滑舌などの練習に集中して、いつしかこの件を忘れていった。
捜査本部では、鑑識と捜査員が情報の確認をしていた。
「1件目の12月20日は16時31分が日没、2件目の1月21日は16時57分、三件目の3月8日が17時42分。いずれも18時には完全に夜になっています。つまり、事件は18時半から20時の間に起きていますが、いずれも季節的に野外は暗かったわけです」と鑑識課長。
「もし夏だと仮定したら?」宮地という1件目の聞き込みをしている刑事が言う。
「相当遅い時間でないと犯行に適さないかと。暖かい季節ほど、公園の夜は人が多い傾向ですしね。殺人と仮定して捜査していますが、だとすると秋冬以外は手口が変化していたかも知れませんよ」
「公園に追い込み殺す、という方法が冬場だから成立すると?」
「ええ。十分考えられることだと思います」
「三件目つまり梶谷光ですが、大雨だったのは関係ありますか?」とひとりの刑事。
「いや、それはたまたまでしょう。雨が降っていなくても、下足痕など痕跡を残さない準備はしていたはずです」
「天気自体は関係ないのか・・・」
野津と岩田は互いに無言で思案しながら自席に戻った。岩田は野津を休憩室に誘うと、
「どう思う?」と訊く。
「手口を限定した意味が見えてきません。殺すタイミングや方法はいくらでもありますよね」
「そうなんだよな。そこが分かれば犯人特定に役立つのに・・・」
加古は明日の慶菜とのドライブ用に車を借りようと自転車に乗ってショップに向かった。すでにワクワクが止まらない状態で大通りまで出ると、信号が赤だったのでブレーキをかけた、つもりがまったく効かず、慌てて自転車を故意に倒し受け身を取って路肩に背中から落ちた。衝撃で全身が痛い。着ていたパーカーも少し破れた様子だ。
なんとか立ち上がって自転車のブレーキを確認する。明らかに人為的にワイヤーが切られていた。『なぜだ』という思いが廻る。しかし、明日のことが楽しみ過ぎて、そのままそっと自転車を漕ぎフェレアディZを予約して戻った。
アパートに帰ると、間もなくスマホが鳴る。加古は知らない番号だったので警戒して出ると、
「岩田です。野津がちょっと襲われて腹を切られた。きみも気を付けて欲しい」
「そうですか、じつは、何者かに自転車のブレーキワイヤーを切られてました」
「怪我は?」
「危なかったですがギリギリ回避できました。受け身が取れない人物なら交通事故か大怪我だったでしょう。レンタカーの予約に行ったところですが」
「狙われてると思ったほうがいい。え?車?十分注意してね。例えレンタカーでもさ」
「わかりました。警戒して立ち回りするようにします」
そう言って電話を終えると、加古の心に暗雲が立ち込めた。
無事にデートのドライブが終わるまでは緊張しなくてはならない。まさかその後に予定している自宅に招き入れてからは安全だろうが。
破れた服を脱ぎシャワーを浴びて着替え、髪を乾かしていると、また知らない電話番号からの着信。不審げに出ると
「にゃあこです、黒猫にゃあこ。ちょっと直接会って話したいことができました」
「僕の電話番号は?」
「すみません、野津さんにお願いして教えて貰いました」
「きょうは夕方だし、明日は日中デートなんだけど」
「なら午前中の早い時間でいいです。車ですか?」と確認する。
「レンタカーだけどね」
「なら、わたしが住んでるマンションの地下駐車場に9時に来てください」
と三鷹の南口の駅から遠いマンションを指定してきた。地番で言うと下連雀の南だ。
ちょっと考えたが、予定的に無理はない。慶子の住まいまで10時半に迎えに行ければいい。
「ジカに言いたいということは秘密性が高い?」
「いまのところ、そうですね」
「なぜ警察に言う前に僕なんですか?」
「あなたの身の周りに疑わしい人がいると思って」
『ん??』と加古は困惑した。
「なぜそれがわかるんですか」
「それも含めて話したいんです」
「わかりました。なら明日朝向かいます」
「よろしくお願いします」
電話を切ると、楽しさと別のドキドキ感を覚える。にゃあこはどんな情報を掴んでいるのか。隠密に動く必要があるらしいのも気になった。身の周り?大学関係か。梶谷の周辺か。まあいま悩むことはない、明日わかる、と加古は思った。
改めてアパートから自転車を転がして、ブレーキを直しに行く。裏道に面した、古そうな自転車屋が一番近い。
「こりゃ、ペンチか何かで切られたね」と初老の親父。
「やっぱり人為的になんですね」
「そうだね。危ないイタズラだよなあ」
新しいワイヤーと交換しながら親父は顔をしかめた。
親切な親父は油を射し、タイヤの空気まで入れてくれた。
「よし。お兄ちゃん、気を付けなよお」
「ありがとうございます」
代金を払い、自転車に乗って帰った。タイヤがパンとしたのでペダルが軽い。
帰宅してもう1回シャワーを浴び直すと、早々にコンビニ総菜で夕食を済ませる。加古は明日の朝があるので、まだ22時だったが電気を消しベッドに横になった。どちらかと言えばロングスリーパーで、最低7時間半寝ないと寝不足感が残る。寝起きも決してよくはないほうで、外出の1時間半前には起きないとボーっとする。
明日はここ一番の服装を決めて行きたいし、8時半にはレンタカーショップに行って車に乗りたい。少し迷ってもナビがあるから9時前には三鷹のマンションに着く。にゃあこと小一時間費やしても、明大前には10時半に余裕で着くはずだ。まあ、週末だから渋滞しても知れたものだろう。
あれやこれやを考えていると、ややテンションが上がって眠りそうで眠れない。そのうちに、慶菜のことを考えて股間が疼き出した。今晩は我慢に決まっている。だが白い肢体が網膜にちらつく。
仕方なく彼は、キッチンの棚からウィスキーを手に取り、濃い目の水割りを一気飲みした。フワッといい気分になる。ようやく眠れそうだ。無意識に時計を見ると23時半。いつも寝る時間と大して変わりはない。目覚ましを7時にセットし直した。