17.終末ラプソディー
しばらく沈静化していたSNSと憶測報道が再燃した。
「水巻釈放って、じゃあ誰が容疑者?矢野とか篠崎きょうだいとか?」
「決め付けるにはまだ早くない?矢野が犯人だったら仲間殺しで草」
「矢野と篠崎陽晴は留置されているらしいよ。少なくとも彼らが実行犯じゃないの?」
「反社より怖いのは民間人かwwww」
「麻薬の件は陽晴がゲロッたみたいだよ。限りなく怪しいね」
「反社がマトリに捜査を受けてもブツが見つからなかったのは、陽晴が隠してるとか?」
「殺人容疑者から外れる代わりにヤクを預かった可能性もあるしね」
「ウィクトーリアって勝利の女神でしょ。そんな偽名で犯罪とはwww」
SNSの情報には高柳のリークも含まれていた。
テレビのワイドショーでは犯罪心理学者などが持論を展開して大騒ぎだ。
「陽晴容疑者は、姉の罪を隠すために実行犯になったとも考えられます」
司会者はボードの命令系統想像図を指して言う。
「矢野も陽晴も、このウィクトーリアからのメール指示で動いていた様子です。ですが、たまたま二人の利害に合致していたので犯行に及んだのではと」弁護士の一人がフォローする。
「結局ウィクトーリアの正体が分かれば事件は一件落着ではないですか」と司会者がまとめる。
「さて、正体が露見されるでしょうか。警察官僚が絡んでいれば部下の辞任で幕引きもある。そういう事件は過去にも山ほどありますよ」と元警視の老人が言った。
弁護士はちょっと憤慨して、
「それでは警察の闇は、闇のままで終わってしまう。それには不快感を禁じ得ないです」
「まあ、世の中、きれいごとだけで構成されているわけではないでしょ」と元警視。
「そりゃそうですが、今回は四人も殺されて麻薬まで流通してます。清濁併せ呑むには濁りが多過ぎますよ」
司会は「まあ、憶測の部分が多いのでこの辺でCM行きます」と遮った。
野津と岩田は長時間録音を聞くのに、会話以外の部分は早送りしていた。警視庁の辻という警視と千堂との会話はすでに少し聞き取れた。48時間の録音中に高柳の秘密の会話が多く含まれていると推察される。定時で上がる予定なので、きょう中に全部は無理だ。野津も岩田も約束を反故にできないので、岩田がコンビニに行きシャワーを浴びる間を除き、ギリギリまで二人で録音を聞いてメモし、野津は吉祥寺、岩田は荻窪に急ぐことになった。
「仕事以外で、例え一駅でも一緒に電車に乗るのは初めてじゃないか?」
「そうですね。ガンさんは武蔵小金井だから方向が逆ですもんね」
「さて、スイッチをOFFにするか。ノリベンもそうしないと蓄積疲労になるぞ」
「β-エンドルフィンが出ることをすればいいんですよ」野津が小声で言って笑った。
「脳内麻薬か。ははは、最近そういえば疲れが残らなくなった」岩田が微笑む。
その頃、高柳は辻警視と電話していた。
「盗聴器だと?なぜ気が付かなかったんだ、バカ者が。違法捜査だと言って取り返せ」
「本当に申し訳ありません。ただ、外部に漏らす気はないようでして」
「問題はそこじゃない。お前が内通者だということと、警察上層部の人間が危ない」
「はい、本当にすみません」と相手に見えないのに頭を下げた。
「とにかく、ある警視正に相談する。状況によってはお前の昇進は見送りだ」辻のほうから電話を切られた。
高柳は椅子の背もたれにガックリと身体を預けた。部下に暴かれるとは思っていなかった。自分の油断に腹が立った。下手をすれば昇進どころか左遷である。妻子を抱えて地方に飛ばされてはたまったものではない。そもそも、家族になんと説明したらいいのか。高柳本人も家族も東京と神奈川にしか住んだことがない。遠くに飛ばされたら、子供も苦労するだろう。
自宅にいる千堂に玉置警視正から電話があった。
「なんだ、夜分に」
「いや申し訳ありません。が、一刻を争う事態ですので」
「え?何があったんだ。水巻釈放で変だとは思ったがね」千堂の不安は的中した。
「篠崎陽晴が岸村殺害と、藤中組からヤクを預かっていることを自供したんです」
「なんだって!わたしとの関係はバレないだろうな、どうなんだ」つい声が大きくなる。
「限りなくマズいです。保管場所がわかったのでマトリが没収に行き、藤中組を堂々と捜査しています。今夜中にも先生のところにマトリが行くかも知れません。いずれ真相が解明されるとしても、当面は何も知らない、何のことだ、と白を切って時間稼ぎをしてください」玉置は緊急事態なので早口になっている。
「分かったよ。自宅にはまったく隠していないから、あとは別居している娘に処分させる」
「いえ、お嬢様のところには、もうマトリが行きました。ですから、お嬢様個人の問題と言い張ってください」
「マトリは動きが早いからな。娘がホントのことを話したら終わりだよ」
「いま、警察上層部に相談中です。とにかく1分でも時間を稼いでください」
「分かった」と言ったとき、インターホンが鳴った。
「もうおいでなすったようだ。そっちも早く対処してくれ」と電話を切る。
使用人がインターホンに出て、
「麻薬取締官だと言ってます。強制家宅捜査だそうです」と慌てている。
「仕方がない。入れろ」と千堂は静かに言った。
マトリはリビングにいる千堂のところに案内されて来て、
「瑞穂さんのお住まいから麻薬が発見されましたので、ここも捜査させていただきます」
「麻薬?娘がそんな物を?」と演技賞ものの驚き方を千堂はする。
10人ほどの捜査官が広い邸宅を一斉捜査し始めた。
「瑞穂個人が所有していた物だろう。わたしは関係ないし、ウチをいくら探しても何も出んぞ」と叫んだ。
「あなたに政治献金をしている人物や団体を調べたところ、あなたから薬を貰ったというウラは取れていますよ」代表の捜査官がピシャリと言った。眼光の鋭さは千堂を超えていた。
千堂は身体の力が抜けるような感覚に襲われ、ソファに倒れ込んだ。もうダメだ。政治家としては終わったなと思った。人に対しての口止めは案外脆いと後悔もした。労民党には迷惑をかけることになる。が、議員辞職は免れない。
「誰に聞いたんだ」と声を絞り出した。
「国際商事という会社の社長を問い詰めたら吐いたんですよ」千堂には覚えがある。
「なるほどね」口が堅そうな人物と思っていたが、マトリの厳しい捜査に音を上げたか。
翌朝、野津は朝のニュースで『労民党の千堂聡介党首が、突然の議員辞職です。千堂議員は麻薬取締法違反で逮捕され、今朝になって党首辞任と議員辞職が労民党から発表されました』
野津は特段驚きもせずにそれを聴いた。史代が言う。
「あなたが調べていたのはこの事件なのね。単なる連続殺人かと思ったら、ずいぶん入り組んだ事件だったのかあ」と感心している。
「まだ完全に事件が終わったわけじゃない。主犯格が誰かを突き止めるのがゴールだから」と野津は答える。
「そういう正義感は好きだけど、あんまり無茶しないでよ。いつもわたしの存在を忘れないでね」と懇願気味に言いながら朝食を口にした。
「いつでも美味しい物を食べられるように、か」野津は微笑んでいる。
「子供ができたらもっと大事な人になるのよ」史代の口調は柔和になった。
野津が署に出勤すると、岩田はすでに出勤していて、
「おい、早く録音を聴かないと、何かが揉み消されそうだぞ」と立って来た。
「昨夜のお食事はどうでした?」と野津が訊く。
「いや常人の手料理の域じゃなかった。ネットで調べたと言っていたが、センスがなければあそこまで美味しい物は作れないと思ったよ」岩田は少し浮かれた様子だ。
「それはよかったですね。頭脳明晰でかつ家庭的とは」訊いてくれて嬉しいんだな。そう野津は心の中で笑った。
早速録音機を持って、昨日取った部屋に行き録音の続きを聴く。会話以外を早送りすると約2時間で聞き終えるはずだ。
「ガンさんこれって」野津がリピートする。玉置警視正の声で、
『湯浅氏』と言っている。不明瞭だが『ウィクトーリアは謎のままで』と続いている。
「陽晴の供述のウラが取れたな」岩田が納得する。
急いで続きを聴くと、辻の声で『さやかを犯人としてリーク』『瑞穂の逮捕令状は出さない』『バイオレットピープルは摘発を控えろ』など続々とおもしろい発言が出て来た。
「これは警察内部の陰謀だよな」岩田が厳しい顔になる。
「あ、ガンさん、首の後ろ。キスマークが」と野津はひやかした。
「ホントか。マズいな。それより、これをどうするか、だよ。署長も曲者だったな。おそらく昇進を餌に、情報操作や我々の監視をしていた模様だな。署内の各所に隠しカメラがあると思う。この録音を違法と言われたら、署内監視も違法と言って対抗しよう」岩田が本気モードだ。
「わたしが調べた限りでは盗聴自体は違法ではありません。むしろ、無断で署内を監視してたほうが罪に問われる可能性があります」野津は予めネットで調べたことを述べた。
そこへ高柳がノックもせずに入って来た。
「その盗聴器をよこせ。違法捜査だぞ」偉い剣幕である。岩田が落ち着いて答える。
「いや、違法じゃないようで。それより、なぜ署内を監視しているのですか?」
「監視だと?そんなことは、してない」徐々に音量が下がった。
「例えば取調室とか、よく調べてみましょうか?」岩田が問い詰める。
「いやいい。分かった。じつは上からの命令でしたことだ」高柳が降参した。
「湯浅氏、というのは湯浅剛之介警視監ですよね。矢野のリストにG・Y58歳とある。珍しいイニシャルで58歳というのも一致します。警視監が合意痴漢グループのメンバーでは都合が悪いんでしょうね」野津が追い打ちを掛ける。
「そ、そんなことまでは知らない。本当だ。ただ、合意痴漢なんて単なる理想で、実際はサインの誤認で一般人に迷惑をかけているだろう。だからバイオレットなんたらのメンバーに警察内部の人間がいたら、それはマズいに決まっている」
「迷惑?確かにそうですね。でも、あらゆる趣味趣向は、厳密に誰にも迷惑でないものはありませんよ。そもそも、『需要があるものは供給されるべきだ』という梶谷光のスローガンがある。警察だって、犯罪抑止や犯罪解決という需要があるから民間人に迷惑がられても供給されていますよね。痴漢行為も、需要の存在は明らかなんです。一概に『犯罪です』と言い切るのはおかしい。それだけは覚えておいてください」野津は一気に理屈を言い切った。
「まあ、もちろん強姦や痴漢は女性の心の傷になる場合もありますから、他の趣味趣向と同一視はできませんが。でも痴漢させて示談金を狙う悪辣な事案も起きていますからね。女性専用車両程度の対応で解決できない複雑な問題です」
三鷹北署に来ている滝口警視に岩田が相談すると、
「監視カメラ?そんなもの、すぐに取り外せ。高柳が全部知っているだろう?」と答えた。署長室に行くと落ち込んだ高柳にカメラの場所をすべて聞き、人員を手配して取り外した。
滝口に湯浅警視監のことも話すと、
「それは一警視がどうにかできることではないが、SNSに流せば、上層部も反応せざるを得ないだろうな」と慎重に言葉を選んだ。
試しに野津の個人的アカウントで湯浅の名は伏せて呟くと、一気に噂が広まり、「警察に合意痴漢がいるなんて」という非難に対して、少数ではあるが「誰でも変わった趣向があっていいじゃないか」との擁護もあった。午後には5000以上リツイートされて、コメントが莫大な量になっていた。
夕方、警視庁に動きがあった。緊急記者会見とのことで、テレビで放送されるという。捜査本部の多数の捜査員がテレビの前に集まり、記者会見が始まった。警視総監と見慣れない人物が現われ、マイクの前に座る。警視総監が話し出した。
「このたびは、連続殺人事件と合意痴漢、ならびに麻薬取締の件で、皆様に大変ご迷惑をおかけしました」と立ち上がってお辞儀をした。隣の人物も同様にした。着席した総監は、
「警察上層部に合意痴漢グループのメンバーがいるとのことで、早速調査しましたところ、わたしの秘書である、この池吉幹夫であることが判明いたしましたので、池吉秘書官を辞任させる運びとなりました」
「身代わりだ、こんなの!」と野津が声高に叫んだ。捜査員たちにざわめきが起きた。池吉と言われた人物が、
「このたびは警察官として大変お恥ずかしい事態を招きまして申し訳ございません。わたしの辞任をもって、捜査に収拾をつけたい所存です」と述べた。
「まだウィクトーリアとかいう架空の人物が特定されてないじゃないですか」
「主犯格を捕まえずに事件は終わりませんよ」
記者たちが口々に叫んだ。総監は動揺した様子もなく、
「ですから、この池吉がウィクトーリアです。彼を一連の事件主犯格として逮捕し、厳重に処罰いたします」とむしろ重々しく言った。
取材記者たちの怒号は続いたが、
「それではこれで会見を終わります」と司会役の者が言い、二人は退室してしまった。
野津は岩田に、
「矢野も陽晴もすでに殺人犯確定ですから、湯浅のことを証言させて罪状を少しでも軽くなるようにしたらどうでしょう」と提案した。
「だよな。あの池吉という秘書が可哀そうだし、合意痴漢グループと殺人を同一視されるのは納得がいかない」岩田は賛成する。
まずは矢野を呼ぶ。岩田は、
「湯浅剛之介、もちろん知ってますよね?」と訊く。
「ええ、メンバーの一人でした」
「せがれの湯浅賢太郎は、あなたの後輩准教授ですよね」
「はい。それが何か?」矢野はきょとんとしている。
「すべての根源は湯浅剛之介で、ウィクトーリアはそいつだ。メール送信は主に賢太郎が代理でしていたと思われる」
「ええっ!あの大人しそうな湯浅が?」
「賢太郎自体には大して罪はない。父親がバイオレットピープルもジ・アンダーテイカーもアイグレーも操作していたんだよ」
「そ、そんな・・・」矢野は放心している。
「藤中組とも関係があっただろうな。水巻が陽晴の身代わりだったことで分かる」
「つまりは、麻薬にも関与していたと?」矢野はゆっくり呟いた。
「そうだ。あんたには湯浅が合意痴漢のメンバーだったことを証言して欲しい。少しは罪状が軽くなるのを祈っている」
呆けたようになった矢野を連れ出させ、今度は陽晴を呼んだ。
「きみはジ・アンダーテイカーのヘッドは湯浅准教授ではと言ったよね。でも、その父剛之介がバイオレットピープルのメンバーだったんだ。どう思う?」野津が尋ねた。
「そうなんですか?」と陽晴は驚きながら「でもあり得ますね。対抗分子を作り、却ってグループの結束を強める。心理学的には理に叶っています。フェミニスト集団の操作も、一見肯定しているようで品田や多和田などを利用していますよね。バイオレットピープルメンバーに問題が起きたら、自分の保身のためにはどうとでもできるようにしていたと感じます。僕は指示が自分の都合に合致していたから犯罪を犯した。でも矢野さんは騙されたのでは?」
「矢野はね、言いにくいんだが、お姉さんさやかのトリックに騙されたんだよ」岩田が顔をしかめて言う。
「姉のトリック?」陽晴は目を見開いた。野津が宥めるように言葉を繋いだ。
「『揉み消してくれ』の『揉み』を京くんのいたずらで削除されて転送してしまったら殺人が起きた。二件目と三件目は敢えて『揉み』を削除して転送したそうだ。あ、三件目はきみか。さやかさんも、まさか実行犯が弟になるとは予測不可能だったよね。お姉さんは未必の故意だが、殺人教唆に準じる罪になると思う。あと麻薬の流通にも一役買ってしまったし」
「それにはまったく気付かなかった。気付きようがないですが。『1000万払うから消してくれ』とメールが来たので、まさか揉み消しの資金とは思わなかった。岸村のケースは3人で1500万と来たので、明白に殺人依頼ですが」
そのとき部屋にデータ班の女性刑事が入って来た。
「世田谷の発信場所が細かく特定できました。千堂家ではありません。もう少し東の、その」
と言い淀んだ。
「湯浅警視監宅なんだろう?」と岩田が声を掛ける。
「あ、はい。湯浅邸も広いので、隣と間違えているとは思えません」
「ありがとう。重要な証拠になります」野津も労った。
岩田と野津は改めて陽晴と話し合う。定時は過ぎているが今夜はまだ帰れない。警視庁の処分を覆すには早さも必要だ。
「さて、証拠も揃ったし、岸村殺しとアイグレー関係、麻薬、つまり藤中組だが、湯浅絡みだと証言してくれるね?矢野にも頼んだが、罪状が幾分軽くなると思うから」岩田が説得する。
「僕なんか死刑で結構ですけど、姉や千堂の役に少しでも立つなら喜んで。警察上層部の罪だって絶対許せませんしね」陽晴はきっぱりとそう言った。
「矢野ときみの供述書に湯浅剛之介の名前を記述するので、殺人実行犯といえどもうまく行けば実刑ですらないかも知れない。何しろ主犯格は湯浅だから。一件目の殺人のときに『違うだろ』と言って来なかったのも、殺しでもいいと湯浅が思ったからだろう」野津はそう説明した。
20時を回っていたのでさすがに野津と岩田は帰ることにした。
「明日朝、二人同時に調書を作ろう。オレは矢野に付くから、ノリベンは陽晴を頼む」
「今晩は気合が入って眠れないかも知れません」
「そういうときは」
「β-エンドルフィン」二人の声が重なった。思わず笑う。
野津は帰宅すると、
「明日は勝負の日になりそうだ。ちょっと肩に力が入ってる」と史代に言う。
「じゃあ、まず夕飯をしっかり食べてくださいな」そういう史代をそっと抱き締める。
「え?今夜も、もしかして?二日続けてなんて新婚以来よ」
「リラックスして眠りたいから協力してくれよ」と野津は史代の顔を覗き込む。
「いいわよ、もちろん。ふふふ」史代は嬉しそうに笑った。
翌朝8時半には野津も岩田も出勤していた。
「ノリベン、よく寝たか?」
「ええ、7時間ぐっすり。β-エンドルフィンでね」もうギャグになっている。
「9時になったらすぐ始めるぞ。コーヒー飲むか?」
「ええ。あ、すいません」岩田が二人分のコーヒーを持って来た。
「珍しくオレが淹れたんだ。気合入ってるからかな」苦笑している。
そこへ捜査本部の男がやって来て、
「篠崎が言ったゼッケンから、彼と岸村殺害をした二人が特定できました」と言う。
「お、早いね、さすがだ。どうやって?」と岩田。
「ジ・アンダーテイカーの闇サイトに侵入したらゼッケンでやり取りしていたので、あとは簡単でした。一人は貧乏学生。もう一人はブラック企業の社員でした。500万なんて言ったら喉から手が出るほど欲しい人間が、いまの日本には多いってことですね」
「出頭は?」
「それぞれの自宅で身柄確保済みです。岸村は警視庁案件なのでそっちの留置になってます」
「あ、そうか。陽晴は連続殺人もあるからウチで預かられているわけだね」岩田は納得する。
8時55分、岩田と平岡、野津と江頭の二組に分かれて別室で矢野、陽晴を待つ。9時ちょうどに供述書作りが始まった。
矢野は理路整然と話すので、書記が打ち込むのが間に合わないほどの速度で供述書ができていった。彼の場合、間違った指令で犯した殺人だけなので余計に早い。11時過ぎには完了した。陽晴のほうへ岩田が行くと、彼も頭がいいが事情が複雑なので少し手間取っていた。
「岸村殺害の経緯を書いたら終わります」と野津が言う。
「12時に終わらなかったら飯食えよ」と言って岩田は自席に戻る。
12時半頃になって野津は自席に戻って来た。
「終わりましたよ、ガンさん」笑顔で言う。
「一緒に蕎麦屋行こうと思ってたのに、コンビニ弁当にしちゃったよ」
「ああ、すいません。もう少しで終わりそうだったので、仕上げてしまいました」
「データは保管して、印刷したものを警視庁に持って行こう」
「いまの時代、コピーも不要だからいいですね。証拠隠滅もできない」
伊集院警視正、滝口警視を伴って、野津と岩田は車で警視庁に乗り込んだ。伊集院は最初渋ったが、これが事実と押し、なんとか説得した。
「捜査一課に来ました。三鷹北署の野津と岩田です」岩田が受付で言う。
受付の婦人警官は内線で確認を取った。
「どうぞ。乃木一課長がお待ちです」
四人は捜査一課の部屋に入り、奥の課長個室をノックした。
「ようこそ、みなさん、というか三鷹北署のお二人」と一課長は軽んじたように言い放つ。
「篠崎陽晴と矢野和親の供述書です。二人の供述には警視庁が伏せたい事実が書いてあります。端的に申し上げると、ウィクトーリアの正体、湯浅剛之介氏のことです。これをご覧になっても真相を隠されるのでしたら、供述書のデータもございますし、現代は便利なことにネット社会ですので」と岩田は堂々と述べた。
「きみたち、身分がどうなってもいいのかね?」と一課長がずしりとした声で言う。
「こんなことで身分がどうかなるのでしたら、それはまた問題ですし、クビでも左遷でもしてください。どうせしがない所轄の刑事です。惜しむような肩書もございません」野津は凛として言い返した。
「分かったよ。湯浅は定年間近の警視監だ。天下りが早まるのと再就職がしょぼくなるだけだ」
「再就職?殺人指令を出していた人物は実刑確定の犯罪者です。課長のご認識を改めていただきたい。指令を発信した地点も特定できているのです。単なる合意痴漢グループのメンバーではございません」岩田の語気も荒くなっている。
捜査一課長乃木大輔は、『え?』という表情で、腕組みをする。メガネを外しデスクに投げ出す。苦渋の顔をして、しばしの沈黙のあと、
「うーん、捜査一課の威信に賭けて、湯浅剛之介を主犯として逮捕せざるを得ないな。当面、警察の信用はまた落ちるだろうが、事実なら仕方ない。今回はきみたちに負けた。わたしだって潔くないのは嫌いだ。思えば、昨日の記者会見は三文芝居だったな。もう一度、本当の記者会見をお願いしようじゃないか」と渋く微笑む。幾多の経験で、むしろ人柄が丸くなっていると伺える。
二人は、もっと手間取ると思っていたが、乃木の英断であっさり決着した。
「ありがとうございます」野津と岩田は同時にそう言って最敬礼をする。
二日連続の警視庁記者会見で、報道陣も慌てて駆け付けた様子だった。テレビも臨時ニュースを流したり、中継の用意に追われている。
会見は警視庁捜査一課長の単独だった。
「昨日は事実誤認の会見をして誠に申し訳ございませんでした。情報が錯綜しておりまして、本日改めて記者会見の運びとなりました」座ったまま頭を下げた。野津たちは会見場に居残って、目の前で見ていた。
「これから申し上げることが真相です」と一度言葉を切る。
「痴漢加害者と岸村健一さん殺人の犯人が判明しました。また薬物の問題は報道の通りです。みなさんご存知の主犯格『ウィクトーリア』は警視庁警視監である湯浅剛之介と申します。警察上層部から主犯格が出たことは、いくらお詫びしてもし切れないほど重大なこととして受け止めております。殺人実行犯の矢野和親並びに篠崎陽晴ほかは、一部は篠崎さやかの責任もあり、しかしながら、指令を発信したのは間違いなく湯浅でございます。えー、殺人事件の詳細については囲み取材やニュース報道でお知らせできると思います。では失礼致します」とここで立ち上がって深々と礼をした。