16.晩春の嵐光
野津が署に戻ると、科捜研の指原の姿があった。岩田に何やら説明している。側に行くと、
「一度に20ミリグラム程度ならちょうど中毒になる量ですね。さやかならそれは知っていたでしょう」指原は青酸カリのことを話しているらしい。
「青酸カリで、じわじわと死に至らしめるのは可能なんですか?」野津が訊く。指原は、
「正式にはシアン化カリウムと言います。作物の消毒にも使うので、じつは猛毒というわけではありません。ただ、長期間ヒトが微量を摂取すると臓器や中枢神経に故障を起こす可能性は高いですよ。その場合、毒物で死んだようには見えませんし、仮に解剖しても所見に毒素は許容量しか出ません」科学者口調ですらすらと言う。
「20ミリって0.02グラムか。キッチリ計る道具が必要では?」
「消毒に使う場合も分銅を使用した天秤計りがいるので、持っていて当然です」
野津と岩田は、なるほどと感心するしかなかった。
指原と入れ違いに、矢野の住居を捜索した三角がやってきた。
「少なくとも西新宿のアジトにはコスチュームはありませんでした。どこかに処分したのか、それとも矢野は実行犯でないのかのどっちかですね。まさか本来の自宅に隠しているわけはないですし、他の容疑者も調べたほうがいいと思います」落ち着いた小声で言う。
「そうか。勾留中の陽晴も叩いてみたほうがいいな。彼が実行犯でなくても、何か知っているかも知れんしな」岩田は腕組みをしてそう返事をすると、
「ノリベン、陽晴の取り調べをしよう。でもちょっと休憩していいよ。深谷への往復で疲れてるだろ?」と野津を休憩室に誘った。
野津は深谷市で仕入れた情報を岩田に話した。冷たい物が飲みたいので自販機のアイスコーヒーを飲んでいる。
「森脇老人の話は興味深いな。さやかも陽晴も豊里部落が出自と知っていたんだな。さやかと千堂は、近親かも知れないのを承知で交際しているわけか。あの姉弟が結託して両親を死なせたかも知れないな。それはつまり、遺産目当てだけじゃなく、恨みの感情もあってだが」
「そうなんですよね。特に陽晴は親に遺恨を抱いていた様子で。姉が千堂と付き合っているのも快く思っていないのでは、と。千堂の住まいが元は橋爪家の持ち物だったのは確認したいですね」
「それは簡単にできる。まあ、調べるまでもなくノリベンの言う通りだろうな。でさ、矢野と千堂も出自を知った上で関係ができた可能性はあるな。明日にでも矢野も叩いてみたい」
陽晴の取り調べは難航した。彼が「分かりません」を連発したからだった。豊里裸族のことを聞いても答えない。
「じゃあね、三件の殺しの時間のアリバイはあるか?客観的な」岩田が訊く。
「三件目は光さんだから、前に話したでしょう?あとの二件は自宅で制作活動中だったから、メンバーに聞いてください」
「メンバーの証言では客観的アリバイとは言えないよ。他人でも身内じゃないか」
「そう言われたらないですよ。でも、そのスーパーなんとかのコスチュームなんか持ってないです。それでも僕を疑いますか?」と陽晴はやけに落ち着いて吐き捨てるように言う。
岩田はそれを聞いて微笑んだ。
「国立のマンションにもどこにもないだろうな。なぜなら三件目のときに捨てていればいいからだよ。四件目の事件が起こらないのもそのせいじゃないのか?」
「言い掛かりですよ、そんなの」と陽晴は一層不機嫌になる。
そこへ平岡が入って来た。
「きょう、江頭と立川の現場付近を調べていたんですが、アンダーパスに住んでいるホームレスがスーパーハリケーンのコスチュームを着ていました。あ、覆面はしてなかったですが。で、理由を聞くと、『ああ、3月の雨の日に捨ててあって、ちょうどいいから着替えに貰った』と言いましたよ。四件目の同様の事件が起こらないのは、実行犯がコスチュームを捨てたからでは?」
「だってさ。きみはあの夜、現場に行ったんだよな?」と岩田が陽晴を睨む。
「だから、行ったら光さんが死んでいて、怖くなって帰ったと言ったじゃないですか」
平岡が口を挟む。
「鬼公園の近くに雨宿りができる場所がある。そこで隠し持ったコスチュームに手早く着替え、犯行後に脱ぎ捨てれば辻褄は合うんだけどね」
ここで岩田に何やら耳打ちをする。
岩田は平然とした顔で机をバンと叩いた。
「これでどうだ?え?あんたもウィクトーリアからの指令で動いていたんだろ?スマホのメールは全部削除したんじゃないのか?しかも、矢野とあんたは千駄ヶ谷のレスリング道場に通っていたのが分かった」陽晴は俯いて沈黙している。この青年は場の重力を増すような存在感がある。10秒ほどの静けさが部屋を覆ったとき、
「僕ですよ。三件とも。やれば1000万くれるというメールで、実際に口座に振り込まれましたし。三件で3000万円貰いました」と呪縛から解き放たれたように、ゆっくりと言った。
「ウィクトーリアが誰なのか、疑いもしなかったのか?」
「以前からやり取りはしていて、小さな用事を頼まれては小遣いを貰っていたから、ジ・アンダーテイカーの上の方の人間だと思ってました」
岩田は野津と顔を見合わせる。痴漢反対派ジ・アンダーテイカー、フェミニスト集団アイグレー、バイオレットピープル主宰矢野そして千堂瑞穂に共通してウィクトーリアからのメールが・・・どういうことだ。犯行に関わったすべての人物がその名前に操られているようだ。千堂か?いや警察の上層部?触れてはいけない真実に近付いているかも知れない。二人は同時にそう思った。
滝口という警視が部屋に入って来た。
「どうですか?様子は?」
「篠崎陽晴が自供したところです。連続殺人の実行犯はこの男です。麻薬に関しては姉のさやかまでは分かるのですが、それ以上こちらで調べるのははばかられます」岩田が報告した。
「ウィクトーリアとかいう架空の名前の主は?」
「まだ全然分かりません。ただ、今回の連続殺人に関与した人物にはすべてその名義のメールが来ています」
「警視庁捜査一課と組対が協力して捜査しているが、岸村のこととヤクのルートが分からん。藤中組にはマトリ捜査の手も入っているが、いまだにブツが見つかっていないそうだ」
翌日の午前、矢野を取調室に入れた。
「陽晴くんがそんなことを?」と矢野は驚いた。明らかに動揺している。
「なぜ驚くのですか?」と野津が尋ねる。
「彼はおそらく三件目の梶谷さんだけしかやってない」と言う。
「どうしてそう言えるんだ」と岩田。
「ああ・・・それは・・・他の二件はわたしの犯行ですから。『消してくれれば金は払う』とウィクトーリアのメールが来たので」矢野は肩を落とす。
「本当か?だったらコスチュームはどうした」岩田が問い詰める。
「二件目の後に、ウィクトーリアからのメールで、指定の住所に送るように指示があって、それが陽晴くんの住所だったんですよ。一応洗濯して送りました」
「一件いくらだったんだ?」
「500万円です。お金に目が眩んだだけではなく、岸村の強請りを受けていた人物だったので」
岩田と野津はふっと溜息をつく。
「そのメールは消しての前に『揉み』があったのを削除したんですよ」野津が残念そうに言う。
「えっ!そうなんですか?そ、そんな・・・」
「岸村殺害についてはどうですか?」野津が訊く。
「陽晴を含むアンダーテイカーの仕業では?反社の水巻が逮捕されていますが、彼はダミーの実行犯だと思います。もう一度陽晴くんを取り調べたほうがいいのでは?」
「じゃあ、千堂とあんたの関係だが、豊里村出身だから懇意になったのでは?」岩田は続けた。
「よく調べましたね。千堂・篠崎・矢野は全部豊里部落の出身ですよ。まったくの他人ではなく、血が繋がっている可能性があります。それは彼らがバイオレットピープルメンバーになってから調べて気付いたことですけどね。千堂聡介もそれに気が付いて、わたしと普通のメンバーを超えた関係でした。ウィクトーリアが千堂だとすると、ジカに殺人依頼をしてもいいのに矛盾します。陽晴くんが余計な罪を被ろうとしなければ、わたしはこの話はしないと決めていましたから」
「念入りな身分隠しかも知れんよ」そう岩田は言い、壁の前に立って腕組みをした。
「だがな、確かに千堂がウィクトーリアだとするには不自然な点がある。多くの指示メールを送れるほど彼は暇人じゃないからな」
「ですよね。ウィクトーリア複数説を採用しても、千堂には都合のいい仲間がいません」矢野が分析する。もう殺人犯として扱われる覚悟ができた様子だ。
「とにかくあんたの供述書を作って、改めて殺人容疑で逮捕することになる」岩田は椅子に座り直してそう宣言した。
矢野を勾留から留置に切り替え、早速陽晴を取調室に連れて来させた。
「矢野の供述ときみの供述が一致しない。正直に話してくれ」岩田は陽晴の向かいに立った。机に手をつき見下ろしている。怒っているときの彼の癖だ。
「本当のことを言います」陽晴は覚悟を決めた表情になった。
「光さんと岸村は僕の仕業です。岸村はアンダーテイカーの仲間二人と、夜に人気のない東京湾に呼び出して殺しました。『極秘の情報があるので』と言ったら、喜んで来ましたよ。どっちも指令があってやったことですが、僕としては姉のことを思うと都合がよかった」
「なるほどな」岩田の表情が少し緩む。
「で、金銭に関しては?」
「光さんは1000万、岸村は1500万の山分けで一人500万円です。それと、藤中組からの提案で、実行犯をこちらから出す代わりにブツを預かって欲しいと言われました」
「えっ、あんたがブツを預かっているのか?」さすがに岩田も驚いた。
「なぜか藤中組に岸村殺害がバレていて、スーツケースに一杯のブツを預かり、あるトランクルームに隠しています。倉庫代を含めて1000万貰いました」
「おいおい、二件の殺人に麻薬まで。どうしてそんなに罪を犯すんだ」岩田が呆れる。
代わりに野津が、
「麻薬も、もしやお姉さんの保身のために?」と尋ねる。
「そうですよ。弟が犯罪者なのはよくないですけど、それでも放置していたら姉の身分が大丈夫か、どれほど心配したことか。僕は千堂聡介と無事に幸せになって欲しいです。僕らと千堂が豊里村出身の血統なのは知っています。それでも、いや、だからこそ、あの二人が結びつくのはいいと思いました」
「それもどうかな、とは思うけどね。お姉さんが罪を犯したのはもうわかっているんだ。詳しくは教えられないが」野津は少し可哀そうになって言った。
「きみたちのご両親の死については、もう調べようがないが、お姉さんの仕業ではないかと、現地ではいまも疑われているよ」
「僕も、姉ではないかと思っています。朝食は姉の担当でしたし、僕を音大まで行かせるにはウチは貧しかったので」陽晴は野津のほうを向き、
「僕、ウィクトーリアの正体が想像できるんですけど・・・」
「本当か?」と岩田。
「一連の動きを総合すれば、警察内部の人間で、資金は後ろに資産家がいるのでは、と」
「心当たりはあるのか?」
「先日亡くなった橋爪大使なんて怪しくないですか?あの人は政界にも警察にも顔が利く。ウィクトーリアからのメール発信場所は?」逆に質問して来た。
「西新宿・八王子・世田谷だ。矢野・さやかさん・千堂だと推測している」暑いので窓を開けながら岩田が言う。
「世田谷のはきっと千堂聡介じゃないですよ。千堂の自宅付近に住んでいる警察の上層部を当たったほうがいいです。ある警視監の息子が明京大の准教授で、矢野さんとも顔見知りですよ」陽晴は確信あり気に言う。
「だとしたら、警察内部を摘発するのは簡単ではないけどな」と岩田は思案顔になった。野津も岩田に向き合い、無言で目を合わす。世田谷に住む警察上層部の高官と言えば、口にするのも躊躇われる人物だからだ。
そのとき、吉永が入って来て、
「あの、高柳署長がお呼びです」と告げた。
岩田は内心『来たか』と思った。こちらの動向を監視しているのではないかと疑っていたから、陽晴の話が核心部分に触れたときに予測していた。
加古は自分のアパートで慶菜と一緒に、ゴールデンウィークの予定を立てていた。
最近の慶菜は、服装の露出度が控え目になっている。コンタクトも外してメガネをかけていた。もう誰の目を惹く必要もないからだろう。普通のロンTにデニムだ。加古も着古した服装でリラックスしている。
「ディズニーランドは行きたいでしょ?」
「うん、そうだね。ただ混みそうだから、いっそその直前の平日に行かない?」
「それもそうね。じゃあ旅行とか」
「旅行は、まずケイちゃんのご両親に挨拶してからだよ。あ、それで、僕の和歌山の実家に来る?何もないけど海はキレイだよ。食べ物は絶対東京よりおいしいしね」笑顔で加古は言う。
「行きたい。行くっ!ねえ、ウチの両親に会ってよ。おとうさん怖くないわよ」と微笑む。
「じゃあ、ご両親の都合を聞いておいてね」
「うん。お姉ちゃんはヤキモチ焼きそうだけど」と声を上げて笑った。加古もつられて笑う。
そのとき、つけっ放しのテレビにニュース速報が出た。
『岸村健一さん殺害容疑で逮捕されていた水巻崇が、証拠不十分で釈放されました』
「ええっ!」二人同時に驚いた。
「だったら」
「犯人は誰なのよ。まだ捕まってないってこと?」
すぐにネット検索をすると、もうニュース動画が上がっていた。どうやら他の容疑者を確保している様子だが、詳細は警察が発表しないらしい。『別の容疑者を調べている模様』というのは、そう解釈していいと思った。
「結局さ、いろいろ動画を見て、怪しいのは警察内部の人間だよね」
「そうね。だけどその場合、うやむやになるか、誰かが辞任して終わりじゃない?」
「うーん、まあね・・・」大人の事情は嫌いな加古だった。
加古が実家に電話すると母親が出た。
「かあさん、ゴールデンウィークに帰るかもしれない」
「珍しいわね。正月や夏休みもロクに帰省しないあんたが。そういえば勉さんもあんたも怪我したんでしょ。大丈夫なの?」
「野津さんは腹を切られて大変だったけど軽症で済んだ。オレは古傷の左肩を亜脱臼しただけだよ。でね、もし帰るとしたら、彼女が一緒なんだ」
「へえ。大学になって初めての彼女かい。ぜひ連れて来なさいな」
「まだ向こうのご両親に挨拶してないから、承諾を得られたら、だけどね」
「分かった。2日前までに連絡頂戴ね。準備の都合があるから。そう言えば言ってなかったけど父さん今度校長になるのよ」
「へえ、ついにか。よかったね。何をプレゼントしようかな」
慶菜は実家に電話して、今度の日曜ならと話が決まった。
「じゃあその前の金曜日にディズニーランドは行こうか」
「うん、いいわね。どんな服着て欲しい?」
「ええ?エッチな服」加古は笑う。
「またあ、アトラクションでパンチラとかやだ。じゃあ外国製のピチピチホットパンツ穿いたげる。ヨシくん、興奮しないでよ」慶菜も笑っている。
「日曜日はどんな服装がいいのかな。学生らしい格好で清潔感があればいい?」
「そうね。当日、わたしが迎えに来るから、そのときチェックしてあげる。吉祥寺から中央線で八王子からタクシーが一番ラクだからさ。タクシー代は気にしなくていいわよ、わたしに任せて」
何かと加古の財布を気にしてくれる優しい慶菜だった。まあ、小遣いも慶菜は多く貰っているので加古はありがたくお世話になっている。
矢野と陽晴の取り調べ中、高柳は警視庁の辻に指示を仰いでいた。
「実行犯が明らかになる模様ですが、麻薬や要人の供述が出たらどうしましょう」
「麻薬はマトリの担当だから情報を流すしかないが、要人の話しが出たらさりげなくストップさせろ。それ以上の調査は警視庁の分担になると言え」
「分かりました。いま陽晴がヤバい供述をし始めたので、止めに入ります」
野津と岩田が署長室に入ると、
「矢野と篠崎の取り調べは進んでいるか?」と高柳が岩田に訊く。
「はい、ここへ来て急転直下気味に進捗しています」
野津は横を向いて笑いを堪えた。
「どこまで分かった?」
「藤中組のヤクの在処は陽晴が知っています。梶谷と岸村は陽晴、あとの二件は矢野が実行犯というのも確定でしょう。すぐにマトリに報告しますか?あと一連の殺人の主犯格も分かりそうですが」
「主犯格?ウィクトーリアとかいう架空の名義のことか?」
「そうです。陽晴は見当がついているようで」
「待て。見当程度で動くな。それは警視庁案件かも知れない」
「そうですね」と岩田が言ったとき、野津が高柳のデスクに近寄り、
「この部屋に盗聴器があるのでは?」と言った。
「そんなバカな。ここには掃除婦も入れていないし」高柳が怪訝な顔をする。
「ちょっと失礼します」と野津はデスクの下を覗く。何かを取り出した。
「署長、盗聴録音機が仕掛けられていましたよ」
「なんだと?それができるのは・・・」
「この部屋に出入りできる人間だけですよね」野津は不敵に微笑む。
「お前だな!仕掛けたのはっ!」
「いえ、わたしはいま発見しただけですよ。これはかなり長時間タイプの録音機が付いていますね。早速分析させていただきます」としれっと答えた。
「それをこっちに渡せ」と高柳は慌てている。
「重要なことが盗聴されているかも知れません。極秘に調べさせてください」野津は冷静だ。
「お前はわたしに盾突くつもりか?」声高な高柳は野津を睨む。
「盾突く?どういうことでしょうか。署内のことは署内で解決したいではないですか。だから単純に聴いてみるだけですよ。何か都合の悪いことがあるのですか?」
高柳はぎくりとして諦めた様子になった。
「野津、本当に署内で処理するつもりだな」
「内容にもよりますが。どなたと話していたかは重要ですから」
「ふざけるなっ」また高柳を怒らせた。岩田が間に入る。
「まあ、署長に隠したいことがないのでしたら、分析させてください。内容は必ずご報告しますから。勝手に署の外へ漏洩したりしませんよ」と取り成した。
「マトリへの報告は署長にお願いします。具体的な場所は篠崎に詳しく聞きますので」
「分かった。勝手にしろ。ただ、お前らに無理な案件には手を出すなよ」辛うじて虚勢を張る。
野津と岩田は笑顔で廊下を歩いていた。
「いつ仕掛けたんだ」と岩田。
「女性二人を仮釈放するお願いをしに行ったときに、書類を受け取りながら付けたんですよ」
「ノリベンもなかなかしたたかになってきたな」岩田は野津を小突く。
「あれ?提案したのは誰でしたっけ?」と野津は笑う。
捜査本部に行って、世田谷のメール発信地点をもっと詳細に調べて欲しいと頼み、二人は取調室に戻る。
4月下旬だというのに東京はバカ陽気だ。最高気温は30度を超えていると天気予報が告げた。太り気味の岩田は、上着を脱いでもシャツに汗染みができている。元々代謝が高く汗っかきなのもあった。野津は筋肉があるが加古と同じ痩せ型なので、そう汗は出ない。
「ガンさん、替えのシャツ持ってます?」
「いや、着替えは持ってないよ」
「そのままじゃ色川さんに嫌われますよ」野津は笑いながら言う。
「きょうはデートじゃないって」岩田が照れている。
陽晴に出前を取ってやり、二人はコンビニ弁当で済ませた。午後に少し取り調べをすれば、きょうは時間が余りそうだ。
「ガンさん、色川さんは忙しいんですか?」
「さあ、きょうはどうだかな」
「定時で帰れそうですよ。たまにはガンさんから誘ったらどうですか?」
「そう言われるとこっちから誘ってないなあ」
「ほら、電話してみたらどうですか?」
「うん」と岩田は席を外して電話を掛けに立った。すぐに戻って来て、
「空けられるってさ。ただし、きょうは彼女のお家デートだ。晩飯作ってくれるって」嬉しそうに話す。
「よかったじゃないですか。わたしも妻に電話します」野津も立った。しばらくして、
「定時で帰ると言ったら、吉祥寺のお好み焼き屋に行きたいそうです」と笑顔だ。
「あ、普通の家みたいな店だろ。あそこは安くて美味しいからな」
「ガンさんとも行ったことありますね」野津の声も弾んでいる。
「さっきコンビニで替えのシャツとトランクス買えばよかった。夕方に行くか」と岩田。
「だったら、着替えの前に宿直室でシャワー浴びて行けばいいじゃないですか」
「ああ、そうだな。私用で借りるのは気が引けるけどさ」と頭を掻く。
午後の日射しが眩しい取調室で、野津と岩田は篠崎陽晴と対峙した。
「まず、ブツの在処を教えて貰おうか。マトリがいまだに探している物だ」岩田が訊く。
「紙ください。青山のほうなんですけど」と陽晴は手書きで地図を描いた。
「これは神宮球場の近くだね」と野津。
「そうです。この交差点の近くに、貸しトランクルームがあります。鍵は僕の所持品の中にありますよ」
彼の所持品を持ってくると、キーホルダーにナンバーが刻印された変わった鍵があった。
「これか?」野津が尋ねると、陽晴は、
「それです。僕は留置されますよね。でないと確実に藤中組に殺されます」言う内容に反して冷静だ。書記に吉永を呼ばせて、鍵と地図を渡して署長へ届けさせた。
「当然殺人容疑だけでも留置だよ。で、岸村のときに一緒だった二人は?」
「名前も何も知りません。ゼッケンがあって、みんなメールで支持されて集まり、ゼッケンで仲間と確認しただけです。後で会ったりもしていません」
「そのゼッケンを教えて貰おうか」
「僕は2025、仲間の二人はえーと、1948と3352ですね。うん、間違いない」
「年恰好は?」
「一人は学生ぽかったです。もう一人は僕と同世代くらいかな」
「ジ・アンダーテイカーの頭は誰だと思う?」ここが重要と思い岩田が訊く。
「だから明京大准教授に警視監の息子がいると言ったでしょ。それが正体ですよ。アイグレーも彼に操られているはず。ウィクトーリア自身の代理でメールを送り付ける暇があるんですから、世田谷の実家から発信していたのはその准教授ですよね」陽晴は事も無げな口調で答えた。
「で、MEAという団体を知っていると思うがあそこはどうなんだ」
「ああ、痴漢撲滅同盟ってやつですか。あれは独立組織ですが、活動資金は賛同している弁護士や政治家、一般人からの寄付で運営されているようです」
「それほど潤沢な資金はない様子だがね」と岩田は葛城を想像しながら言う。
「幹部が高齢で、寄付金から月給を出しているから活動資金が乏しくなるんですよ、おそらく」
「なるほどな。これは秘密だが、明京の准教授というのは英文科の湯浅賢太郎だよな」と岩田は小声で囁くように訊く。
「ええ、そうですよ。さすが警察、特定が早いですね」
湯浅の父は剛之介という警視監で、親子とも世田谷の豪邸に住んでいる。その程度はデータ班が簡単に上げて来る時代だ。
陽晴を留置に切り替え、野津と岩田は盗聴の内容を聞くことにした。小さな部屋を特別に貸し切りにして貰う。事由は極秘作戦会議としておいた。