15.豊里裸族
千堂は瑞穂の部屋に来ていた。重要な話があるからだ。
「いいかよく聞いてくれ」そう千堂は切り出した。
「お前の父親が誰かを教えるときが来たようだ。橋爪大使を知っているか?」
「いえ知りませんけど」
「先日東南アジアのある国で交通事故で亡くなった。その橋爪大使がお前の本当の父親だ」
瑞穂は少し目を見開いたが、さほど驚いた様子ではない。
「橋爪夫妻には23歳の息子と20歳の娘がいる。わたしは遺言状の中身を知っているが、遺産の4分の1を瑞穂へ、と書いてある。預貯金だけでも4億以上だ。総資産は9億程度かな。つまり現金で貰うとしても、お前には1.5億円前後の権利がある。それを有難く頂いて、お母さんとゆっくり暮らしたらいいんじゃないか?」
「そうしてもいいんですか?名字は橋爪になりますか?」やや戸惑っている。
「大使が認知していない。遺言状にも『私の実子千堂瑞穂』とある。戸籍は千堂から変えられないんだ。それでも、いままでのようにリスクのあることをしなくてよくなるぞ。まあ、薬についてはまだ考えているが。お前が何かの罪に問われることがないように根回しはしてある」
「2億円なんて、本当に貰えるんですか?だったら郊外に家買って、お母さんと暮らしたいです」瑞穂は言葉を噛み締めるように言った。
「遺言状の執行者はわたしだ。不公平がないように遺産を分配するから安心していい」
「分かりました。ありがとうございます」瑞穂は千堂に深く頭を下げた。
三鷹北署の高柳は、密かに署内の映像をチェックしながら、情報を小出しに流出していた。時折、不確定情報や偽情報も混ぜて、SNSを混乱させていた。どうやっても漏洩する情報なら、積極的に嘘を混入した情報をリークしたほうがいい。とりわけバイオレットピープル参加者に要人がいるのがバレないように、また麻薬にも要人が絡んでいるのが分からないように情報操作していた。結局警察上層部の手先である。その代わり、警視正の肩書と警視庁捜査一課の椅子が用意されている。捜査の進展の仕方は高柳の昇進がかかった個人的一大事だ。あくまでも捜査を進めたい顔を表とし、裏の顔は署の誰にも悟られてはいけない。
その意味では野津と岩田のタッグは優秀過ぎて危険人物だった。なかなかミスリードしてくれない。千堂瑞穂逮捕は何とか止めたが、彼らは瑞穂から多くの情報を得た。野津の従弟だという学生の推理も邪魔だ。しかし、加古というその青年は何度も被害に遭いながら命拾いをするし、めげていない。これ以上の手出しは却って危険だと思った。ドアがノックされたのでパソコン画面を切り替え、「どうぞ」と言うと、野津が入って来た。
「なんだ?」
「矢野和親を重要参考人として出頭させたいのですが、勾留するキャパが足りないので、逃亡の恐れがない多和田茜と篠崎さやかを仮釈放したいのです」
「勾留の解除はいいとして、矢野の出頭要請は根拠あるのか?」
「殺されたバイオレットピープルメンバーの主宰者で、いまのところ動機があるのは彼だけですので。いえ、動機は他の人にもあると思いますが、実行犯は矢野だという推理は成立します」
「まあ、重要参考人なら許可する。ハナから容疑者扱いはするなよ」
「それは分かっております」野津は一礼して高柳が捺印した書類を持って部屋を出た。
野津が自席に戻るとすぐに矢野から電話があった。
「野津さん。わたしを警護して貰えませんか。次に命を狙われるのはおそらくわたしです」
「どういうことですか?」野津は少し驚いた。
「岸村に強請られていて、まだ死んでないのはわたしだけですから。岸村はもう殺されましたが、反社が絡んでいるとなると、話は別です。わたしのモルヒネ関与はご存知ですよね?」
「ちょうど重要参考人招致の書類を取って来たところです。迎えに行きましょうか?西新宿ですよね。それと矢野さん、バイオレットピープルメンバーのリストを可能な限りこちらに提出できますか?」
「ああ、ええ、イニシャルと現在の年齢それに性別くらいなら。それ以上は個人情報漏洩になりますので」
「1時間で迎えに行けますが、どうですか?」
「すぐリストを作るのでちょうど間に合うかと。わたしのアジトはもうご存知ですよね」
「うん、知ってるよ。では後ほど」
電話を切って野津は考えを巡らす。『連続殺人の実行犯は矢野ではないわけか?』『それとも一種のフェイクかも』トイレから戻って来た岩田に事情を話す。岩田は、
「絶妙のタイミングで申し出て来たな。何かウラがあるのかも知れん。矢野ほどの知能なら結構な策士だとしても不思議はないよな」
「とにかく、道が渋滞するかも知れないので、いまから西新宿へ向かいます」
「いや、一人では危険だ。オレも行く。用心するに越したことはない」
二人は車を出して、矢野の元へ向かった。やはり、途中で渋滞があり、電車のほうが早いくらいになった。しかし、こういう場合は車で行くしかない。65分かかってやっと矢野のマンションに着いた。入口で402とボタンを押すと「どうぞ」という声がして扉が開いた。部屋に入ると意外に片付いており、男の一人住まいに見えなかった。
矢野は何とも言えない不安の表情で、
「名目は何でもいいので、匿ってくれませんか?」と言う。
「それはいますぐに決められない。署に同行いただいて話を聞きます」と岩田。
「矢野さん、リストはできましたか?」野津がそう言うと、矢野はA4で10枚ほどのプリントを差し出した。これがヒントとして機能すれば収穫だ。
署に帰る車中で岩田はバイオレットピープルメンバーのリストを見ていた。
「×印が付いているは退会済みの人です」矢野が言う。
岩田は黙々とリストを見ている。と、ふと気付いたように、
「S・Sが二人いて退会している。32歳女性と48歳男性。野津、これは篠崎さやかと千堂聡介じゃないか」矢野は反応しない。野津が答える。
「いままでの情報としては完全に合致しますね。ほかにS・Sがいないのでしたら」
「見た限りこの二人だけだよ」
矢野は諦めたような口調で、
「ご名答ですよ。それは類推されると思ってました」苦笑している。
三鷹北署に車が着くと、矢野は周辺を確認するように見回してから、署内に入った。よほど狙われていると警戒している様子だ。
取調室へ三人は入る。マジックミラー越しには江頭と平岡に待機させた。
「どうして重要参考人になったかは分かりますか」と岩田。矢野は頷いて、
「わたしに実行犯の嫌疑がかかったんでしょう?」
「岸村殺害だけは別としてね」
「普通の中年のわたしに三件の実行犯ができると思いますか」
野津が口を挟む。
「あなたもサンテラスジムで鍛えていたでしょう?色川さんからそれは聞いている。普通の中年ではないですよ、少なくとも。現場に立ち会った人達に証言で、殺し方は分かった。教えられないですけど。ただ、それはあなたにもできるはずだ。体格も目撃証言と一致している」
「え?だけど、わたしには動機がないですよ。まさかバイオレットピープルの秘密を守りたいために三人も殺したと考えているんですか?」矢野は動揺している。
「ウィクトーリア。指示のメールが来たのでは?」野津は追い詰めた。
「なんですかそれ?それはアイグレーやアンダーテイカーのメンバーへの指示では?」
「あなたにも来ていたのではと訊いています」と岩田。
「スマホを見せなさい」と岩田は矢野のスマホを奪った。
「ほら、ウィクトーリア名義でメールが何通も来ているじゃないか」
「それは認めるしかないです」と矢野は諦めた。
「ですが、事件の直前に指示メールが来ていますか?来てないでしょう」
「ちょっと待て」と岩田が画面をスクロールする。野津も脇に立って一緒に見る。
「確かに三件の直前にそれらしきメールは来てないな。だが、そのメールだけ削除することもできる。あと、千堂聡介からの連絡も来ている。これはモルヒネの件か?」
「モルヒネの件というより、さやかさんのことが主ですね。偶然電車で、まあ痴漢ですが、千堂はさやかさんと知り合い、恋愛関係になった。そこでわたしに身を引けという話で」
「それの見返りは?」と野津。
「まあ金銭ですよ。現在無職の身で、色川さんの援助の残りだけでは苦しくなっていたので」
「なるほど。利害が一致したわけか。ウィクトーリア名義のメールが来始めたのは半年くらい前か?その時期は連続殺人が始まった頃だが」岩田が確認する。
「ええと、そうですね。一番初めは昨年の11月下旬だったかな。バイオレットピープルにやけに詳しいので、内部の者か探りを入れているマスコミ、例えば岸村とかを想像しました」
「メールの内容では、金銭は要求していないが、活動に関して警告と取れる文面もありますね」野津はスマホの過去履歴を見ながら言った。
「そうなんです。内部告発かとも思いました。バイオレットピープルだからといっても、思うように活動つまり合意痴漢に恵まれている人とは限らないので、不満がある人物もいます」
「会費を払っているのに思ったようにいかない人もいたわけだ」なるほどという顔の野津。
「まあ会費と言っても維持費ですから年に5000円ですけどね」
「最もメンバーが多い時で何人でしたか?」
「そうですね。東京だけではないので千人はいたかな」
「男女比は半々程度?」岩田が訊く。
「いえ、じつは三分の二が女性でした。痴漢は犯罪と決め付けたポスターが電車内にもあるので、して貰いたい欲求があるのに不満な女性は潜在的にいますよ」
確かに、初対面だったとしても合意が成立すれば性的な犯罪性はない。痴漢もまた然り。論理的に筋は通っている。岩田も野津もそう思った。
「しかし、年に500万の会費だと、余裕があったでしょ」と岩田。
「そうでもないですよ。秘密のサイト運営にはお金が掛かるんです。あと、万一の誤認痴漢の場合に示談金も必要なので、こちらでストックしていましたから。実際に示談金でトータル100万は出費しています。色川さんからの援助があったとはいえ、常時300万程度の貯蓄高でした。あ、わたしも月に10万は自分の主宰者給料として頂戴していましたが」
「奥さんとは上手くいっていたのですか。その、痴漢がバレるまでは」野津が尋ねる。
「ええ。妻にも子供にも当然内緒の趣味でしたから。ここでの作業も、大学にいるフリをして来ていました。家庭はちゃんと保っていたのに、残念なことに」と俯いた。
「あなたを守るには勾留の形を取るけどいいか?警察としては警護対象とは認定できないから」岩田は落ち着いてそう言った。
「はい。そのつもりで着替えも持ってきました」大きめのショルダーバッグの意味が分かった。
野津と岩田が昼食から戻ると、平岡が急ぎ足でやってきた。
「どうした?何かあったか?」と岩田。
「埼玉県豊里村って知ってます?」
「いや聞いたことがない」
「1973年に深谷市に併合されて消滅した地名ですが、地名が消滅するまで変わった集団が住んでいた地区があるんです。二百人ほどのいわば裸族で、裸同然で暮らしていて、夫婦という概念がなく気が向けば誰とでも性交してよく、生まれた子供は適当な戸籍を作っていたので一時期問題になりました。よく調べたら、矢野と千堂はその地区出身で、戸籍通りの両親か不明。二人が血の繋がった兄弟の可能性すらあります」
「本当か?」と岩田が驚く。脇で聞いていた野津もビックリしている。
「豊里村が消滅したときに、その裸族はどうしたんですか」野津が訊く。
「埼玉県の行政がさすがに見かねて、服を着ることと、キチンと一夫一婦制で暮らすように改めさせたという記録があります」
「昭和で言うと48年まであったのか。オレらが生まれる前の話だが」
「千堂と矢野は二人共自分の出自を知っていて、他人には隠しているようです。だから、二人がお互いにそれを知り合ってはいないと思います」と平岡が説明する。
「しかし、二人は大学教授と野党第一党の党首だ。よくそこまで出世したな」岩田が首を捻る。
「名目上の親が、真面目に働いて大学に行かせ、本当の血統は不明ながら優秀だったようですね。ただ、痴漢が趣味というのは豊里村出身が影を落としているかも知れません」
「ま、そう出自で差別してもどうかとは思うが、偶然にしては出来過ぎだよな」
「じつは、篠崎姉弟の親も、豊里村出身らしいです。彼らは一般市民になってから生まれたので、直接の両親はハッキリしていますけど。ただし、32歳と27歳の人間の両親がすでに二人共死亡しているのが不思議で、12年前父親が53歳で病死、その2年後母親は50歳で病死しています。解剖はしていないので確たることは言えないのですが、家に合法ですが青酸カリがあり、ごく微量な薬物で徐々に弱ったかも知れないと、当時の近所の人は言っていた模様です」
「それは姉弟のどちらかが疑わしいということか?」
「疑わしいのは看護師の姉、さやかのほうですよね。これと言って殺人動機が見当たりませんが、両親の出自を知って自分の本来の血統が分からないことを恨んだ可能性はあります」
「なるほど。しかし、そんな動機では2時間ドラマみたいだな」と岩田は苦笑した。
「そう言われると笑いそうですが、一応頭の片隅には置いていてください」平岡も苦笑する。
聞き捨てならぬ情報が飛び込んできたが、篠崎姉弟のことは信憑性がどうか、と脇で聞いていた野津は思う。岩田も同じらしく、
「ノリベン、さやかの親殺しまではちょっとな」と言う。
「ですよね。ただ、陽晴が喰えないバンドでも暮らしていけてるのは、両親が残した財産があるからなんですけどね。何かアルバイトでもしているのかと思ったら違っていて、所属事務所からの給料は四人のバンドで48万。一人12万円ですからね。ジュークに乗っているご身分なのは変じゃないですか」
「給料があるだけマシだが、普通は別に仕事するよな。エンタグルメントの他のメンバーは働いているそうだ。そいつらからしたら陽晴は羨ましいだろうな」
「そうですね。でも作詞作曲は全部陽晴がやっていて、まあ才能があるのは確かですけど」
「ライブにはコアなファンが百人くらいは来て、グッズの売り上げもいいようだが、地下アイドル的な存在から抜け出せていないから、どこかでヒット曲でも出さないと将来が苦しいな」
岩田は上がってきた情報をちゃんと読んで覚えている。
「国立の3DKマンションで共同生活してますよね。あそこの家賃が15万なので、家賃を払ったら33万しか残らない。陽晴は3人に10万ずつ渡して、自分は3万でいいからと言っているようです。早く出世しないと遺産を食い潰しかねませんよ」
篠崎の家は深谷市に300坪の家土地を持っていたのを両親の死後処分して現金化したもので、約3000万円と推測されている。姉弟で半分ずつだが、さやかは弟にもっと多くを配分した模様だ。だから陽晴はしばらく優雅に暮らしていける。さやかは看護師でも中堅の位置で、収入は悪くない。それと、梶谷の遺言で、梶谷の現金財産の半分を貰えることになった。少なく見積もっても5000万円ほどと類推される。それを弟にも分ければ、陽晴はますますお気楽な人生になる。彼は彼なりにバンドの為に日夜楽曲制作をしているらしいが。現代は機材を購入すればどんな音源も作れる。その気になれば売れる曲のひとつは作れそうだが、SEKAI NO OWARIみたいに、いやそれ以上メジャーデビューが遅くてもいいと考えている節がある。
加古はネットで埼玉県の古地図を見ていた。古地図といっても昭和中期くらいだが。明京のミステリー研究会の先輩が、豊里村のことを知っていて、矢野・千堂、そして篠崎の両親の出身がそこではないか、と疑ったからだ。その先輩も連続殺人事件に興味を持ち、独自に調べていたという。
深谷市の地図を拡大すると、篠崎家の場所が分かった。そして驚いたのは、その土地に隣接して「千堂」と記された土地があった。篠崎家より幾分大きな敷地だ。千堂家と篠崎家はお隣さんだったと思われる。しかも豊里村のこの地区は、裸族が乱れた交配をしていた場所だ。千堂と篠崎の血が混ざっていてもおかしくない。
加古は早速野津に電話をしようとした。が、慶菜が一緒にいて、
「ねえ、最近『回数』減ってきてるじゃない。ムラムラするんだけど」とすり寄ってきた。
「わかったよ。新学年で忙しかったし、お互いに部活もあったからね」
そう言って慶菜を押し倒した。そういうほうが慶菜は喜ぶからだった。40分ほど絡み合って、加古は下着だけを身に付け、野津に電話した。
『ああ、加古くん。なんか久し振りな感じだね。何か新情報があるの?』
「豊里村のことですが、地図を調べたら、篠崎家と千堂家が隣り合わせなんですよ」
『昭和30年から40年くらいの地図?』
「そうです。まさにその時期ですね」
『さやかと千堂はそれを知っているよな、普通』
「ええ。売却のときに地図を見たはずです。ということは千堂と篠崎さやかは、完全な他人ではない可能性がありますね」
『だよね。戸籍がいい加減だから調べようがないが、ある程度近親かも知れないな』
「その二人がいま出会っているのは偶然でしょうか?矢野さんも含めてどうですか?」
『豊里村にはまだ解明できていないことが多いんだ。いま言った三人がバイオレットピープルメンバーだから、妙な想像もしそうになる』
「え?千堂もバイオレットピープルメンバーだったんですか?」
『うん。だから、矢野が身を引いて千堂にさやかを譲ったそうだよ』
「なるほど、そういうわけですか。にしても妙なご縁ですね、二つの意味で」
『豊里村で隣家、そしてバイオレットピープルメンバー、だろ?じつはちょっと深谷市の現場に聞き込みに行こうとしていたんだ。情報をありがとう』
野津は延々と車を走らせ、深谷市に向かった。篠崎姉弟が通った小学校の元教師に話を聞くためだった。森脇善夫という老人は、深谷市内に隠居していた。幾分のどかな風景の中を走ると、元は農家だったような広い庭の家に着く。表札を森脇と確かめ、門内の庭に車を停めた。
インターホンがないので「ごめんください」と声を張って言うと、森脇老人が迎えに出てきた。
奥さんはもう他界していて、一人暮らしと聞いている。森脇は、
「遠い所をわざわざ来させてすみません」と謝る。年齢の割にはお元気な様子だ。
「いえいえ、こちらの勝手なので、お話が聞けるだけでもありがたいです」と野津は言って、老人の後ろを追い土間に入ると上り口があり、
「どうぞ、上がってください」と言われ、いかにもリフォームした感じの応接間に通された。
「お邪魔します」と言いながらソファに座ると、老人は一度姿を消し、緑茶を持って戻った。
「あ、おかまいなく」と言ったが、
「いやあ、わたしも喉が渇くからね」と笑った。人柄が良さそうな人物だ。
「早速ですが、篠崎姉弟のことを伺いたいのですが」そう野津は切り出した。
「よく覚えていますよ、あのきょうだいは」森脇は苦笑した。
「5年生のときに『自分の先祖を調べよう』というカリキュラムがあったのですがね。姉のさやかさんの担任がわたしで、両親に訊いたら『よくわからない』と言われたと、あの子が悲しそうに相談してきて、そうか豊里裸族だったっけと思い『みんなが先祖をわかるわけじゃないから大丈夫だよ』と慰めました。そのときには弟の陽晴くんは何も知らなかったようでしたが、5年後に、わたしが教頭になってから迂闊にもまだ同じカリキュラムが残っていて、彼は姉のさやかさんにもしつこく訊いたらしくてね」ここで老人はお茶をそっと飲む。野津も失礼してお茶を飲んだ。高齢にしては記憶もハッキリしていて話し方にも活気があった。
「わたしは陽晴くんの担任に『篠崎くんには、わからないと言ってくるだろうから落ち着いて対処してね』と言いましたが、彼は家庭内でちょっと荒れたと聞き、教頭として訪問指導しましたが、それ以来暗い子になってしまってねえ」と思い出すように遠い目をした。
「彼は両親からある程度の事情は聞いたそうで、卑屈になって、隣の千堂家の同級生女子を好きだったはずが、まったく見向きもしなくなったと当時の担任が言ってましたよ」
「そんなことがあったのですね」野津は認識を改めなくてはと考える。あの姉弟は思春期手前で心に傷を負っている。とりわけ陽晴のほうが深手のようだ。
初夏のような日差しの庭で小鳥が囀っている。大きな欅が植わっていて、この家の歴史を感じる。
「ただ、さやかさんは立派な看護師になりましたし、陽晴くんも高校時代にはバンドを結成して明るくなったようですが」そう野津は言ってみた。森脇は、
「表面的にはそうなんですが、地元の人間は彼らの両親の死に疑惑を抱いているんですよ」と慎重な面持ちで答えた。
「家に青酸カリがあったのと、さやかさんが医療方面の人だったからの噂では?」
「まあねえ、そう言えばそうなんだけど、あの子たちは土地を売り払ってバカにできないお金を手にしたからね。わたしもあながち噂だけとは思えないところがあります」
「死亡診断書には父親は急性心不全、母親は脳卒中と記述されていますよ」
「そうですか。わたしは素人だから分からんけど、ごくごく微量の薬物を混入させた食事を続けた場合、どうなんですかねえ」老人の疑いは晴れない。
「まあ、いまとなっては調べようがないですね」野津はそう答えるしかなかった。
「どうも貴重なお話をありがとうございました」と野津は礼を言い、ソファから立ち上がった。
「門を出て右のほうへ走ると、昔の千堂家と篠崎家の敷地です。千堂家の土地は千堂聡介が建てたマンション、篠崎家だった土地には何件か建売住宅があります。よろしかったら見ていったらどうですか」と森脇が説明した。
「そうですか。ちょっと行ってみます。興味本位ですが、ありがとうございます」
老人がにこやかに野津を送り出し、車は門を出た。教えられた通りに野津が車を走らせると、すでに古び始めた同型の建売住宅が4件並んでいる。ここが旧篠崎家跡だ。その西側には5階建てのマンションが建っていた。こちらはまだ新しい。最近、更地に千堂が建てたものだろう。一番近くの不動産屋に車を走らせた。相場が知りたかったからだ。
店内に入り警察手帳を出し、
「豊里村だった地区の実勢価格を教えてください」と言うと、若い男に代わって奥から中年女性が出て来て、
「ああ、豊里部落でしょ?あそこは周囲より2割ほど安い値段ですよ。それでも10年前で坪10万、いまは12万くらいですね。建売が建ったときは格安ですぐ売れたし、千堂のマンションも安く分譲したので買い手は多く、一部抽選になったんですよ」と流れるように言う。
「でも、アクセス的には最寄駅から多少遠いので、この辺りは車前提の生活ですけど」
「なるほど。篠崎家が土地を売却したときでジャスト坪10万ですかね」
「ええと、それウチで扱ったんですが、約310坪が3180万で売れていますね」とファイルを見て即答した。「そこからウチの手数料約100万を引いたのが、売主の収入です」
「いや、どうもありがとう。参考になります。千堂のマンションの売却益は?」
「それは想像ですが、4億円前後では?確か20戸程度で1戸が2000万くらいのはずだから」
「そうですか。ここでは扱わなかった?」
「いえ、この辺の不動産屋はみんな絡んでますけど、発表価格と実際の売値は違う場合もあるんです。買い手が多かったから、高めに売れた区画もあるでしょうね」
「4億円は凄い。でも建てるのに1億くらいは出費してますよね」
「そうでしょうね。低層マンションですが、耐震設計で防音もしっかりした仕様なので」
「詳しい話を聞けてよかった。それでは」と野津は店を出た。
三鷹北署に戻る道中、野津は篠崎姉弟が約3000万、千堂家は約3億の利益を出したことを反芻していた。陽晴は察するに2000万円くらいの資産を手にしただろう。千堂は、ただでさえ世田谷の代々の家土地があるのに、マンションで3億か。え?と野津は気が付いた。世田谷の『代々の土地』?豊里裸族がそんなもの持っていないはずだった。いったい誰の財産なのか。あっ、と思う。橋爪家の財産を千堂の妻が譲り受けたものではないのか。おそらく、現在の名義は千堂聡介になっているだろうが。橋爪家は旧家で、財閥とまでは言えないが資産家だ。広尾の家土地も持っていて、現金資産も4億ほどある。大手広告会社の大株主なのも調べ済みだ。世田谷の家1件くらい不倫相手に渡しても、正妻も文句を言わなかったと考えて不思議はない。
持ってる人には叶わないなあ、とハンドルを握りながら溜息をついた。