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第三章その2 語られなかった真実

「さ、たくさん食べてね!」


 目の前に置かれた大皿に、山のように盛られた棒棒鶏バンバンジー。その圧倒的ボリュームに多香音は面食らいながらも、「あ、ありがとうございます」と箸を手に取る。


 定森家の庭での練習を終えたこの日、帰宅しようとした多香音としのぶを晶の母親が呼び止め、せっかくだから夕食を済ませていかないかと誘ってくれたのだ。祖母からもスマホ越しに「楽しんでおいで」と返事をもらえたので、多香音は定森家でご馳走させてもらうことにした。


 庭のツバキが一輪挿しで床の間に飾られた客間に通され、待つこと数分。晶と母親が運んできたのは、軽く10人前はありそうな超大盛棒棒鶏だった。


 高タンパク低脂質の鶏肉をふんだんに使い、同時に野菜も摂取可能なスポーツ選手にはぴったりのメニュー。だが食卓に着いたのは多香音、しのぶ、晶、晶の母、晶の祖父母、そして晶の姉である皐月の7人であり、いくら食べ盛りの高校生がいると言っても1食で食べ切るには明らかに多すぎる。


「では、いただきます」


 満面の笑みで見つめてくる母親の視線に多香音は苦笑いで返しながら、鶏肉を口に運んだ。


 そして肉が舌に触れた瞬間、彼女の目が明るく輝く。


「ん、美味しい!」


 続けざまに2口目、3口目と箸を伸ばす。あっさりとした鶏肉に甘味の利いた濃厚なゴマだれが絡み、味の濃淡を演出する。そして鶏肉の優しい舌触りと、野菜のしゃきしゃきとした食感。素材の良さをフルに活かした、見事な逸品だった。


「お口に合ったみたいで嬉しいわぁ」


「母さんの料理好きは趣味のレベルを超えてるよ。ネットでも料理動画を公開して、すごい再生数稼いでるし。たくさん作りすぎてしまうから2、3日は同じ献立になるのが辛いけど」


 鶏肉に頬張りながら自慢げに話す晶に、母親は「そんな秘密ばらさないでよー恥ずかしい」と言いながら息子の頭を軽くはたく。


 そんな親子仲睦まじい様子を眺めていた多香音の手が止まったのに気付いてか、姉の皐月はそっと「騒がしくてごめんなさいね」と話しかけた。


「いえ、そうじゃなくて、なんというか」


 多香音は慌てて手と首を横に振り否定する。


「うち、お婆ちゃんが入院中のお爺ちゃんにつきっ切りで。疲れ切ったお婆ちゃんに自分の面倒見てもらっているばっかりで、私本当にここにいていいのかなって思うことも多くて」


 珍しくぼそぼそと話すパートナーに、晶は奇異の目を向ける。だがその隣で母親は「まあ、それは大変」と目頭をこすっていた。


「今日はここを我が家だと思っていいから、遠慮なく食べてね!」


 お母さんの優しさに、多香音は「ありがとうございます」と次の箸を伸ばす。


 食後、トイレを借りて洗面所で手を洗っていた時だった。


「ねえ、篠田さん」


 声をかけられ、びくっと振り返る多香音。そこには晶の姉である皐月が、じっとこちらを見つめるようにして立っていたのだった。


「ちょっと、こっち来てくれる?」


「あ、はい」


 手招きされるままに2階に上がる。案内されたのは皐月の部屋だった。


 板張りの床にはふわふわと肌触りの良いカーペットが敷かれ、花柄のファブリックパネルやクマのぬいぐるみ、書棚にずらりと収められた少女漫画雑誌など、実に女の子らしい空間が広がっている。祖父母の家の道具をほぼそのまま流用している多香音とはえらい違いだ。


 だが弟の元パートナーとして実績は十分のはずなのに、トロフィーやシューズなどフィギュアスケートに関するものは一切目につかない。その奇妙な違和感に、多香音はついきょろきょろと部屋を見回す。


「あ、庭が見えますね」


 窓から外に目を向けると、先ほど練習していた庭が一望できた。さっきは気付かなかったが庭木の間にガーデンライトが埋められているようで、周囲は暗くなっても庭は煌々と灯りに照らされている。


「でしょ、ふたりが練習しているのもこの部屋からだと丸見えだよ。あ、そこ座って」


 促されるがままに円形のフロアクッションに腰を下ろす多香音。皐月はベッドに腰かけ、「あのね」と切り出した。


「弟のパートナーになってくれてありがとう」


「いえいえ、私もあいつがいないとアイスダンスやろうだなんて思いつくことも無かったので。これでも感謝してるつもりですよ」


「ふふ、いつかそのこと晶にも直接伝えてあげてよ。あの子いつもへらへらしてるけど素直じゃないだけで、本当は篠田さんを無理矢理引き込んだんじゃないかって気にしているはずだから」


「あいつがー? ほんとにー?」


「本当に、案外そういうとこあるから。ところで」


 皐月の身体が、わずかに前に傾く。


「私のこと、弟は何か言ってなかった?」


 多香音の身体がピクリと震える。てっきり元パートナーとして何かきついこと言われるかもしれないと覚悟していただけに、拍子抜きを喰らった気分だった。


 だがたしかに、晶は姉のことに関しては多香音にもしのぶにもほとんど話さない。必要も無かったのでわざわざ詮索もしなかったが、こう本人から訊かれるとは予想だにしなかった。


「えっと、お姉さんが怪我で引退されたって。すみません、それ以外は特に……」


 これまでの晶の発言を思い出しながら多香音は答える。


「やっぱりあの子、話してなかったのか」


 一方の皐月はなんとも悲しそうな目で、口から「ははっ」と乾いた笑いを漏らしていた。


「うん、それは当たっているんだけど、半分は嘘。私の怪我は大したことない。大怪我したのは、あの子の方」


「へ?」


 固まる多香音。皐月はさらに続ける。


「リフトの途中で別のポーズに移る練習している最中に転んだのは事実。けどその時、晶は私を庇おうとしたばかりにエッジが足に突き刺さって」


 無意識のうちに、多香音の手はそっと自分の口元を押さえていた。高速で滑れるよう研ぎ澄まされスケート靴はほとんど刃物だ。事故の際の痛々しさは彼女も重々承知している。


「本当にひどい傷だった。弟はすぐに病院に運ばれて、15針縫った。医者からも1か月はスケート靴を履くなって言われたんだけど……そこから私は、もうリンクに立てなくなった」


 話しながら皐月は目頭を手でこする。再び多香音に向けられたとき、その眼は赤く充血していた。


「氷を踏もうとすると、弟の足から流れ出した血だまりを思い出して、リンク一面がまるで血の池みたいに見えてくる。おかげで一歩が踏み出せない……そんなこんなの間に、あの子は必死にリハビリを重ねて氷の上を滑れるまでに回復した。けど、私がこれじゃね」


 自虐的な笑みを浮かべる皐月の話に、多香音はじっと耳を傾ける。


「アイスダンスはふたりそろって初めて成立する競技。あの子には本当に申し訳ないことをしてしまった」


 最後に大きくため息を吐く皐月。自虐、諦観、自責の念、それらすべてがこめられた深く長い溜息だった。


「やっぱり、私じゃないんですよ!」


 だが直後、多香音の鋭い声が皐月の顔を上げさせる。


「きっとあいつは、お姉さんにリンクに戻ってきてもらいたいんですよ。単にアイスダンスを続けたいなら、カナダに残ってパートナーを探せばよかったはずです。けどお姉さんがいるすぐ近くで演技を見せたかった。だからあいつは日本までついてきたんですよ。それに……」


 出かけたところで、多香音はここから先を口にすべきかどうか躊躇する。だが今を逃していつ伝えるべきか、勢いそのままに彼女は突き進んだ。


「それにお姉さんだって思っていますよね。いつかまた、あいつと滑りたいって!」


 鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くする皐月。だがほどなくして、彼女は「ふふっ」と晴れ晴れとした屈託のない笑いをこぼしたのだった。


「それは否定しない。けど無理なものは無理、リンクに立てない私がリンクにまたあの子といっしょに滑るだなんて、どう足掻いてもできっこない」


「できっこないだなんて……」


「いいの」


 多香音の言葉を、皐月はすぐさま遮る。


「いいの、私はもうスケート諦めているから。弟も幸せ者だよ、篠田さんと巡り会えて。だからせめて、弟のこと、よろしくね」


「姉ちゃーん、篠田さーん、どこにいるのー? ふたりともトイレ長すぎだよー」


 ちょうど下の階から弟の声が聞こえ、姉は「ホント、デリカシーの無い子」と呆れたように部屋を出る。


 そんな皐月の小さな背中を、多香音は唇を強く噛みしめながら見つめていた。

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