第三章その1 アイスダンスの華
小宮しのぶがコーチに就任したその翌日から、晶と多香音のカップルは早速彼女の指導を受けることとなった。
だが放課後、ふたりが向かったのはリンクのある讃岐アイスアリーナではなく、高校からほど近い住宅地の中の公園だった。
「ではいきますよ」
ストップウォッチをかまえるしのぶと、学校指定の体操着を着込んだ晶と多香音。ふたりは互いに片手を相手の肩甲骨に回しながら、もう片方の腕もつないでそちら側に身体を向けた形で立っていた。この形はフォックストロットホールドと呼ばれている。
「スタート!」
しのぶがストップウォッチを押すと同時に、ふたりのつながれた手が解かれる。そしてすかさずさっと高く上げられた多香音の脚を晶が抱え上げると、開脚した多香音の身体は宙に浮かび上がったのだった。
「ちょっと、どこ触ってんの!?」
「仕方ねーだろ、触りたくて触ってるわけじゃねーんだ!」
「それはそれで傷ついた! せめてもっと優しく紳士的に触って!」
「あーもう、めんどくせーなぁ!」
「ほらほら、本番で言い争いはできませんよ」
決して遊んでいるわけではない。これも歴としたアイスダンスの必須要素のひとつ、リフトの練習だ。
正確なステップと男女のシンクロが重要視されるアイスダンスにおいて、リフトは数少ない大技。ペア種目と比べて一方が支える手の高さが自身の頭よりも上になってはならないという相違点はあるものの、カップルにとってはプログラム最大の見せ場と言える。
シングル一筋の多香音にとっては初めての経験だが、嫌な顔はしながらも基本動作を次々とこなすのは流石と言ったところか。
コーチを迎え入れたふたりは、これから半年で全国大会の予選を兼ねた西日本選手権、そして11月の全日本ジュニア選手権への出場を目指す次第となった。
さすがにちょっときつくないかと尋ねてみたものの、しのぶの「あなたたちの呑み込みの早さなら絶対にいける!」と猛プッシュするので従うしかなかった。
「さあ、まずは2秒以内で今のポーズに移れるようになるまで、何回でもトライですよ!」
「よし、もういっちょ!」
勇ましく意気込みする晶。だがその時、公園のフェンス越しに1台のパトカーが走っているのが目に入り、全員がそちらに顔を向けた。
「なに、事件?」
「物騒な世の中になったもんだ」
白と黒の車両を目で追いかける。そのパトカーが停止したのは、よりにもよって3人のいる公園の前だった。
「すみません」
さらには車から降りてきた警察官が話しかけてくる始末に、何が何やら3人は頭上に大きなクエスチョンマークを浮かべる。
「公園で変質的行為をしている男女がいると通報があったのですが……あの、何やってるんですか、これ?」
互いに顔を見合わせる晶と多香音。同時に今の今まで抑え込んできた羞恥心がどっと噴出し、ふたりの顔がかっと赤く染まる。
「やっぱり練習は人の視線が無いところでやろう……」
晶の呟きに、多香音もしのぶも頷いて同意した。
「うわ、広!」
格子戸の門をくぐったところで、多香音は眼前に聳える2階建ての日本家屋を見上げた。
公園から10分ほど歩いて、3人が到着したのは晶の自宅、定森家だ。
昔ながらの焼杉板の塀にぐるりと囲まれた敷地。内側には築80年という趣深い佇まいの邸宅が鎮座し、その裏には蔵の瓦屋屋根が突き出ている。
マキの木やイヌツゲが植えられた庭も、バドミントンの試合ができるくらいの広さがあった。もう4月半ばだというのに大輪のツバキも咲き誇っている。
「あんた、お金持ちのボンボン?」
多香音が羨ましげに目を細める。現在彼女の暮らしている祖父母の家は古い住宅街に建てられており、狭い敷地きちきちまで家屋が占めているおかげで庭と呼べるスペースがほとんど無い。
「いや、昔っからの農家だよ。爺ちゃんの代で畑も田んぼも売っ払っちゃったけど」
しれっと答える晶に、羨ましそうな眼差しを送る多香音。
「ここなら誰の目も気にせずに練習できますね!」
一方のしのぶはるんるんとスキップを踏みながら歩いていた。若々しいと言うべきか、幼いと言うべきか。
すぐさま3人は庭で先ほどのリフト練習を再開する。
しのぶの合図と同時に、晶が多香音を持ち上げる。だがそのまま数秒間静止すべきところ、晶の腕はプルプルと震えており、ついには耐えきれず多香音の身体を地面に下ろしてしまった。
「あ、ほらまた崩れた」
「ごめんね、キミ姉ちゃんより身長だいぶ高いから、ちょっと慣れてなくて」
こんなこと前は簡単にできたのにとでも言いたげに、晶はしゅんと項垂れる。
「篠田さん、外に飛び出すぎると定森さんがしんどいです。重心をもっと内側に向けてください」
だが抱えられる側の姿勢についてもきっちりと指摘するコーチに、多香音は「はい!」と明朗に返した。
スロージャンプなどアクロバティックな動きが多用されるペアスケートほどではないにせよ、リフト技が必須のアイスダンスにおいても男性にはある程度の体の強さと大きさが求められる。
晶は身長177cmではあるが体つき自体はそこまで筋肉質ではなく、むしろ細身と言って良い。対して多香音は身長173cm。自分とほぼ変わらない背丈の相手を持ち上げるには、経験豊富な晶をもってしても骨が折れた。
その後もしばらくリフトの練習が続けられたものの、何回かに1回かは多香音を落としてしまうため、安定感への不安は拭えなかった。
「うーん、フリーダンスではショートリフトを少なくとも2回決めないといけないのですが……後半まで晶さんのスタミナが持つかどうかですね」
しのぶが腕を組みながら考える。
「筋トレしてゴリマッチョになってみたら?」
多香音の冗談に晶は「無茶言うなよ」とツッコミを入れるが、1年以上ご無沙汰だったリフトに取り組んだおかげで全身の筋肉は既にガタガタだった。
「回数重ねれば慣れますよ。それに男女で身長差が無い方が、足の動きは合わせやすいものです。疲れたでしょうし、休憩にしましょうか」
コーチの提案に「さんせーい」と力ない声で賛同するふたり。しばし縁側に3人並んで座り込み、冷たいお茶をすする。
「そういえばコーチ、選曲は考えているのですか?」
差し入れの羊羹を頬張っていた晶が尋ねてきたので、しのぶは「ええ」と頷いて返す。
「今年のリズムダンスはチャチャコンゲラードが課題なので、フリーは優雅な雰囲気でいこうかなと考えています」
「せっかくならチャンピオンの復活劇を華々しく彩りたいです。私達にしかできない、世界をあっと驚かせるようなプログラムを演じたいですね」
ふふんと鼻を鳴らしながら、多香音も羊羹を口に運ぶ。
「そうですね、でもまずはアイスダンスならではの動きを一通りマスターしてからですよ」
しのぶがぴしゃりと指摘を入れたちょうどその時、定森家の敷地と外とを隔てる木造の門がガララと開かれる。
「姉ちゃん、おかえり!」
縁側に腰掛けていた晶が立ち上がり、嬉しそうに手を振った。
帰ってきたのは身長155cmほどで、夜空のような黒髪を長くなびかせる少女。晶の姉、定森皐月だ。
「あの人が……」
無意識に、多香音は拳を握りしめていた。以前写真で見た姿よりも、ずっとずっと美人だった。
だがその表情には、まるで生気が感じられない。目つきもぼうっと焦点が定まらず、多香音に至ってはこの人その内自殺するのではないかと不安感に駆られたるほどだ。
「ただいま。その娘が新しいパートナー?」
蚊の羽音のように弱々しく不明瞭な声で尋ねる皐月に、弟は「そうだよ」と元気いっぱいに応える。
「そう」
能面のような皐月の頬が崩れる。直後、姉は多香音に向き直ると、先ほどの不穏なオーラはどこへやら、優しく包み込むような微笑みを浮かべて恭しく頭を下げたのだった。
「弟をよろしくね」
「あ、こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
とっさに多香音は頭を下げて返す。
たぶんこの人には敵わない。女の勘と呼ぶべき本能が、多香音自身にそう訴えかけていた。