第二章その2 コーチになってください!
「散らかっててごめんなさいね」
ダイニングテーブルに置きっぱなしにされていた雑誌やメイク用品、ウイスキーの瓶を撤去して、それぞれ別の場所へと移す小宮しのぶ。部屋に上げられた晶と多香音はそれぞれ木製の丸椅子に座り、目の前の卓上が片付けられるのを待っていた。
「電話かけてくれたみたいだけど、出られなくてごめんなさい。注文が途切れなくて、折り返す余裕無かったんですよ」
「いえ、こちらこそ急に押し掛けてすみません」
忙しく室内を動きまわる年上女性に申し訳なさそうにぺこぺこする晶。一方の多香音は、ぐるりと部屋を見回していた。
玄関から廊下を抜けてすぐのダイニングキッチンには、やや大きめのテーブルが置かれている以外これといった特徴は無い。だがその奥に続く寝室は、一般的な一人暮らし女性のそれとは随分かけ離れていた。
壁を隙間なく埋め尽くす書棚には、『フィギュアスケート指導教本』や『よくわかるエッジワーク』といった本が並び、クラシックを中心に音楽CDがざっと数百枚は収められている。
すでにクローゼットに入り切らないのだろう、ぎっしりと衣類の下げられたハンガーラックには普段使いのコートやカーディガンだけでなく、スパンコールの散りばめられたスカート付きのレオタードもかかっていた。
「お待たせしました」
ようやく準備が済んだようで、晶と多香音の前にティーカップが置かれる。急な来客にも関わらず、しのぶは紅茶を淹れてくれていた。
「では篠田多香音さんと……定森晶さん、本日はどういったご用件でしょうか?」
「単刀直入に言います」
改めて、晶が姿勢を正す。
「お願いします、僕達のコーチになってください」
「へ?」
しのぶはぴくりとわずかに身体を震わせ、丸い目をさらに大きく開いて固まる。
「僕達ふたり、アイスダンスでカップルを組んだのです。僕は以前までカナダに住んでいて、姉とアイスダンスをしていました。こちらの篠田さんもシングルの経験者で、スケーティング技術は全国有数です」
説明を続ける晶。だが対するしのぶは、何も言わないどころか首すら振らずに硬直していた。
「ふたりとも素質には自信があります。ですがコーチがいない。ふたりだけで練習するにはどうしても限界がある。そこで讃岐アイスアリーナのインストラクターの方に尋ねたら、小宮さんを紹介してくださったのです。お願いします、どうか僕たちのコーチになってください!」
「私も、お願いします!」
晶と多香音がそろって頭を下げる。
高校生二人を前に、しのぶは俯きがちのままカップを手に取ると、無言でそれを口まで運ぶ。そしてカップをぐっと傾けて一口で紅茶を飲み干すと、ふうと息を吐きながらカップをソーサーの上にかちゃりと置いたのだった。
「ごめんなさい……ちょっと、コーチは遠慮させてください」
テーブルに視線を落としながら、しのぶは首を横に振った。
「へ、どうしてですか!?」
思わぬ返答につい立ち上がる晶の背中を、多香音の細く長い腕が後ろからぐっとつかむ。
「私の現役時代の成績、ご存知でしょうか。競技人口の少ないアイスダンスで、全日本で3位以内に入ったことが無いのですよ。最下位になった年もあるくらいです。予選会も本番の出場者数確保のため、お情けで通過させてもらっていたくらいです。もちろん国際大会なんて、一度も出場したことはありません」
「僕達はそんなこと気にしませんよ!」
晶の語気がやや強まる。彼にとってはアイスダンスのコーチと巡り会えたという願っても無い好機であるだけに、この貴重なチャンスを逃すことはできなかった。
「現役時代の成績とコーチとしての指導力は関係ありません。実際に選手時代は凄かったのに、コーチになったら今ひとつという方もいらっしゃいます」
多香音も加勢する。感情を隠し切れない晶と比べると、落ち着いた話しぶりだ。
「たしか篠田さんのコーチは仙台の石川先生でしたね。篠田さんが石川先生をコーチに選んだ理由は、何がありますか?」
「それは現役時代の成績もさることながら、コーチになってから有名な選手を多く育てていらっしゃいましたので――」
不意に返ってきた質問に多香音は正直に答えるが、途中まで話したところでしまったとばかりに絶句する。
「そうですよね」
自嘲的な笑みを浮かべながら、そっと目を背けるしのぶ。
「私もかつては大きな夢を抱いていました。良き指導者になろう、日本のアイスダンスを盛り上げようと、大学を卒業して現役を引退してからはコーチングを学びにアメリカの大学院へ留学もしました。ですが帰国後、実績らしい実績も無い上にアイスダンス一本じゃ生徒も集まらなくって。カルチャーセンターで社交ダンス教えたり、近くのリンクで初心者の指導したりしてきましたが、専属で生徒を持つことはなくずっと無く、気がついたら……10年が経っていました」
空っぽになったカップの縁をそっと手でなぞる。その姿があまりにも悲壮感を漂わせていたため、晶と多香音は何も口をはさめないでいた。
「もうおわかりでしょう、私にはあなたたちを教えられる力量も資格もありません。おふたりの素晴らしい才能を無駄にしてしまうだけです。それに私はもうスケートで生きていくことを諦めています。未練もありません」
「諦めるだなんて、そんな」
晶が苦笑いを浮かべて手を横に振る。
「わかりました、諦めます。無理言ってすみませんでした」
だがそのすぐ隣で多香音がすっと立ち上がったので、彼は「あ、ちょっと!」と声を裏返した。
「他のコーチ探してみます。お忙しいところありがとうございます」
多香音はきょとんとした顔のしのぶを見下ろしながらそう言い放つと、深々とお辞儀をする。そしてくるりと後ろを向くと、玄関に向かって歩き出したのだった。晶も「すみません、ありがとうございました!」としのぶに一礼すると、慌てて相方を追いかけた。
ドアノブを握る多香音。同時に、小さくぼそっと呟いたのだった。
「こんな部屋に住んでて、未練無いなんて嘘でしょ」
ギギギと重々しく音を立てながら扉が開けられる。やがてふたりが外に出ると、留め金がカチャッと動く音とともに室内は静寂に包まれたのだった。
部屋にひとり残されたしのぶは、椅子からゆっくりと立ち上がる。そしてふらふらとした足取りでダイニングから奥の寝室に移ると、ベッドに身を放り出したのだった。
「何やってんだろ、私。また逃げ出しちゃってさ」
枕に顔を埋めながら自暴自棄に陥る。そこから数分間、彼女はまるで死んでしまったかのようにぴくりとも動かなかった。
ようやく顔を上げたしのぶは、赤くなった目で部屋を見回した。
フィギュアスケート関連の書籍、世界各地の主要大会の日程が記入されたカレンダー、世界的スケーターの写真、スケート靴メーカーの商品カタログ、過去の大会での名演を収録したブルーレイ。
多香音が残した言葉がずっと頭から離れない。
「未練かぁ」
しのぶはこの部屋に唯一飾られた盾に目を向けた。地元で開催された小規模なフィギュアスケート大会での表彰盾であり、選手時代に彼女が経験した唯一の優勝を思い出させてくれる宝物だ。
かつてテレビで見たソルトレイクシティ五輪。そこで演じられたアイスダンスの煌びやかな世界に憧れて、自分もスケートを習い始めたのは10歳の時。中学に入ってからは本格的にアイスダンスに専念し、ちょうどシングルからアイスダンスへと転向した少年とカップルを組むことになった。
だがトップ選手を目指すには遅すぎた。小学校に入る前からリンクで練習に打ち込んできた他の生徒と比べると、身体に染み付いたスケート感覚の鋭敏さははるかに劣っていた。それは演技のあらゆる場面で如実に現れる。だがまだ子供だったしのぶは努力さえすればなんとかなると、ひたむきに練習を重ね、上位とは圧倒的な点差をつけられながらもアイスダンスを続けたのだった。
大学生になって全日本選手権に出場を果たしたものの、表彰台の夢は一度として叶わず、卒業とともにカップルは解散となった。組んでいた男性も同時期にスケートの世界から離れており、今ではまったく別分野の企業に就職し、二児の父になっている。
それでも彼女のアイスダンスへの情熱は冷めなかった。選手としてはダメでも、コーチとして後進の育成に邁進しようと海外でコーチングの技術を学び、帰国後は全国各地で子供向けの体験教室を開いたりもした。
しかし男女カップル競技という性質が日本ではまだ受け入れられにくかったのか生徒は思うように集まらず、結局今の今まで教え子ゼロのまま10年が過ぎた。そしてこの10年という歳月は、彼女を変質させるには十分だった。
もうこれ以上、報われない努力をするのが怖かった。見返りがどれだけあるのか、いやマイナスになって返ってくるかもしれないと思うと、挑戦に対して二の足を踏んでしまう。自分のような負け続けの人間、次に何かをやってもどうせ失敗するに決まっている。
「でも」
しのぶは視線を盾から、その隣のポスターへと移した。これまで開催された五輪フィギュアスケート競技で、メダルを獲得した歴代日本人選手たちだ。
「あの子たちは違う」
自分とは次元の異なる才能を持った逸材だ。もしかしたら五輪でメダルを取って、あの中に加われるかもしれない。実際に昨年の全日本ジュニアで披露した多香音の滑らかなスケーティングは、出場選手の中でも群を抜いていた。きちんとした指導を受ければ、今からでも日本を代表するアイスダンス選手になれるだろう。
だがいくら優れた逸材でも、それを指導できるだけのコーチがいなくては大成しない。問題は、誰がコーチとなってふたりをリンク脇から見守るかだ。
「あの子たちについていけば……」
うつ伏せになっていたしのぶの身体が、ぐぐっと起き上がる。
「私も見られるかな? てっぺんの景色ってのを」