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第六章その6 僕がいる!

 高松城の櫓を見上げる幹線道路沿いに、整備された公園。そこに佇む東屋で、小夜子は項垂れる多香音の背中さすりながら、二人並んで腰を下ろしていた。


「ごめんね多香音ちゃん、あたし、多香音ちゃんがそこまで思い詰めてたなんて気付かなかったよ」


 泣きじゃくる多香音の手を引いて、なんとかここまで連れてはきたものの、ここから先どうすれば良いものか全く思い浮かばない。


 とりあえず泣かせたいだけ泣かせて、ようやく落ち着きを取り戻したところだが、いつまた泣き出してしまうのではないかと、小夜子は内心冷や冷やだった。


「お父さん、約束通り来てくれたのに……もう顔向けできない」


 頭を抱え込む多香音。小夜子は何も言わず、その背中を撫で続けていた。


 今のままでは喫茶店に戻ろうなど、とても言い出せる状態にない。かと言ってここにいても、何ら進展は見込めない。


 多香音には聞こえないように、小夜子が音も無くため息を吐いた、まさにその時だった。ポケットのスマホから、軽快な『ブエノスアイレスの春』の着信メロディが奏でられたのだ。


「晶からだ!」


 画面を見た小夜子が立ち上がり、俯いたままの多香音は、びくっと身体を震わせる。


「あ、晶? うん、多香音ちゃん捕獲したよ……え、お父さんもう帰ったの?」


 そして呆れたように言ってのける小夜子の声を聞くなり、赤く腫れあがった瞼を大きく開いたのだった。




「まったく、いきなり逃げ出しちゃうんだもんなぁ。ホントに、誰のためにわざわざセッティングしてやったのやら」


 喫茶店に戻ったふたりを待ち構えていたのは、文句を垂れながら紅茶をがぶ飲みする晶だった。


 向かいに座った多香音は、しゅんと小さくなって「……ごめん」と呟いて返すものの、晶はなおも下品に音を立てて、ティーカップをすすっていた。


「ほらほら、多香音ちゃん帰ってきたんだし、そう悪く言うのよしなって」


 私怨見え見えの振る舞いに、多香音の隣に座った多香音は苦言を呈するものの、晶は「いいんだよ、篠田さんもたまには痛い目に遭ってもらわないと」と聞く耳を持たない。いつもやられっぱなしな彼にとって、この機を逃すという選択肢はなかった。


「……お父さん、何て言ってたの?」


 そんな相方に言い返すこともなく、多香音は伏し目がちに尋ねる。


「教えない」


 間髪入れず即座に返ってきた言葉に、多香音は「……え?」と絶句して固まった。


「あんた、何もこんな時にまで意地悪しなくてもいいでしょ!?」


 小夜子が声を強めるも、晶はなおも首を横に振る。そしてほんのり湯気の立つ紅茶を、ぐびっと一口で飲み干したのだった。


「意地悪でも性悪でもいい。でも、僕の口からは絶対に教えられない。これについては篠田さんが、自分自身でお父さんから聞き出すべきだ。お父さんと真っ向から話せると思ったら、自分で訊いたらいい」


「そんなの……できないよ」


 しょぼしょぼと床に目を落とす多香音。


 そんな普段なら絶対に見せることのない少女の萎れ具合を見て、晶はポットから次の紅茶をカップに注ぐと、「……特別に、ひとつだけ教えてあげるけど」と勿体ぶるように口を開いた。


「お父さんは、次の全日本ジュニアに出ることに反対はしなかった。むしろ優勝してくれって応援してる」


「ホントに?」


 ようやく顔を上げた多香音が、相方に疑いの視線を向ける。


「本当だとも。この僕が嘘吐いてるように見えるか?」


「うん、見える」


 そう横槍を入れたのは、アイスピーチティーをストローで吸い上げる小夜子だった。


「さっちゃん、いつにも増して辛辣だなぁ!」


 晶は口を尖らせて抗議するが、ひとつ年上のシングルスケーターは何も聞こえていないかのようにドリンクをすすり続けていた。


「信じられないとは思いますが、今のは珍しく本当の話です」


 だが、ずっと黙り込んでいたしのぶがそう言った途端、多香音と小夜子はそろって「本当ですか!?」と目を丸める。隣では晶が「僕って、そんなに信用されてないの!?」と今にも泣き出してしまいそうな顔を一同に向けるものの、誰も一瞥すら返そうとはしない。


「お父さんは篠田さんの才能を信じています。今度の全日本こそ、お父さんの夢を叶えてあげる最大のチャンスですよ」


 にこっと微笑むしのぶの顔を見ると、頑なになった多香音からも幾分か緊張が抜け落ちる。


「とりあえず全日本ジュニアで結果を出せば、お父さんとも向かい合って話せるようになりますよ。」


「……はい」


 弱々しくも、とうとう多香音は頷いて返した。普段ならば「絶対に優勝してやる!」とでも豪語しているところだが、今の彼女にはこれがいっぱいいっぱいだった。


「多香音ちゃん、不安?」


 隣の小夜子が、再び背中をさすりながら優しく尋ねる。


「自分たちの実力は分かってる……けど、本番でやれるのかって言われると……」


 だが一連のゴタゴタで多香音も憔悴しきっているのだろう、口からは珍しく弱音が漏れ出ていた。


 だがこれこそがまごうことなき彼女の本音だった。神童と呼ばれた頃から一転、小学6年からはずっと表彰台を逃し続けてきたという挫折はそう簡単に克服できるものではない。


 多香音は自分自身がメダルを提げている姿を、明確にイメージできなくなってしまっていた。


「心配しなくてもいい」


 その時だった。机の上で組んだまま置かれていた多香音の両手が、そっと温かい感触に覆われる。


 晶だった。細く透き通るような多香音の白い手を、いつの間にやら見かけによらずごつごつとした晶の両手が包み込んでいたのだ。


「篠田多香音はこれくらいのことでへこたれるようなタマじゃない。どんな難題にぶち当たっても、自分自身で発破かけてどんな乗り越えてきたタフなヤツだ。少なくとも僕の知っている篠田多香音はそういう人間だ」


 じっとまっすぐに、視線を送る晶。その眼差しから逃れるように、多香音はつい目を逸らしながら「いや、あんたの技術も知ってるよ……」と答える。


「でもね、私は――」


「そうだ、僕の技術は誰にも負けない! だから君は安心して滑ったらいいんだ!」


 ほとんど怒鳴っているかのような強い口調に、つい多香音はびくっと身を震わせた。


「キミが躓いても、僕は絶対にこの手を離さない。キミがいなかったら、僕もここまで来れなかった。今まではキミが僕の手を引っ張ってくれたけど、今度は僕が引っ張る番だ」


 そう話しながら、晶は多香音の両手をぐっと引き寄せる。そしてちょうど机の上で、両手をつないだ状態まで持ち上げると、ぽかんと口を開いて固まる多香音を見つめ、力強く言い放ったのだった。


「篠田多香音には僕がいる。だからいっしょに、全日本のリンクに立とう!」


 こいつの手、こんなに大きかったっけ?


 いつも手をつないで滑っているはずなのに、不思議な違和感を覚える多香音。だがそれ以上に、胸の奥から湧き上がるぽかぽかとした高揚感。そんなこれまでに経験したことのない心地良さと比べれば、違和感など些細なことにしか思えなかった。


「……うん!」


 相方に手を包まれたまま、多香音は強く頷いて返す。さっきまでの消沈はどこへやら、その目には強く光が宿り、そして頬はうっすらと紅く染まっていた。




 そんなカップルのやり取りを、同じ机に腰かけたしのぶは微笑ましく、小夜子は若干引き気味で見守っていた。


「良いこと言ってるんだけど……なんか、サブイボ立ってきた」


「こら、せっかくの場面を台無にしてはいけません!」

参考音源

『ブエノスアイレスの春』

https://www.youtube.com/watch?v=fbNSdrsMWwA

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