第一章その3 銀盤の支配者
「はぁ~」
入学式翌日の午後、屋内スケートリンク脇のベンチでスケート靴を履き終わった定森晶は、酷く落ち込んだ様子で項垂れていた。
「どしたどしたー? 辛気臭い顔してさぁ」
隣に立っていたポニーテールの少女が、ブレードのつま先を床にとんとんと打ち付けながら尋ねる。身体にぴったりと貼りついた長袖のシャツと黒一色のレギンスが、小柄ながらしっかりと筋肉に覆われた四肢の逞しさを際立たせていた。
「僕、そんな顔してた?」
「うん、してた。まるで好きな子に振られたみたいにさ」
「まさにその気分だよ。パートナーになりそうな子ようやく見つけたから誘ったんだけど、全然乗り気じゃなくてさ」
「どうせあれでしょ、説明飛ばして『僕とカップルにならないか?』とか言ったんでしょ」
聞いて晶は目を丸める。
「よくわかったな、さっちゃんサイキックか?」
「こっちは同じこと、1年前あんたと初対面早々に言われてんの!」
さっちゃんと呼ばれた少女――長谷川小夜子が鋭く切り返す。晶は「あ……」と言葉に詰まると、気まずそうに視線を逸らした。
ここは讃岐アイスアリーナ。高松市と隣接する三木町の山辺に設けられたこの施設は、四国でも数少ない国際規格対応スケートリンクとして近隣のスケーターたちの憩いの場となっている。
午前で授業の終わったこの日、晶はまっすぐ帰宅して昼食を済ませるや否や、再び家を飛び出しリンクに直行した。
すでに銀盤の上では数名の小学生がコーチに従ってスピンの練習に取り組んだり、高齢の夫婦が手を取り合ってゆっくりと滑走している。だが平日昼間だけあって、30×60メートルのスペースには余裕があった。
これでもミラノ・コルティナダンペッツォ五輪が開かれた今年2月以前に比べると、賑わいはぐんと増している。特に土日となれば連日家族連れでごった返し、まっすぐ滑ることすら容易ではない。
氷上に繰り出した晶と小夜子のふたりは、軽いジョギングといった具合で左回りにリンクを滑走する。やがて足が馴染み身体が温まると、並走していた中から小夜子だけが速度を上げて前に抜け出す。そして十分なスピードに達したところで、彼女はその細い右脚を前方向へと力強く振り上げた。
少女の身体が跳ね上がり、風に舞う花びらのように回転する。ポニーテールをなびかせながら見せつけたのは2回転半ジャンプ、ダブルアクセルだった。
余裕をもって着氷する小夜子の姿に、近くを滑っていた老夫婦は驚嘆して拍手を贈る。トップ選手でも苦手意識を持つことの少なくない高難度ジャンプであるが、彼女が決めるとまるで軽い準備体操の延長にしか映らなかった。
「さっちゃん、絶好調だな!」
晶が声をかける。アクセルジャンプを決めた直後ゆえに後ろ向きで滑っていた小夜子は、片手でピースサインを作って見せつけた。
「うん、アキラもイイ感じじゃん」
褒められた少年は「だろ?」と鼻を鳴らすと、片足を後方に向けてまっすぐ伸ばし、上半身もほぼ水平になるまで前に突き出す。そして氷に触れているもう片方の足だけで、右に左に弧を描きながらスピードを落とすことなく前を滑る小夜子を追いかけていた。
ジャンプのような大技は披露しないものの、まるで宇宙空間にいるかのように、空気抵抗さえも感じさせない滑り。体重移動だけでこれほどの小回りを利かせるには並みならぬ努力と鍛錬が必要だ。
「ホント、あんたってスケーティングだけは見習いたいわ」
「『だけ』は余計だ!」
けらけらと笑う小夜子。ふとリンクの外に目を向けると、瞬きをしながら「ねえ」と晶の背後を指差す。
「あれ、篠田多香音じゃない? 全日本で見かけたことあるよ、あたし」
ばっと振り返る晶。小夜子の言う通り、リンク脇で白のスプリングコートをまとった長身の少女――篠田多香音――がベンチに腰かけながらこちらを眺めていた。
「来てくれたんだ!」
「え、誘ったのって篠田多香音のことだったの!?」
仰天の声をあげる小夜子を置き去りに、晶は手を振りながら多香音の下へと駆け寄った。
「やあ、来てくれてありがとう!」
「別に、カナダ仕込みのスケーティングとやらを見てみたかっただけ」
話しかけられた途端に顔だけ背ける多香音。晶は「ははは、調べてくれたんだ」と苦笑いを浮かべていた。
「ねえ、篠田多香音ちゃんだよね?」
遅れて到着した小夜子を見て、多香音は「あ、全日本の?」と驚きに頬を紅潮させる。
「そう、長谷川小夜子! こんなトコで会えるなんて奇遇じゃん。せっかくだしいっしょに滑ってかない?」
屈託なく手を差し出す小夜子。多香音はつい手を伸ばして返しかけたものの、はっと息を吐くと引っ込めてしまったのだった。
「ごめん……今日は遠慮しておく」
「そっか。ま、滑りたくなったらいつでも滑りに来てね!」
そう言うと小夜子はリンクを駆けだし、周りに誰もいないのを見計らって進行方向に対し後ろ向きに滑る。
そして再びジャンプ。今度はさらに回転を加え、トリプルルッツを着氷させたのだった。
「凄いなぁ」
自分の苦手なジャンプを易々と成功させる少女を眺めながら呟く多香音。
「キミ、さっちゃんのこと知ってるんだ」
「うん、11月の全日本ジュニアシングルでも入賞してたからね。ねえ、あんたの滑りも見せてよ」
ちらりと一瞥する多香音に、晶は「イエスマム」と敬礼のポーズを取りながら氷上に駆り出した。
ピンと腰から背中までまっすぐに伸ばし、片足立ちの状態で回転しながら一方向だけに移動する晶。途中で足を変え逆回転に切り替えても、移動速度そのものはまったく変化しなかった。
多回転の片足ターン、所謂ツイズルと呼ばれる動きである。シングル競技でもステップシークエンスで頻繫にはさまれるが、アイスダンスにおいては演目中に組み込むべき必須要素とされており、この出来不出来がスコアに直結する。
さらに途中で足を後ろに高く上げ、器用にもシューズの刃の部分を後ろ手でつかみながらの回転まで披露する。試合で見せればさらなる加点が期待できるだろう。
伊達に長年スケートを続けてきた多香音ではない。晶が卓越した腕前の持ち主であると見破るには、滑走を遠くから眺めるだけでも十分だった。
「白鳥が……舞っている」
ひとり多香音はぽつりと漏らした。ここに至るまで常識を超えた苦労と努力があったはずなのに、それらを一切感じさせない悠然と伸びやかな滑りに彼女はすっかり魅入らされていた。
定森晶は単に上手いだけのスケーターではない。一挙手一投足あらゆる動作が洗練され、どの場面を切り取ってもすべてが一枚の絵画になる。基本的なスケーティング技術に関しては、小夜子はおろか小学生を指導しているコーチ、そして多香音、現在この場にいるすべての人間をはるかに上回っているだろう。
まさしく彼は、この銀盤の支配者だった。
30分ほど氷上を滑り続け、晶と小夜子は休憩のためリンクを離れる。
「ねえ、聞いていい?」
そしてベンチに置いていたドリンクを手に取って喉に流し込んでいた晶に、多香音はそっと近付いて声をかけたのだった。
「あんた、カナダでお姉さんと組んでたんでしょ? 昨日はやめちゃったとか言ってたけど、お姉さんはどうしたの?」
ぷはっと冷たい息を吐きながらボトルを口から離す晶。しばしの沈黙の後、じっと多香音に顔を向けて小さく話し始めたのだった。
「話した通りだよ。スケートやめちゃったんだよ、姉ちゃんは」