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第五章その5 ありがとう

 流れ出した小刻みのリズムに促され、滑走を始める晶と多香音。軽快な曲調に合わせて自然と手拍子が湧き起こる中、ふたりは互いに手を取り合い、まるで鏡に映り込んでいるかのように同じタイミングで同じ動作を重ねていた。


 大きく伸びやかで、それでいて力みを感じさせない足さばき。このカップルの真骨頂は、長年の経験で培われた正確なエッジコントロールだ。


 本場カナダで鍛え抜かれた晶はもちろんのこと、中学以降ジャンプが苦手というハンデをステップで補ってきた多香音にとっても、アイスダンスへのコンバートは然程ハードルの高いものではない。何万時間と氷の上で過ごしてきたゆえに研ぎ澄まされた感覚のおかげで、ふたりにとって金属製のブレードは拡張された肉体の一部も同然だった。


 やがてふたりそろって片足立ちになりつつも一糸乱れぬツイズルが繰り出されると、選曲の妙も加わって観客の鳴らす手はさらに大きく、よりエキサイトしたものとなる。


 いよいよ見せ場のリフト。回転中、多香音は向かい合っていた晶の手を解くと、素早く両肩をつかむ。次の瞬間には両方のブレードが氷から離れ、なんとスケート靴を履いたままの2本の脚が晶の胴に絡みついていた。


 対する晶もすかさず両腕を背中に回して相方の身体を支えると、多香音は待っていましたとばかりに晶の肩から手を離し、そのまま両腕を大きく広げたままの姿勢でのけぞってみせたのだった。


 オレンジのドレスを纏った華奢な身体が、ほぼ水平の状態で氷上を回転する。その色彩はまるで白一色のキャンバスに、大輪のヒマワリが咲き誇っているかのようだった。


 多香音を支える晶も上半身をのけぞらせることで余計な力を込めずに遠心力に抗っているため、回転速度を落とすことなくリフトの姿勢を維持し続ける。このコンビネーションを成功させるには高度なスケーティング技術だけでなく、両者の身長体重動きのクセを徹底的に身体に叩き込んで、それぞれ最適なバランス感覚を身につけるだけの信頼関係が重要だ。


 会場の手拍子が盛大な拍手へと切り替わる。正確で素早く、それでいて力みのないふたりの演技は厳密に計算されたプログラムでありながら、観客の目にはまるで自然体で自由奔放に滑っているように映っていた。


 そして7秒間いっぱいローテ―ショナルリフトを続けたふたりは、制限時間ギリギリになって素早くリフトを解いて互いに組みなおす。この姿勢変更のスピード感も、他のカップルではなかなか実現できない強みだ。


 ついに終始陽気な曲調のまま、3分に満たないチャチャコンゲラードが終了する。ふたりは最後の最後までコンマ1秒の狂いすら無く、動きを合わせてリズムダンスを滑り終えたのだった。


「ブラーボー!」


 直後、歓声が会場を包み込んだ。観客席の誰しもが立ち上がり、スタンディングオベーションをリンクに立つふたりに浴びせる。


 間違いなく、今日一番の大喝采。演技がまだ続いてほしいという物足りなさ、明日はどんな演技を見せてくれるのだろうという期待感から、観客は惜しみない拍手を贈り続けたのだった。


「いやー、滑った滑ったー」


 緊張の糸が切れたのか、晶はぜえぜえと息を切らしつつも風呂上がりかと思うほどさっぱりとした表情を多香音に向ける。晴れ晴れとした、この世に悩みなぞ何ひとつ無いとでも言いたげな笑顔だった。


「まだリンクの上だから、そんな気の抜けた顔しない! ほら、挨拶挨拶」


「おっと、そうだった」


 慌てて四方360度の観客にお辞儀をし終え、ふたりはリンクの中央を離れる。タイムスケジュールが厳密に規定されている公式戦では、次の演者に迷惑をかけないためにも入れ替わりは迅速に済まさねばならない。


 一向に拍手が鳴り止む気配を見せない中、ゲートをくぐり氷を離れたふたりがブレードカバーを装着している最中のことだった。


「ふだりとも、ほんどうに……本当に、よぐやったわぁあああ!」


 リンク脇で見守っていたコーチのしのぶが、おいおいと泣きながら駆け寄る。まだ演技が終わったばかりだというのに、涙やら何やらで顔は既にぐずぐずに崩れていた。


「コーチ、まだ結果も発表されてないですし、それに明日もあるんですよ」


「うん……でも、ふだりの演技が最高過ぎて……私、コーチやって良がったぁ!」


 どっちが選手でどっちがコーチなのやら。泣きじゃくるしのぶの手を引いて、多香音と晶はキス・アンド・クライまで移動する。


 キス・アンド・クライとは演技を終えた選手とコーチが結果発表を待つためにリンク脇に設けられたスペースで、椅子、そして中継用のカメラが準備されている。スコアが発表された直後に選手同士が互いにキスをしたり泣き叫んだりする場所ゆえに、この呼び名が定着したという。


「こういうの見ると、つい反応したくなる性分なんだよなぁ」


 装飾の施されたソファに腰かけながら、晶は目の前に置かれたテレビカメラのレンズに向かって「イエーイ!」と手を振る。本当についさっきまで氷の上を舞い踊っていたのと同じ人間なのか、疑いたくなるだろう。


 そんなすっかりリラックスモードに突入している晶に、隣に座っていた多香音が「ねえ、あんた」と不意に話しかける。


「うん?」


「ありがとね」


 直後、晶は唖然とした表情で多香音を振り返る。眼球がこぼれ落ちそうなほどまぶたを大きく開けているおかげで、小動物のようなまん丸の目玉が多香音に向けたまま硬直していた。


「私、ようやく気付いたんだ。スケーティングだけじゃない、あんたのそのどこから湧いてくるのかわからない自信と図太さ、私自身とても助けられているんだって」


 時間が停止しているかのように硬直したままの晶。向かい合う多香音は、真剣な眼差しでまっすぐ相方を見つめている。


「今まで言える機会無かったんだけど……あんたのおかげで私はここまで来れた。だから、ありがとね!」


 そして最後に、にこりと微笑みかける多香音。プライドの高い多香音のことだ、演技中でもない限りこのような顔を他人に見せるはずがないということくらい、誰しもが理解している。


 そんな高飛車女が、晶に本音の笑みを見せた。ふたりの関係を知る者にとっては、富士山の噴火に匹敵する衝撃的な出来事だろう。並んで座っていたしのぶも、あれほど流れ出ていた涙が完全にせき止められ、きょとんとした顔で固まっていた。


 だが当の晶はというと、「いやーなんつーか」と口端をぴくぴくと痙攣させ、返答に詰まるだった。


「篠田さんにそういうこと言われると……なんかというかこう、気味悪いな……寒イボ立ってきた」


 さっと顔を青ざめ、ぶるると身を震わせる晶。


「……言わなけりゃ良かった」


 多香音も握りしめた拳をぷるぷると震わせ、強く歯を食いしばりながら俯く。いつの間にやら首筋から額まで、顔全体が赤く染まっていた。


「定森晶、篠田多香音の得点」


 タイミング良くアナウンスが響き、晶は「お、スコアだスコアだ!」とわざとらしく身を乗り出して電光掲示板を見つめる。多香音も釈然としない表情を浮かべながらも、晶と同様じっと掲示板を睨みつけていた。


「60.14」


 数字が表示されたその瞬間、「いやったぁあああああ!」と椅子から立ち上がる晶。多香音は驚きのあまり口元を両手で押さえつつも、その目は潤み輝いていた。


 会場の天井が落ちてきそうな、耳を塞いでもまだうるさいほどの大歓声。それも当然だろう、スコアの隣には『日本ジュニア新』の文字がでかでかと表示されていた。


「まさか……ジュニア新記録だなんて!」


 あまりに上手く出来すぎた展開に思考が追い付いていなかった多香音もようやく現実を受け入れることができたようだ。その目にじわりと涙が浮かび、そっと手首で拭う。


「あなだだぢ、さいこぉー!」


 だがそこに再び滝のような涙をどぼどぼと溢れ落とすしのぶが抱き着いてきたので、多香音は「ふわ!?」と妙な裏声をあげてよろめいてしまった。


 先ほど岩下・倉木組によって更新されたジュニア日本記録を抜き、なんとふたりはカップル結成公式戦1発目にして日本ジュニア歴代1位のリズムダンス記録を打ち立てたのだった。


 まだ残るもう1組はジュニア世代に上がったばかりのカップルであり、演技構成からしてこのスコアを抜くことはまずない。現時点で定森・篠田組のリズムダンス首位は、確定したも同然だった。


「イェイ、イェイ! 歴代1位! イェイ!」


 設置されたカメラに向かって年相応にはしゃぐ晶。この姿がネットで全国に中継されているのかと思うと多香音は頭を抱えたくもなるが、わんわんと泣きつくしのぶの背中を「よしよし」とさすっている自分の姿も十分に情けないような気がして、今さら遅いかと諦めることにしたのだった。


 篠田多香音の復活を印象付ける。今大会における彼女の目論見は、ひとまず達成されたと言っても良いだろう。


 だがこれで最終結果が出たわけではない。大会は明日のフリーダンスを残している。


 翌日の結果も含めて総合優勝することで初めて、自分は再び世代の頂点に立てるのだ。まだまだ今は通過点でしかないと、喜びに感じ入りつつも気を引き締める。


「父さん、母さん、姉ちゃん、僕やったぞ! 明日もお楽しみにね!」


「あんた、もうやめなって」


 会場の拍手が鎮まり始めてもなおハメを外し続ける晶を、多香音がぴしゃりと叱りつける。


「おっと、つい悪ノリしちゃった。危ない危ない、全国のお茶の間にお恥ずかしい姿をさらすところだった」


 もう遅いって。そう心の中で突っ込むと同時に、多香音は小さく、誰にも気づかれないほどかすかにため息を吐いていたのだった。


 ちらりと観客席に目を移す。他の観客がすっかり拍手の手を止めて次の選手に関心を向け始める中、晶の両親と姉はまだまだ全身全霊の拍手を贈って愛する息子の弟を讃えている。


 私もお父さんとお母さん、呼んだら良かったかな……?


 今日この関空アイスアリーナに、多香音の家族は誰も来ていない。高齢の祖父母はともかく、仙台に暮らす両親ですらも。


 決して家族が薄情だからではない。多香音自身が、見に来ないでほしいと両親宛てにメッセージを送っていたのだ。


 強がってはいるものの、多香音も年相応の女の子だ。むしろ自信に満ち溢れた振る舞いは、もし本番で再び失敗したらどうしよう不安の裏返しとも言える。


 特に自分のことをずっと気にかけてくれた両親を、これ以上落胆させることは絶対にできない。ゆえに多香音は両親の目の前で情けない姿をさらすのを恐れ、家族を大会に招待できなかったのだった。


 だがそのことを、彼女は今になって後悔していた。日本記録更新という歴史的な快挙の瞬間を、家族の誰一人として見せることはできなかったのだから。




 結局この日、全出場者の演技が終わった時点で1位晶と多香音、2位岩下・倉木組から変動することはなかった。最終的な順位は、明日のフリーダンスで決定される。


 だがジュニアアイスダンスの部が終了しても、この大会はまだ終わらない。午後からはジュニア女子シングルの2日目、フリープログラムの演技が行われる。


 観客もアイスダンスの時とは比べものにならないほど多く、全席隙間なく人・人・人で埋め尽くされる。日本におけるフィギュアスケート人気がシングルに偏っていることが一目瞭然だった。


「さっちゃん、がんばれー!」


「香川の星、今日もやっちまえー!」


 そんな満員御礼の観客席から、声を張り上げて応援する晶たち讃岐アイスアリーナご一行。その中には多香音も混ざり、「頑張って!」と声援を贈っていた。


 見ててね!


 地元から駆け付けたみんなの期待に応えるように、リンク上に滑り出た小夜子は手を振り返す。


 彼女の衣装は実に特徴的だった。白一色にひらひらとした大きな袖が目につく上半身に、腰より下は朱を基調として袴のような装飾が施されている。端的に表すなら、日本古来の神社の巫女を彷彿させる配色だ。


 だがその表情は普段のにこやかな笑顔をどこかに置き去りにしてしまったような、近付く者を怯えさせるほど鬼気迫るものだった。


 これまで入賞ギリギリだった選手が今年になってぐんと調子を上げ、ショートプログラムでは自己ベストの2位。フリーではさらなる高得点も期待できる。


 会場の観客だけでなく、ネットで大会を見守る全国のファンを含めた関係者全員が、新進気鋭のスケーターが初めて3回転半ジャンプを成功させるその瞬間を目に焼き付けるべくじっと目を凝らす。会場にはジュニアの地区大会とは到底思えない、ずんと重苦しい空気が漂っていた。


 そんな物々しい雰囲気を感じてか、小夜子はふうっと息を整えながらリンク中央まで移動する。そして両足を軽く開いた直立の姿勢ですっと手を前に突き出すと、じっと目を閉じたのだった。


「続いては長谷川小夜子。曲は『平清盛』」

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