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第五章その3 本番直前

 小夜子の躍進から一夜明けた早朝。多香音と晶は身支度を整えると、スーツケース片手にホテルを発ち、電車へと乗り込んでいた。


 向かった先は大阪府南部、泉佐野市に聳える関空アイスアリーナだ。


 ここは関西空港島を臨む海沿いに建てられた競技施設であり、そして現在開催されている西日本ジュニア選手権、全日本ジュニア選手権アイスダンス予選会の会場として利用されている。


「き、緊張しちゃだめよ、リラックス、りらっくしゅ……」


「コーチが一番緊張してるじゃないですか!」


 目的地であるりんくうタウン駅の改札で、まっすぐ歩けないほどガチガチに固まっていたのは小宮しのぶだった。


 彼女にとって、今日はコーチとして初めて迎える公式戦だ。晶と多香音のカップルにとっても初めての大会ではあるが、これまで何度も大舞台を経験してきたふたりにとってはこの緊張も慣れたものだった。


 だが駅舎の外に出て、いざ会場の巨大な佇まいを目にすると、さすがの多香音たちもその場で足を止めてしまう。


「昨日よりも……おっきく見えますね」


「コーチ、ビビりすぎでしょ……でもたしかに、そんな気はしますね」


 震えるしのぶにすかさず言い返しながらも、多香音と晶も改めてアリーナを見上げる。


 建屋を構成する無機質な長方形が、異様なまでに不気味に感じる。今にもこの巨大な建築が動き出して、自分たちを押し潰してしまいそうな、得も言われぬ恐怖があった。


「やあ、ふたりとも!」


 その時、後ろから聞こえてきた陽気な挨拶に、一行は思わず振り返る。


 手を上げながらにこやかに近付いてくるのは岩下誠太郎だ。隣では倉木智恵がじっとこちらを睨みつけながらも、小さく頭を下げながら歩いている。


 そしてふたりのさらに後方には、日本アイスダンス界の第一人者である二階堂コーチが、トレードマークのサングラスをかけた顔をまっすぐこちらに向けてついてきていたのだった。


「岩下さん!」


 たちまち表情を明るくさせた晶が、スーツケースを残してだっと駆け戻る。呼応するように、誠太郎も腕を広げながら走り出した。


「と見せかけてー、ハイタックル-!」


 だが男子2名が互いに抱擁でも交わさん勢いで駆け寄ったその時、誠太郎は丸太のような腕を晶の首めがけてぐっと入れたのだった。


「うわあシンビンだ、一発レッド退場だー!」


 咄嗟に悲痛な声をあげる晶。だがその直後には、両者ともに「「イエーイ!」」とハイタッチを打ち鳴らしていた。


「男子って、どこまでいってもアホね」


 本番前だというのに、なんと緊張感の無いことか。


 たとえABC予想が証明されたとしても、こいつらのことだけは一生かかっても理解できる気がしない。そう心底呆れかえりながら、多香音ははあっと大きくため息を吐く。


「篠田さん」


 野郎どもが戯れるその最中、多香音に声をかけてきたのは倉木智恵だった。


「今日はよろしくね」


 すっと手を伸ばす。転倒でもしたのだろう、手のひらにはあちこち擦りむいた痕が残っていた。


 それを見て多香音は目を大きく開くも、次の瞬間にはふふっと口角を上げ、智恵の目を見つめ返していた。


「ええ、良い勝負しましょう」


 多香音が差し出された手を握り返す。途端、智恵も多香音と同じように、不敵な笑みを浮かべて返した。


「最初からそのつもり、ただあなたに勝てばそれでいいってわけじゃない」


 智恵の手にぐぐぐ、と力がこもる。その細腕とは思えぬ強さに、多香音はむっと口を噤みながらもギロリと睨み返した。


「1位で勝つ、それができて私はようやく自分を乗り越えられる」


 そこまで言うと、智恵はようやく手を解いた。最後にボソリと、「もうシルバーは飽きたから……」と呟きながら。


「誠太郎、いつまでラグビーごっこやってんの。もうフルタイムだから、切り上げてこっち来なさい!」


 相方からの鋭い一声に、晶とじゃれ合っていた誠太郎は慌てて「うん、今行く!」と駆け寄る。解放された晶は「また後でー」と手を振っていた。


「皆さん、お久し振りです」


 そんな年上カップルふたりから遅れて、二階堂コーチも多香音としのぶに話しかける。


「篠田さんも定森さんも、ニュースで大評判ですね」


「は、はい、ありがとう……ございます」


 落ち着いて話す二階堂コーチとは対象的に、しのぶは忙しなく頭を下げていた。


「ですがいくら話題になったところで、公式記録は塗り替えられません。記憶は見た者の頭の中にしか残りませんが、記録は何十年も何百年も永久に残るのです」


 そんな二階堂コーチの口から突如こぼれ落ちる言葉に、しのぶと多香音ははっと固まりながらも耳を傾けていた。


「私はあの子たちに、まだチャンピオンのタイトルを獲らせていません。あの子達にとって記録を争うライバルが登場してくれることを、私は期待しています」




「やっぱこれ、ちょっと胸開きすぎじゃない?」


 本番前、張り詰めた空気の漂う選手控室。


 晶は釈然としない表情を浮かべながら、大きくはだけた自身の胸板をそっと撫でる。ぴっちりと全身を覆う黒一色の衣装には、所々ラメが散りばめられていた。


「それくらい我慢しなって。そうでもしないと、あんたから男の色気ってもんが感じられないんだからさ」


「言ったなぁ、僕のほとばしるマスキュリニティで、演技中にメロメロにされても知らないぞぉ?」


「んなこと地球が逆回転してもありえないから」


 対する多香音は海に沈む夕陽のようなオレンジ色を基調に、スリットの入ったドレスを纏っていた。メイクもばっちり決めており、白い肌はファンデーションでさらに白く、睫毛も濃く塗ってきりりとした目がより一層強調されていた。


 これぞふたりが本日演じる、リズムダンスの衣装だ。


 リズムダンス。シングルで言うところのショートプログラムに該当するこの3分足らずの滑走は、短いながらもアイスダンスの必須要素がぎゅっとコンパクトに詰め込まれている。


 今年の課題はチャチャ・コンゲラードだ。毎年リズムダンスに関しては世界スケート連盟から特定のリズムやテーマが設定され、全ての選手たちがそれに従って楽曲と振付けを演じなければならない。


 この大会のジュニアアイスダンス部門の出場は8組。たったそれだけかと驚くかもしれないが、ほんの数年前まで多くて3組ほどだったことも考えれば、競技人口は増加傾向にある。


 そして多香音と晶は、全体の7番手だ。ピリピリした他の選手たちが順番に部屋を出ていくのを大勢見送るので、精神的にも重圧が大きい。


 ましてこのカップルにとっては初めての公式戦。先程からくだらない会話を交わしているのも、無意識のうちに緊張感を誤魔化すための行動として表れているところが大きい。


「おふたりとも、落ち着きがありませんよ。もっとリラックスしていきましょう」


 そんなふたりの前に立って指摘するのはコーチのしのぶだ。


「いや、コーチにだけは言われたくありませんよ」


「私はもうビビるだけビビりました。これ以上のプレッシャーが来ても怖くありません」


 えへんと胸を張るしのぶ。だがその手がかすかに震えているのを見て、多香音は「ウソでしょ」と目を細めながら返した。


 そんな時、しのぶが手に提げていたトートバッグから、ブブブと振動音が鳴り響く。晶が預けていたスマホに着信があったようだ。


「あ、姉ちゃんからだ」


 スマホを受け取った晶がアイコンをタップする。直後、液晶画面に映し出されたのは姉の皐月だった。


「姉ちゃん、どうしたの?」


「いきなり電話してごめんね。観客席で待ってたんだけど、居ても立ってもいられなくて」


 皐月の声につられ、隣に座っていた多香音も身体を寄せて画面を覗き込む。


 長かった黒髪はばっさりと落とされ、活動的なショートヘアに様変わりしている。以前は焦点の定まっていないよう見えた瞳も、幾分か輝いているように思えた。


 そんな皐月の後ろからは、両親が身を寄せ合ってこちらに微笑みを向けている。晶の応援のため、一家そろって香川から大阪まで来てくれていたのだ。


「晶も篠田さんも、ふたりともよく似合ってる。いかにもパートナーって感じだね」


「リンクの上だけなら最高の褒め言葉です」


 多香音の辛辣なレスポンスに、皐月は口元を押さえて吹き出すのを堪える。


「ふふっ、ふたりにとっては初めての大舞台だもんね。緊張もあると思うけど、私はふたりが最高の演技をしてくれると信じているよ。だから堂々と、ふたりにしかできないリズムダンスを見せてね」


「任せろ姉ちゃん!」


 鍛えた胸板をどんと叩いて、弟は画面の向こうから応援する姉に応えた。


「それと晶、オンラインだけど、あれやろう。いつも本番前にやってた、あれ」


 そう言うと皐月は、右手をそっと前に突き出す。液晶画面のほぼ全面が、皐月の握り拳で埋め尽くされてしまった。


「うん、そうだね!」


 首を傾げる多香音のことなどおかまいなしに、自身も片手で握り拳をスマホに近付ける晶。やがて姉弟何も言わないままにふうっと一息吐いてタイミングを合わせると、「せーの!」の掛け声とともに拳を画面越しに突き合わせたのだった。


「グー、パー、グー、パー!」


 そしてまるで幼児の遊び歌のようなリズムに合わせて、打ち付け合った拳を開いて合わせると、またすぐに閉じて打ち合う。


 それを何度か繰り返すと、姉弟は最後に「イェイ!」と互いに親指を立てて見せつけ合うのだった。


「ふふ、久しぶりでも覚えてるもんだね」


「ありがと姉ちゃん、気合い入ったよ!」


「じゃあ、私達も応援してるから。晶も篠田さんも、滑走楽しんできてね!」


 手を振ってふたりを激励する定森家一同に、多香音も表情を崩して小さく手を振り返す。やがて通話が終了すると、スマホはゲームキャラのイラストがでかでかと描かれた待ち受け画面に切り替わったのだった。


「いよし、いくか!」


 直後、立ち上がった晶が両手で自らの頬を叩き、パシンと乾いた音を控室に響かせる。その顔にはついさっきまでのわざと強がっているような気配はどこかへと消え去り、節操という言葉とは縁の無さそうな普段通りの表情が戻っていた。


「ねえ、気になったんだけど……」


 だが隣から多香音がぼそぼそと尋ねるので、晶は「うん?」と気の抜けた声をあげながら相方を振り向く。


「今のグーパーグーパーって、何?」


「ああ、いつも本番前にやってたルーティンみたいなもんだよ」


 しれっと即答する晶。多香音は「へえ……」と頷きはしたものの、それ以上の言葉は続かなかった。


 小学生の頃からおよそ4、5年間、ともに戦ってきた晶と皐月だ。いくら場数を踏んできたとはいえ、幼いふたりにとって本番直前のプレッシャーは耐え難いもので、それを乗り越えるために、小さな頃から親しんできた遊び歌で姉弟の信頼を確かめ合いながら緊張を和らげてきたのは想像に難くない。


 高校生になって姉が競技を離れても阿吽の呼吸で同じ動きができるのは時間の蓄積があってこそ為せる業であり、姉弟の仲睦まじさが窺える微笑ましい光景だろう。


 だがどういうわけか、多香音の胸中は決して穏やかとは言えなかった。


 大切な相方のモチベーションが目に見えて向上したのを歓迎する反面、もやもやとした言い知れぬ感情が湧き起こる。


「あんたの家族、仲良くっていいね」


 付け加えるように、わざと意地悪っぽく言い放つ。そんな多香音の心中なぞ知ってか知らずか、晶は「そうかな?」と朗らかに訊き返すばかりだった。

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