第四章その8 本当にバカな子たち
不気味で焦燥を煽る低音が奏でられる中、晶と多香音は細かなステップを刻む。やがて打ち鳴らされる力強いバスドラムの響きに会場がずんと揺れると、ふたりは肩と肩を触れさせながら氷上を大きく滑り出した。
ストラヴィンスキー作曲『火の鳥』。ロシア民話をモチーフに、魔王カスチェイにとらわれた王女を救うイワン王子と、その王子を導く火の鳥の物語を描いたバレエ音楽の最高傑作のひとつだ。
このプログラムでは長大な原曲から、『カスチェイ一党の凶悪な踊り』と『カスチェイの城と魔法の消滅、石にされた騎士たちの復活、大団円』の2つの場面が組み直されている。明確なメロディラインの少ないこの楽曲においては、いずれも飛び抜けて印象に残りやすいフレーズだ。
振付はコーチである小宮しのぶ。晶と多香音に最も相応しい演目はどのようなものかと考え抜いた末に、今回のプログラムにたどり着いたのだった。
3拍子途中で2拍子も織り交ざった不規則なリズム。さらに細かい刻みに加えて曲自体のテンポも加速し、演者はもちろんのこと観る側にも息を整える暇すら与えない。
そんな常に機敏さと正確さの求められるプログラムであるにもかかわらず、ふたりのタイミングはわずかとて乱れることは無かった。特に身長差がほとんどなく手足も長いカップルの見せる高速ツイズルは、まるで鏡に映り込んでいるのではないかと錯覚するほどで、一連のシーケンスを終えて再び手を取り合うまでの間、観客席からは盛大な拍手が鳴り響いていた。
だが拍手が止んだ直後、晶と向かい合っていた多香音がふっと足を上げたかと思うと、相方の膝にエッジを置いて、その身体をよじ登る。一瞬の後、晶の右膝に多香音の左足を乗せ、もう片足を晶の左肩に引っ掛け、そして多香音の左膝の裏側をのけぞってバランスを整えた晶が腕を伸ばして支えるという、いわゆるサボテンを逆向きにしたようなポーズが完成していた。
高く持ち上げられた多香音がふわりと両腕を広げると、同時にそれを支える晶も余った左腕をピンと伸ばし、スピードを落とすことなく渾身のカーブリフトを見せつける。
ぐるりと大きな弧を描くふたりのリフトは、まるで一羽の巨大な鳥が雪原を滑空しているかのようで、観客席からは再び盛大な拍手が巻き起こる。
「ダイナミックな演技だなぁ」
日本代表スケーターである藤沢亘が、拍手を打ち鳴らす手をそっと下ろしながら大きく頷く。
繊細な美しさで見る者を魅了した倉木・岩下の『ジゼル』とは対照的に、晶と多香音の『火の鳥』は猛り狂わんほどの力強さが前面に打ち出されていた。この点は選曲の妙と言えるだろう。
指先が伸び切っていないなど細かな修正点も目には付く。だがふたりの創り出す世界観はそんな些末なことなど気にするのも馬鹿馬鹿しくなるほど独特なもので、見る者を惹きつける魅力があった。
「やっぱり、私の目に狂いは無かった」
リンク脇の二階堂コーチがしたり顔を浮かべ、ぐっと拳に力を入れる。その傍らに腰かけていた倉木智恵は一瞬だけぎろりと鋭い目を師に向けたものの、すぐに氷上へ視線を戻すとじっとふたりの演技を食い入るように見つめたのだった。
「あの子たちったら、本当に凄いんだから……」
生徒の滑走を見守っていた小宮コーチは目頭をそっと指でこすると、ふっと観客席を振り返る。
観客の反応も良いし、演技自体も倉木・岩下に見劣りはしない。今日この滑走だけで、無名のニューフェイスから全日本ジュニアの注目株へと踊り出られたことは間違いない。
だが一方でしのぶは、演技が始まった頃から一向に止まぬ胸のざわめきを必死で抑え込んでいた。
彼女にとっての心配事は、演技後半の完成度だ。
この『火の鳥』は3分30秒間、序盤から途切れることなく機敏で力強い動きが求められるため、他と比べても消耗がかなり激しい。特に晶は年単位のブランクが原因かスタミナ不足を課題としており、後半まで体力と集中力が持続しないことが多々あった。
だがどのカップルも万全に仕上げて挑む全日本ジュニア、時間ギリギリまで全力で滑らねば、上位進出なぞ夢のまた夢。妥協という選択肢を、プライドが凝り固まったようなふたりが選ぶはずも無い。
しのぶが再び顔をリンクに向ける。これまで激しく脈打つような曲調から一転、伸びやかな弦と金管の響きに合わせて、ふたりは滑りながらリフトを見せつけていた。
遠心力を利用し、多香音を抱え上げつつ回転しながら進むローテ―ショナルリフト。忙しない動きにもかかわらず、ふたりの演技には余裕が感じられ、穏やかでゆったりとした音楽と見事にマッチしている。
そんな高難度リフトを平然とした顔で決める晶ではあるが、その表情の裏には少しでも気を抜くと膝ががくがくと震え、まっすぐ立ってもいられないほどの疲労が隠されていることをしのぶは知っていた。
さらにここからフィニッシュ直前にももうひとつリフトが組み込まれており、晶は疲労がピークに達した状態で最後の大技に挑むことになる。現在のところ、満足いく形で通しの演技を終えられる割合は半々といったところだ。一応代替案もあるにはあるが、それを選択するにはまだまだ練習が足りない。
だからこそ当初は、演技時間の短いリズムダンスを選択していたのだが……ふたりでフリーを選んだのなら、その選択を尊重しよう。もしここで失敗したとしても、ふたりのチャレンジを褒めてあげよう。そう心に決めて、しのぶはふたりの演技を見つめていた。
いよいよクライマックスの大団円。魔王を打ち破り、ファンファーレにも似た華やかな金管の旋律が会場を包み込む。裏で絶えず鳴らされるトライアングルの金属音に、演者だけでなく観客のボルテージも最高潮まで高まる。
盛り上がった雰囲気の中で迎えた最後のリフト。国内アイスダンス関係者の視線を浴びながら、晶と多香音は向き合うように顔を合わせる。
今だ!
アイコンタクトを交わした直後だった。氷上を颯爽と移動していた晶の身体が、倒れ込むように傾く。
「ええ!?」
驚きのあまり、しのぶは声を裏返した。
本来ならここで倒れるのは多香音のはず。だが今彼女の瞳に映り込んでいるのは、腕を伸ばした多香音が晶の細い身体を下側から支える姿だった。
「おい、マジかよ」
同時に会場にいた誰しもが、目玉を飛び出させんばかりに大きく見開く。
晶の足は完全に氷から離れ、ぴんと背筋を伸ばした状態でほぼ水平のまま固まっている。それを支えるのはパートナーの2本の細腕。多香音はやや胸をのけぞらせながら晶の身体を自分の腕と胸の間に引っ掛けると、さらにその場で高速回転することで遠心力を加え、より高く相方を持ち上げていた。
女子が男子を持ち上げる、いわゆる逆リフトだ。
「生で……初めて見た」
誰かがぽつりと漏らしたのが、会場全体で聴き取れるほどの沈黙。その場にいた全員、拍手すら忘れていた。
ようやく我に返ったひとりがぱちぱちと手を叩くと、現実に引き戻された周囲の人々も慌てて手を打ち鳴らし始める。会場がこの日一番の大喝采に包まれるまで、時間はかからなかった。
身長差がさほど無いとはいえ、女子選手が男子選手を持ち上げるなど滅多に見られるものではない。
「コーチの気も知らないで……本当にバカな子たち!」
しのぶはそう叫びながらも、ステーショナリーリフトを成功させる教え子ふたりにありったけの拍手を贈っていた。
たしかに代替案として多香音が晶を持ち上げるパターンも考えてはいたが、それは晶のコンディションが整わない場合など、どうしようもない事態に陥ったときのオプションという位置付けだ。練習も十分とは言えず、成功率も通常の動きと比べてさらに低い。
だがふたりはそれを選択した。練習不足であろうとスコアに反映されなかろうと、そちらを選んだのだ。
あのふたりのことだ、問い質したところで「こっちの方が面白そうだから」としか返ってこないだろう。だがこの会場の熱気と盛り上がりを肌で直に感じると、彼らの選択はまったくもって間違いではなかったと言わざるを得ない。
やがて山場を終えた曲がテンポを落とし始めると、時間いっぱいまで姿勢を保持したまま回転していた多香音が、音も立てずに晶を氷の上へと下ろす。そして息を乱すことも無く手を取り合ったふたりは、曲に合わせて回転の勢いを徐々に弱めながらもピタリとステップを踏んで、リンク中央まで移動する。
そして力強いフィナーレの一音が鳴らされると同じタイミングで、観客に向かって大きく身体を広げたポーズを見せつけたのだった。
「ブラボー!」
終了と同時に、五輪入賞の藤沢夫婦が立ち上がる。
「最高!」
「シニアでもこんなの見られないぞ!」
一拍遅れて会場にいた全員が、手を腫れ上がらせんばかりの拍手を打ち鳴らして夫婦に続いた。そのスタンディングオベーションは耳を塞いでも鼓膜を揺るがすもので、天井が崩れ落ちてくるのではないかと不安になるほどだった。
完成度については倉木・岩下の方が上だろう。だがしかし、全国のアイスダンス関係者が集まった野辺山のリンクは、練習とは思えないほどの歓声に沸き立っていた。
「よっしゃあ、大成功!」
「やったじゃんあんた!」
演技を終えたふたりはガッツポーズとともに、無邪気にもスケート靴のままリンク上を飛び跳ねる。この日の演技は彼らにとっても納得のいく出来であり、経験豊富ながらその境遇ゆえに実力を発揮できないでいたふたりの、復活を印象付ける圧巻の滑走だった。
鳴り止まぬ拍手を浴びながら、観客席に一礼する晶と多香音。その最中、会場の人々の表情をちらりと覗き込んでみると、皆誰しもが興奮を抑えきれず頬を紅潮させている。
ただひとり、倉木・岩下を教え子に持つ二階堂コーチだけが、今目の前で何が起こったのか理解できないとでも言いたげに、唖然としたまま固まっていた。
その間の抜けた顔を見るなり、多香音は顔を伏したままぷっと吹き出す。そして続けざまに、小さく「ざまあみろ」と呟いたのだった。
参考音源
『火の鳥』全曲
https://www.youtube.com/watch?v=VdtQwA3Ij2c
『カスチェイ一党の凶悪な踊り』
https://www.youtube.com/watch?v=95273QCgP6s
『カスチェイの城と魔法の消滅、石にされた騎士たちの復活、大団円』
https://www.youtube.com/watch?v=ZKpyf34VO10




