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第四章その7 王者の重圧

 初手にジュニア離れした滑走を見せつけられた後続の演技は、いずれも今ひとつ精彩を欠いていた。


 練習とはいえ本番さながらの一発勝負であるこの時間、選手たちにのしかかるプレッシャーは普段の練習とは桁違いだ。それこそ振付のタイミング違いなど、いつもなら起きるはずも無い初歩的なミスさえも見られた。


「リズムダンスとフリーダンス、どちらを選びますか?」


「リ、リズムで」


 出番の回ってきた中学生カップルがスタッフに答えると、がちがちに顔をこわばらせたたまリンクに滑り出る。やがてスピーカーから流れ始めたのは、陽気なラテン音楽だった。


 アイスダンスでは2分50秒のリズムダンスと、3分30秒のフリーダンスの2つのプログラムが演じられる。大会では1日目に足切りを兼ねたリズムダンスが、2日目にフリーダンスが演じられ、それらの合計スコアで最終順位が決まる。このリズムダンスは曲調やリズムに関して毎年異なった課題が設定されるため、カップルは規定に則った選曲で挑まねばならない。


 今年のジュニア課題はチャチャコンゲラード。社交ダンスでもおなじみチャチャチャを、全身を使って氷上で演じるキューバ発祥のリズムだ。踊りやすく親しみやすいテンポであるため、ラテン音楽の入門としても広く愛されている。


 緊張で危なっかしさすら感じさせた中学生カップルだが、いざ音楽が流れると表情をキリリと一変させ、やがて軽快な足さばきで滑走を始める。


 手と手を取り合い、塵ひとつ落ちていない白氷をダンスホールに、ふたりは跳ね回るように楽しげに踊る。


「良いね、あのふたり」


 晶はリンク脇の椅子に腰かけながらも、前のめりの姿勢でかぶりつくように中学生カップルを目で追っていた。大会ではライバルにもなり得る相手だが、そういった対抗心とは別に良い演技は良いと言い切れるのがこの晶という少年だ。


 実際にこのカップルは、練習で他のカップルが軒並み苦戦している中でも与えられた課題をいずれもそつなくこなしていた。恐らく中学世代では国内トップの実力者だろう。


 いよいよ見せ場のツイズル。


 手を伸ばせば相手にすぐ触れられるほどまで距離を詰め合って並走しながら、男女それぞれピタリと息の合った回転を器用にも片足だけで披露する。


 だがその最中、氷にエッジを取られたのか男子の膝が突如がくんと折れた。


 はっと息を吞む場内一同。転ぶまいと咄嗟に踏ん張ったおかげで男子は体勢を立て直したものの、そのわずかな間だけで相方とは半回転ばかりリズムがずれてしまっていた。


「惜しい!」


 舌打ち混じりに、晶がこぼす。一方の多香音はじっとリンクに目を向けたまま黙り込んでいた。


 普段の練習ならここで一旦仕切り直しにもできるが、今は本番を想定した通しの演技。陽気で煽情的な四拍子の音楽は中断されることなく流され続け、遅れた少年は慌てて相方と動きを合わせたのだった。


 だがミスを取り戻そうとかえって変な力が入ってしまったのか、以降の演技ではあちこちで男女間のリズムが狂い、先ほどまで見られた手足のキレもすっかり失われていた。


 どうやら彼らは完全に、岩下・倉木のカップルの作り上げた空気に飲まれてしまったようだ。


 その後も複数のカップルがリンクに立ったものの、結局1組として満足ゆく演技のできないまま、最終滑走へとバトンが託される。


「いよいよ出番か」


 椅子から立ち上がった晶がうーんと身体を伸ばし、肩や背中の筋肉をほぐす。


「ねえ、あんた」


「おう?」


 だが傍らの多香音に声をかけられ、ちょうど両手を頭上まっすぐに伸ばしたまま晶は固まってしまった。


「……急で悪いんだけど」


 それまでずっと晶に向けられていた視線が、わずかばかり逸らされる。


「私たちもさ……フリーの演技にしない?」


 普段の強気な多香音からは想像もつかない、消え入りそうな声だった。


「へ?」


 晶がきょとんと眼を丸める。


 まるで別人のような相方の振る舞いに面食らったわけではない。本来彼らはこの通し練習を、リズムダンスで挑む予定だった。それを氷の上に立つ直前でフリーに変更しようと提案されたとなれば、驚くのも当然である。百戦錬磨のアスリートと言えど、そう易々とスイッチを切り替えられるものではない。


「うん、いいよ」


 だが数秒の後、晶はこくんと頷いて返した。それも負担などこれっぽっちも感じていないような、安請け合いとしか聞こえない口調で。


「ありがと」


 多香音の口角がふっと上がる。そしてすぐさま近くに立っていた男性スタッフに、「すみません」と声をかけたのだった。


「直前で申し訳ないのですが、曲をフリーのものに変えてもらってもよろしいでしょうか?」


「ええ、かまいませんけど……」


 本当に大丈夫?


 口には出さなかったが、スタッフの目はそう訊き返していた。


「はい、お願いします」


 はきはきと答える多香音。その表情に、不安という言葉はあまりにも似つかわしくなかった。


「こちらリンク班。音響班、どうぞ」


 男性が手に持っていたトランシーバーで音響担当に連絡を入れる。やがて数回のやり取りの後、彼は親指と人差し指で小さなマルを作り見せつけたのだった。どうやら無事に、多香音の希望は通されたようだ。


「気を付けてね」


 リンク入り直前、靴紐を確認する多香音と晶に、心配を隠し切れない様子で男性が声をかける。


「無理言ってすみません。ありがとうございました」


 だが当の本人らは至って平然とした様子で、男性に一礼した後ふたりは「じゃあ、いこっか」と手を取り合い、実に穏やかな顔つきで氷上へと踏み出したのだった。


 最後の演技者の登場に、場内から大きな拍手が沸き起こる。それに応えてふたりは手を振り返しながらリンクをぐるりと一周するが、本番と同じ衣装まで用意していたジュニア一発目と比べると、その歓声はいささか寂しく聞こえた。


 やがてリンク中央まで移動したふたりは、手と手を絡ませ互いに見つめ合った状態で静止する。


「今日はどう、飛びたい?」


 ぱちぱちと拍手が鳴らされる最中、晶は多香音にしか聞こえない小さな声でぼそりと尋ねる。


「飛びたい。けどそれ以上に、飛ばしたい」


 にっと白い歯を見せる多香音。自信満々のその表情、いつしか晶もまったく同じ顔を浮かべていた。


「最終滑走は、定森晶、篠田多香音。曲はストラヴィンスキー『火の鳥』」

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