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第四章その4 ダイヤの原石

「ところで、あの倉木って子だけどさ」


 練習の休憩時間、多香音は屋外に設置された自販機のボタンを押しながら、傍に立つ晶に話しかけた。取り出し口からガコンと音が立つ。


 陽の落ちかけた野辺山高原は、夏の盛りでも肌寒く感じるほどだ。周囲の森や田園は虫とカエルの声に包まれており、一日が過ぎ去ってしまう物悲しさを呼び起こす。


「どっかで見た記憶があるんだよね。それもずっと前に」


 少し屈んでペットボトル入りのスポーツドリンクを取り出すと、多香音はさっと機械の前から退いた。


「大会で見かけたとか?」


 入れ替わりで、財布を開いていた晶が自販機の前に立つ。彼は迷わずハチミツレモンを選択した。


「そうなの……かなぁ?」


 すぐに結露ができるほどキンキンに冷えたボトルのキャップを、ふたりはほぼ同時に開ける。そして夕焼けに照らされながら、その場でぐびぐびっと喉に流し込んだのだった。


「ねえ、ふたりとも」


 背後から、何者かが多香音たちに声をかける。振り向いたふたりはそこに立っていた意外な人物に、思わず「え?」と声を漏らした。


「二階堂先生?」


 切り揃えた黒髪に、表情の読み取れない眼鏡。日本の誇るアイスダンスの第一人者、二階堂コーチだった。


「突然話しかけてごめんなさい。今日あなたたちの滑りを見て、あまりにも感心しちゃったから。いくら経験の蓄積があると言っても、まだカップルを組んで4カ月とは思えないくらいに息がぴったりだった。エッジワークも滑らかだし、リフトもまるで重さを感じさせない。あなたたちはとんでもない才能を秘めている」


 練習で見せた鬼教官っぷりとはまるで異なり、柔和で穏やかな語調。そのギャップに面食らいながらも、ふたりは「あ、ありがとうございます」と頷いて返した。


「あなたたちの才能なら、伸びしろはまだまだ無限大。うちは国内でも有数の施設を備えているし、スタッフも筋トレ専門からメンタルケア専門まで数多く常駐している。そういう環境でこそ、練習を積むべきだと思うの」


 二階堂コーチはさらに詰め寄る。その並みならぬ迫力に、多香音は少し引き気味に「あの、すみません。どういうお話でしょうか?」と尋ね返した。


「あらごめんなさい。まあつまりね、私はあなたたちの才能に惚れ込んだ。どう、うちに来ない?」


 コーチの口端がにっと上がる。あまりの展開に、ふたりは何も言葉が浮かばずに顔を見合わせていた。


「二階堂さん!」


 だがその時、怒号にも似た声が夕焼けの山里に響き渡る。3人が目を向けた先では、頬をむすっと膨らませた小宮しのぶが、ずんずんとこちらに歩いてきていたのだった。


「こんな時にスカウトはよしてください!」


 そして間に割って入ったしのぶは、自身よりも長身のふたりを背中で庇う。対する二階堂コーチは「あら、ごめんなさいね」と口元を隠して答えた。


「けどふたりの才能は間違いなく本物、燻らせるのはもったいなくて」


「お生憎様、うちはうちで間に合っておりますので」


 強気で言い返すしのぶ。その一歩も退かない姿勢には、二階堂コーチは残念そうにため息を吐くしかない。


「そうですね、今のふたりをここまで仕上げたのは小宮さんのおかげですからね。ですがある程度は才能でカバーできても、それ以上に選手が伸びるか伸びないかはコーチ次第。ろくに指導経験も無いコーチに、果たしてダイヤの原石を美しく磨き上げられるものでしょうか……」


 物憂げに言うと二階堂コーチはその場をつかつかと離れる。そして3人に見送られながら、建物の中に戻ってしまったのだった。




 その日の夜、練習も夕食もすべて終わり、参加者は各自で部屋に戻っていた。日中の移動と練習とで相当に疲労がたまっていたのだろう、まだ消灯時間も迎えていないのに、子供たちは布団に入ってぐっすりと眠りに就いていた。


 そんなすっかり静まり返った館内の大浴場で、小宮しのぶは広い湯船に一人で浸かっていた。


「ふう、今日は疲れたなぁ」


 頭に結んだタオルから水滴が肌を伝う。造りはやや古いがタイルと御影石の敷き詰められた浴場は居心地も良く、加えて自宅の狭い浴室とは桁違いの湯量のために身体の芯までぽかぽかと温められるので、骨の髄まで癒される気分だ。


 ふと天井を見上げる。一面に広がる白のモルタル材を眺めながら、しのぶはぐでっと脱力した。


「ダイヤの原石、か」


 そして無意識に、口からこぼれ出てしまったのだった。


 今日、二階堂コーチから言われたあの言葉。それがいつまで経っても彼女の頭から掻き消えず、何度も何度も繰り返される。


「美しく磨き上げるもコーチ次第……」


 途端、しのぶの視界がぼやける。浴場の湿気ではない。目からじわりと涙があふれ出てきたからだった。


「あ、あれ? う、うう……」


 なぜいきなりこうなってしまったのかはわからない。だが一度決壊した涙腺はそう簡単には収まらず、止めどなく涙が目の奥から押し出され続けた。


「うわああああん!」


 やがて年甲斐もなく、声をあげて号泣する。湯船のお湯で何度も顔を洗うが、それでもなお涙は止まらなかった。


 ここまで泣くのは数年ぶりのことだった。アメリカでコーチングを学んだもののなかなか生徒が見つからずにバイトと単発のレッスンで日々を送る最中、かつてカップルを組んでいた相方が結婚したと聞いて、報われない努力を続けてきた自分が如何に惨めかを思い知らされた時以来だろうか。


 本番直前の練習中にパートナーのブレードで足を切って当日欠場せざるを得なかったこと、現役最後の全日本選手権でリフトを失敗し表彰台を逃したこと、シングルで伸び悩んでいた女の子にアイスダンスを勧めたら「男子と手をつなぐなんて絶対にイヤだ」と拒絶されたこと。今までの辛かった記憶と感情が、ごちゃごちゃのカタマリになっていっぺんに押し寄せる。


 ひとつひとつを冷静に振り返る余裕などあるはずも無い。ただただ彼女はしばらくの間、すすり泣く声を浴場に反響させ続けたのだった。


 どれぐらいの時間が経っただろう。ようやくしのぶは湯船から立ち上がると、赤くなった目をこすりながら浴室を離れる。


 脱衣所に続く曇りガラスをガラガラと引き開ける。その直後、しのぶは「あ」と口を開いたまま固まってしまった。


 どういうわけか脱衣所には、部屋にいるはずの多香音が気まずそうな表情で立っていたのだ。


「し、篠田さん、なんでここに? お風呂、とっくに終わってるんじゃ?」


「いや、あの、化粧水忘れたから取りに来たんですけど、そしたらコーチの声が聞こえて……」


 作り笑いを浮かべながら、Tシャツ短パン姿の多香音は手に持っていたポンプボトルをしのぶに見せつけた。

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