第四章その3 本格練習スタート!
藤沢夫婦が世界レベルのスケーティングを披露した後、いよいよ練習が開始された。
日本最強カップルのフリーダンスを間近で見て火が点いたのか、参加者の顔は皆真剣そのものだ。
選手は小学生らノービス世代と中学以上のジュニア世代とでグループ分けされる。そしてノービス世代の選手たちはまずトレーニングルームに移動し、リフト練習や器具を使ったトレーニングに取り組むことになった。藤沢夫婦はじめコーチ陣も面白おかしく指導しており、和気藹々とした雰囲気に包まれている。
一方のリンクでは、ジュニア世代のカップルがステップやツイズルを繰り返して、自身の滑走の精度を高めていた。
「もっと足高く!」
「回転遅い! 音楽に合わせて!」
リンクという空間がそうさせるのか、こちらは選手もコーチも張り詰めた空気を漂わせている。だが多くの人の目に触れるために他のコーチや連盟スタッフからも指導や助言をもらえ、自分たちだけでは気付かなかった点も明らかにできるのはこの合宿ならではのメリットだろう。
「ふう、もう足がパンパン」
リンクを出てベンチに腰かけていた多香音が、樫の木のように硬くなった足をさする。アイスダンスのエッジにもすっかり慣れてきたと思ったのに、大勢からマシンガンのごとくダメ出しされたのにはただただ口が塞がるばかりだ。
隣の晶も「だよな」と飲んでいたドリンクを口から離す。
「個々の動きはだいぶできているみたいだし、これからは言われた通りもっとふたりでタイミングそろえることに注意しないと。それにしても……あのコーチ、凄いな」
晶がそっと振り返ると、つられて多香音も同じ方向に顔を向けた。
ふたりの視線の先にいるのは、リンク脇で腕を組んで立つ女性。艶のある黒髪をパッツンとあご丈ボブにカットした40代くらいの痩身で、細めのレンズをはめ込んだ眼鏡のおかげでやや神経質な印象を醸し出している。
「ホールドはもっと高く! 氷の上も陸と同じ、いつもの高さをずらさない! あ、またずれてる! もっと高くもっと……よし、その高さ! そのまま」
鬼コーチと聞いて安直に連想するイメージその通りに、滑走中の選手に鋭い声を途切れなくかけ続ける女性。その熱の入りようは周りのコーチやスタッフもたじろぐほどだった。
「僕、あんなの毎日聞かされるくらいなら耳栓して練習する」
冗談を交えて苦笑する晶に、多香音は「でもねえ」と続けた。
「あの人、すっごい人なんだよ。二階堂先生って言って、日本のスケート界じゃちょっとした有名人。昔、アイスダンスの日本代表になったこともあって、引退後は海外で指導法を勉強してコーチになったんだって」
多香音の解説に、晶は「ほう」と聞き入る。
「ここ最近の日本代表選手はだいたいあの先生の門下生かな。藤沢夫婦も、アメリカに移るまでは二階堂先生から教えてもらっていたみたいだし」
「そりゃすごいな」
先ほど見たプログラムがまだ頭の中に残っている。あの大元を築き上げたのだから、日本アイスダンス界への貢献の大きさは計り知れない。
リンクを下りたカップルは遠くから見てもわかるほどに憔悴していた。
そのカップルと入れ替わりで、リンクに踏み入る一組の男女。
「あなたたち、頑張ってきてね」
二階堂先生が声をかけると、「はい、コーチ!」と気合を込めて返す。
あの高校生だ。バスの中で話しかけてきたあのカップルは、二階堂コーチの門下生だった。
名前は倉木智恵と岩下誠太郎。ふたりとも多香音らより1つ年上の高校2年生だ。
リンク中央に移動する倉木・岩下組を、晶と多香音はじっと目で追う。日本屈指のコーチの実力とはどのようなものか、その他諸々の事情も含めて興味深い。
練習用の音楽が流れる。滑走を始めたふたりのステップは一瞬のズレも無く、阿吽の呼吸を体現している。加えてスピード感はあるのに、力を抜いているのかと思えるほど優雅なツイズル。
まるでお手本のような、美しく無駄のないスケーティング。王道を往くアイスダンスらしいアイスダンスだ。
「そう、その滑り! 持てる技術を極限まで研ぎ澄ませ、最高の完成度を目指しなさい!」
二階堂コーチも手を叩いて激励する。
まだシーズン初戦すら始まっていないこの時期とは思えない仕上がりに、他のコーチたちはただただ感心するしかなかった。
「きれいなリフトですね」
「すごいな、シニア級の選手と比べても遜色ない」
次々と飛び交う絶賛。二階堂コーチも口角が上げて得意げな笑みをこぼす。
「あのふたりは去年から一気に伸びてきたカップルです。去年は惜しくも2位でしたが、今年はもうひとつ上に行けると断言できます」
実力に裏打ちされた揺るぎない自信。そんな彼女の堂々たる姿に、コーチ経験の浅い小宮しのぶは終始気圧されていた。
「二階堂コーチお得意の徹底した美しさの追求ですね……順当にいけば、今年の全日本優勝候補筆頭でしょうか」
つい弱気になってぼそりと漏れ出る。だがその一言を聞いた多香音は、ふふんと鼻を鳴らしていた。
「ちょうどいいじゃないですか。必要だと思っていたのですよ、私の復活劇に相応しい張り合いのある相手が」
あまりのビッグマウスにしのぶはきょとんと目を丸め、晶も「おいおい」と呆れて頭を押さえる。
しかし驚いた顔で固まっていたしのぶはやがて表情を崩し、いつもの穏やかな笑顔に戻る。ついさっきの不安は、まったく感じられなかった。
「ふふ、篠田さんはいつも強気ですね。あなたが言うと、なぜだか信じられてしまうのが不思議なものです」
そして一発、ぱんと手のひらを打ち合わせる。
「ほら私たちも負けてはいられませんよ。さっき指摘されたところ……とりあえずリフトの動きをもっと磨いていきましょう!」
気合を入れ直したしのぶに促され、ふたりは再度リンクに降り立つ。
そしてふたりがホールドしたまま滑走している状態から、晶が多香音を持ち上げて腿の上に片足立ちさせるリフトの練習に取り掛かったのだった。
「はい、リフトー!」
何度か同じ動きを繰り返した時のことだった。右足のエッジを晶の右腿の付け根あたりに載せ、もう片足を折り曲げながら上半身は外側に突き出す。そして互いのの右手をがっちりと強くつなぎ、片足と片手だけでサボテンにも似たポーズを作ったのだった。
そこから数秒間、体重のバランスをうまく取っていたふたりは、まるで彫刻のようにピンと静止したまま氷の上を大きな声弧を描いて滑走していた。
「やったぁ、完璧ですよー!」
これぞ理想の形。100点満点とも言えるリフトにしのぶはつい周囲の目も忘れて大きな拍手で生徒を褒め称えた。
「おふたりとも、凄いですね」
だが直後、後ろを振り返ってしのぶは目玉を飛び出させそうなほど驚かされる。
話しかけてのは、あの二階堂コーチだった。
「聞いてはいましたけど、本当に4月にカップルを組んだばかりなのですか?」
リンク上の晶と多香音をじっと観察する二階堂コーチ。眼鏡のレンズが照明を反射して、その表情はまるで読み取れない。
「は、はい、ふたりとも基本的なスケーティングは身についていますから。あとはアイスダンス特有の動きを吸収すれば、ぐんぐん伸びていきますよ」
アイスダンス界のビッグネームからの問いに、しのぶはしどろもどろ答える。二階堂コーチは相も変わらず何を考えているのかわからない目を向けながら、「ふぅん……」と唸って顎に手を当てた。
そんなやり取りを繰り広げるコーチのやや後ろでは、休憩中の倉木智恵が氷上の多香音をメラメラと対抗心剥き出しの目で睨みつけている。そのことに気付いたのは、リンクに立つ多香音と晶だけだった。




