第三章その3 おらぁ!
翌日、土曜日で学校の授業が無いこの日もまた、多香音としのぶは午前中から定森家を訪れていた。
休日は一般利用客や他団体の予約で、リンク争奪戦が平日以上に激しい。今日も今日とて貸切利用の予約を逃した一行は、陸上でもできるバランストレーニングとリフト練習に打ち込んでいる。
「はい、そのまま3分間耐えてみましょう」
しのぶの指導でふたりが取っているのは、組体操のサボテンを片足でやっているようなポーズだ。高く手足を伸ばして上に乗る多香音を支える晶は、腕をプルプル震わせながら顔を真っ赤にしていた。身長の高い多香音を支え続けるのは、1年前よりも筋肉量の落ちた彼にはなかなか大変なようだ。
「ふふ、今日も頑張ってる」
そんな弟たちが四苦八苦する姿を、姉の皐月は自室の窓から眺めていた。
事故のトラウマでカップル解消となってしまった今、これ以上自分が晶の邪魔になってはいけない。これからはスケートへの未練を断ち切って、弟と新たなパートナーを応援していこう。
「さ、私も頑張ろっと」
皐月は机に向かい、数学の問題集を開く。
アイスダンスと決別した彼女は今、勉学に力を入れていた。
カナダで過ごした期間が長かったので日本の高校に馴染めるか不安ではあったが、その点は杞憂だったようで、今は級友とも仲良く学園生活を送っている。だが日加のカリキュラムの違いから学習内容に関しては常にギャップを感じており、日本の大学に進学するとなれば想像以上に苦労しそうだ。
まだ2年生ではあるが、今の内から受験のためにこつこつと積み重ねておくのが得策だろうと、皐月は学校だけでなく塾や家庭でも抜かることなく学習を進めていた。
シャープペンシルをノートに走らせ、簡単な円と三角の図形の重なった図形を描く。
「ええっと、2倍角の公式はたしか――」
「うおらぁ!」
小さく独りごちた時だった。唐突に外から威勢の良い掛け声が聞こえ、皐月は思わずびくりととび上がってしまった。
「え、何?」
慌てて窓から外を覗き見る。庭には晶と多香音が立っていたが、どういうわけかふたりとも今にもすっ転んでしまいそうなほど足取りはフラフラだった。
「危ない、危ない! 篠田さん、無茶はしないでください!」
しのぶが声を強める。
「無茶じゃないです!」
だが多香音はそれを打ち消すほどに、力を込めて言い返した。
「今のでコツはつかめました。ですからもう一度トライさせてください!」
「でもいくらみんなを驚かせたいからって、さすがにこれは……」
「こいつにできて私にできないはずがありません!」
多香音にびしっと指差される晶。当の本人は釈然としない表情を浮かべつつも、「まあ篠田さんならやれそうだね」と頷いていた。
「不可能だ、できっこないなんて単なる思い込みです。私はそんな思い込みに負けるようなスケーターじゃない!」
まくし立てる多香音の気迫に、しのぶは折れた。
「わかりました、もう一回だけやってみましょう。ですがこれが最後、失敗すればもう無しですよ」
ため息混じりに話すしのぶに、多香音は「ありがとうございます」と頭を下げる。
「さあ、もう一回! ほらあんた、ちゃんと身体伸ばして」
言われて晶は「あいよー」と返しながらピンと両手を高く上げ、背筋をまっすぐ伸ばして直立する。多香音はその背後に立ち、両肩を回してほぐす。
ふたりは一体、何を始めるのだろう。2階の皐月は固唾を呑んで見守っていた。
「そーれ!」
掛け声とともに多香音が少し身を屈める。同時に伸ばされた両手は、晶の腰よりもやや低い位置、ちょうど太腿のあたりをがっしと掴んだ。
あっと驚く間もなかった。晶の身体は多香音の2本の細腕に持ち上げられ、両足が地面から離れる。
「おらぁ!」
それだけでは終わらない。多香音はまっすぐ一本の棒のようになった晶の身体を胸の高さまで持ち上げると、さらにほぼ水平になるまで横に傾ける。そして晶の身体を抱えたまま、その場で1周、2周、3周と、まるでハンマー投げ選手のように回転していた。
最後にはややふらつきながらも晶の身体を元のように立て、すとんと足から丁寧に着地させたのだった。
「嘘!?」
皐月は両手で口を抑え、わなわなと震える。今まさに目の前で起こった出来事のはずなのに、すぐには現実だと受け入れられなかった。
もし今のが銀盤上であれば、両足を氷に着けた状態で、その場で回転しながら持ち上げる形のステーショナルリフトが成功していただろう。つまり多香音は女子が男子を持ち上げるリフト、所謂逆リフトを成功させたのだ。
「驚いた、本当にやってしまったわ、この子」
唖然とするしのぶを前に、多香音は「へへーん、どんなもんよ!」鼻をこする。まだまだ余裕がありそうだ。
ペア種目ほどは腕力の要されないアイスダンスであるが、やはり一般的にリフトでは男が女を持ち上げるものと相場が決まっている。実際に逆リフトを演技中に披露するカップルは時折見られるものの、どちらが持ち上げるかで採点に影響は及ぼさないのでスコアの上でのメリットは無い。
だが、インパクトは絶大だ。たとえスコアが今ひとつでも、高難度の逆リフトを成功させれば観衆の心は掴めたも同然だろう。
「うん、篠田さんならできると思ってた。やったぜイェイ!」
今さっき本当の意味で振り回されていた晶が多香音とハイタッチを交わす。彼も彼で多香音に持ち上げられている間ずっと微動だにせず身体をまっすぐ伸ばし続けていたのだから、この根性とバランス感覚は大したものだ。
「いいですよねコーチ、今の動きをプログラムに組み込んでも。篠田多香音の復活を象徴する、渾身のリフトを!」
ふんすと強く息巻きながら頼み込む多香音。しのぶは呆れと喜びが入り混じった顔で、「わかりました」と頷いて返した。
「そこまで言うならやっちゃいましょう。それに篠田さんなら、リンクの上でも本当に成功させてしまいそうですから」
「ありがとうございます!」
多香音と晶が同時に頭を下げる。直後、多香音はくるりと振り返ると、まっすぐ2階の窓――つまり皐月の部屋――を見つめた。
「一度はスケートを諦めかけたこともあったけど、諦めなければいつだって再出発はできる。無理だとか不可能だとか、そんなん知ったこっちゃない! 頂点にもういっぺん立つためには、これくらい実現できなくてどうしろってのさ!」
そう高らかに言い放ちながら、窓ガラス越しにふたりを眺めていた皐月に向かって得意げに微笑み返したのだった。




