第一章その1 跳べないチャンピオン
「新横浜スケートセンターで開かれております全日本フィギュアスケートジュニア選手権、女子シングルフリーもいよいよ最後のグループを迎えました」
白い氷に覆われた銀盤を、思い思いに舞い滑る6人の少女たち。氷上で弧を描きながら本番前の6分間練習でジャンプやスピンの最終確認に励む姿はいずれも優雅ではあるが、その眼は一様に緊張と闘志で滾っていた。
やがて時間が迫り、ひとり、またひとりとリンクを離れる。残ったのは一際背の高い、すらりと細長い手足が目を惹く少女だった。極彩色に刺繍の施された衣装もエキゾチックなもので、その立ち姿は東洋の姫君と呼ぶに相応しい。
「最終グループ第一滑走は篠田多香音。中学3年生にして173cmという高身長が銀盤に映えます」
少女はリンクの中心に移動すると、大きく息を吸い込む。そして苦悩に苛まれているかのように頭に手を添えてしゃがみ込むと、ぴたりと静止したのだった。
会場の拍手も鳴り止んで、呼吸すら憚れるほど静まり返る。
「小学生で出場したノービス大会では連覇も果たしましたが、ここ数年は表彰台を逃しています。昨日のショートプログラムでは意地の滑りを見せ全体6位に入りましたので、復活が期待されます。曲は『「イーゴリ公」より』」
弦楽器のハーモニーが鳴り響く。氷上の少女は回転を交えて立ち上がると、流れるように滑走を始めたのだった。
詰まることのない、スムーズな足運び。瞬間的に人間の全速力以上のスピードまで加速した少女の身体を支えるのは、幅4ミリに満たない2本のブレードだけだ。
リンク全体を大きく滑りながら、スピードが十分に乗ったところで進行方向に身体を向ける。そして右足を力強く蹴り上げると、たちまち両足が氷から離れ、少女は回転しながら宙を舞った。
「最初のダブルアクセル……乱れるも着氷!」
観客から安堵の息が漏れる。本来なら空中で2回転半して片足で決めるべきところ、バランスを崩した少女は両足での着氷になってしまった。
当然、減点対象ではある。だが少女はぐっと歯を食いしばり、自らの演技を続けた。
「次はトリプルトゥルー、ああっと!」
最初のジャンプが終わったすぐ後、ほんの一瞬の出来事だった。
進行方向に対して後ろ向きに滑っていた少女は左足を後方に振って跳び上がると、空中で身体を3回転させる。だが着氷の瞬間、エッジが氷をとらえきれずに横滑りし、彼女の細いキャンドルのような身体ががくんと崩れる。
抗うには遅すぎた。次の瞬間には、少女はリンクに叩きつけられていた。
会場がどよめき立つ。立ち上がろうと身体を起こすも、つるりと氷に手を取られる少女。見ていられないと目を覆う観客。
そしてこの混乱の最中にあっても、オーボエの厳かな音色は、無情にも美しく奏でられ続けていた。
所々に青葉も覗く桜並木。薄いピンクの花びらは風に散ってもなお『2026年度・南讃高等学校入学式』と書かれた看板を鮮やかに彩っていた。
「どうも、定森晶です。さぬき西中学から来ました。英語は得意ですが、数学は大の苦手です。みなさん、教えてください!」
「誰が教えるかっての!」
同じ中学出身の男子生徒が茶々を入れ、教室がどっと沸き立つ。今しがた教壇で自己紹介を済ませた少年は、ひょろりと細長い177cmの身体をどーもどーもと何度も折り曲げながら自分の席へと戻った。
講堂での入学式を終え、各自教室に移った新入生たち。そこでは学級担任教師の進行で、オリエンテーションが催されていた。
「では次の人」
中年の男性教師の呼びかけに反応したのは、「はい……」と力なくか細い少女の声だった。
静かに立ち上がり、そのまま足音も立てず机の間を進む女子生徒。だがその姿を少しでも目に入れた新入生たちは、全員が全員あぜんと口を開いたまま目で彼女を追うしかなかった。
「背ぇたっか……」
「ホント、モデルさんみたい」
あちこちから感嘆の声が漏れる。黒板を背に教壇に立った少女は、170cmを超える長身の持ち主だった。
女子はもちろん、そこらの男子さえも見下ろす背丈。加えてブレザーの上からでも透けて見えるほどの細長い手足とファッションモデル顔負けのスタイル。加えてきりりと通った鼻筋に、凛々しさを感じさせる鋭い目つきと、正統派美人と評すべき顔立ち。
非の打ちどころのない彼女の容姿は、この一連の所作だけでクラス全員の関心を引き寄せていた。
「篠田多香音です」
よろしく、の一言も口にせず、小さく頭を下げる少女。あまりに素っ気ない終わり方だったのでしばし教室は沈黙に包まれるも、やがて誰かが思い出したように拍手をしたおかげで彼女はすたすたと席に帰ったのだった。
「ん、篠田?」
席に向かう少女の背中を見送りながら、女子生徒のひとりがぼそりと呟く。
その後、クラスメイト全員の自己紹介と高校生活に関する諸々の説明を終え、この日の授業はすべて終了となった。
「ねえ、篠田さん!」
配布されたプリント類をスクールバッグに移していた多香音に、ひとりの女子生徒が嬉々として声をかける。
「フィギュアスケートやってるんだってね! しかも全日本選手権って、凄いじゃん!」
興奮気味に話しながら、少女はスマートフォンを突き出した。画面には『全日本フィギュアスケートジュニア選手権2025女子シングル結果』と見出しが打たれていた。
「どこかで聞いたことあるなって思ったら、やっぱり! ウチのお母さんフィギュア好きだから、いっしょにテレビ中継見てたんだよ!」
「ウソ、フィギュアスケート?」
「おいおい、マジかよ」
たちまち周りの生徒たちもどっと集まる。ただでさえ注目の的の多香音だ、そこにフィギュアスケートという優美な単語が加われば、最早アイドルも同然だった。
「きれいな篠田さんにぴったり!」
「スケートなんてカッコイイ、ねえ滑ってるとこ見せて!」
興奮を抑えきれず口々に声をかける生徒たち。
「……昔の話だから」
だが当の篠田多香音はスクールバッグを肩にかけると、足早にその場を離れた。群がっていた生徒たちは慌てて追いかける。
「昔って、大会はこの前の11月でしょ?」
「ごめんね、でも私、もうスケートは滑らないから」
押しのけるようにしてクラスメイトを振り切る多香音。その華奢な体躯から放たれる言いようのない威圧感に、生徒たちは無意識に足を止めていた。
「もう滑らないって、もったいないなぁ」
「てかさ、何でそんなフィギュアスケート選手が、うちの学校にいるわけ?」
「そういえば……なんでだろ?」
疑問に首をかしげる一同を残し、多香音はせこせこと教室を後にする。昇降口に向かう途中、部活の勧誘で何度も声をかけられたものの、そのいずれにも一瞥さえ投げ返さなかった。
校門を抜け、桜並木に包まれたところでようやく歩調を落とす。ようやく撒けたかと一息ついた、まさにその時だった。
「ねえキミ!」
背後から投げかけられる強い声に、つい多香音はびくりと身体を震わせて立ち止まる。
振り返った彼女の視界に入り込んだのは、ひとりの男子生徒だった。
「あんた、同じクラスの」
「そうそう定森晶だよ、覚えててくれて嬉しいなぁ!」
ニコニコスマイルを貼り付けながら近付く男子生徒。反射的に、多香音はスクールバッグを強く身体に引き寄せた。
今日、自己紹介で英語は得意だけど数学は苦手だとか言っていたあの少年だ。大したこともない話ではあるが、その際に教室を盛り上げたので多香音の印象にも残っている。
「スケートならやらないよ」
「そうか、実はね、僕もスケートやっているんだ」
「……へえ」
思わず緊張が解け、強く抱き寄せていたスクールバッグがするすると身体の側面にずれ込む。
「意外に思ったろ、こんなところにリンクなんてあるのかって。でもそれがあるんだよなぁ、琴電ですぐ行ける隣町にさ」
「……帰っていい?」
楽し気に話す少年にけだるげな目を向けて言い放つ。だが彼は「まあ待てって待てって」と手で制すると、声をひそめながら尋ねたのだった。
「スケートは練習しんどいし、お金もかかるもんな。途中でやめてしまう子もたくさんいたよ。けどキミはそういう雰囲気ではなさそうだ」
「やってるなら、わかるでしょ」
多香音はふうっとため息を吐き、そして花びら散らす桜の木を眺めながら訥々と話し始める。
「ジャンプが跳べなくなったの。小学校の時は練習ならトリプルアクセルもできたのに……」
「なるほどなぁ」
晶は腕を組み、大きく頷いた。今の一言だけで彼女の言わんとしていることを察知したようだ。
現代のフィギュアスケートにおいてジャンプは不可欠。選手として大成するならば、ダイナミックなジャンプを身に着けることは必須要件だ。
しかし全身の筋肉をフルに活用する動きであるだけに、非常に繊細なコントロールと身体感覚が必要とされる。筋肉をつけすぎたり体重が増加することで、それまで難なくこなしていたジャンプが突然跳べなくなるといった事態も珍しくはない。特に成長に伴って身体つきが大きく変わる女子選手にとって、この手のスランプは付き物だ。
加えて多香音の場合は、身長が想像以上に伸びてしまったこともジャンプを乱す要因になっていた。
元々仙台に生まれ育った彼女は5歳でフィギュアスケートを始めると、小学3年生で出場した全日本ノービス選手権で優勝、以降5年生まで高く正確なジャンプを武器に3連覇を果たす。神童現る、未来の五輪金メダリストと、出会う人誰も彼もが多香音を称賛した。
だが成長期を迎えて身長160cmで挑んだ6年生、ジャンプの精彩を欠いた彼女は小学生最後の大会で4位に転落。以降も身長の伸びとジャンプの乱れに悩まされながらも、全日本ジュニアにはなんとか出場できるレベルで競技に向き合い続けていた。
そして昨年の11月に開催された中学最後の全日本ジュニア選手権。彼女はショートプログラムで健闘し6位につけたものの、翌日のフリーではジャンプミスが重なり、最終的には総合11位に終わったのだった。
この時、多香音はすべてを諦めた。自分はスケートの神様に見放されたのだと運命を呪った。
だがかつて神童とも称された彼女には、どこに行けども「あのフィギュアの」の枕詞がつきまとう。テレビや新聞に何度も取り上げられたおかげで、地元仙台では篠田多香音の名はすっかり知れ渡っていたのだ。
その呪縛から解き放たれたいがため、多香音は高校進学に合わせて祖父母の住むここ香川県高松市に移り住んだのだった。
思い出したくもない出来事が、時系列を無視してわっと頭の中に蘇る。その忌々しい過去を忘れようと、多香音はじっと桜並木に目を向けていた。
「キミの演技、動画で見たよ」
だが晶は多香音の心中など知ってか知らずか、遠慮なく話しかける。多香音は顔を背けながら「へえ」とだけ返していた。
「たしかにジャンプは不安定だけど、高くて力強い。そして何より、ステップが素晴らしい。複雑な動きでもスピードが全然落ちていない」
「よく見てるね」
「もちろんだとも。ステップシークエンスはシニアトップクラスにも引けを取らないし、スピンにもブレが無い。これだけ繊細なエッジコントロールは、小さい頃からの積み重ねが無いと絶対に成し遂げられないよ」
「けど、それだけじゃ勝てない!」
途端、多香音の拳を強く握りしめられる。同時に口にしたのは、今日発した中では最も力の込もった声だった。
「フィギュアが美しさを競うだけの時代なんて、とっくの昔に終わってる。今は女子でも3回転は当たり前、トリプルアクセルが跳べないと世界大会なんて話にならないレベル。ジャンプの苦手な私じゃ、スタートラインに立つことすらできないんだよ!」
桜を見上げる多香音の瞳には、いつの間にか涙の粒が浮かんでいた。
悔しい、情けない、このまま終わりたくない。様々な感情が一斉に押し寄せ、言葉で表現するにはあまりに複雑すぎる。身体は大きくともまだ15歳、彼女の心はもう破裂寸前だった。
だがそんな今にも決壊しそうな少女を前にしてもなお、定森晶は胡散臭く微笑みながらオーバー気味にうんうんと頷いていた。
「そうだな、最近の女子シングルのインフレ具合に関しては僕も驚かされるばかりだ。でもキミのスケーティングがずば抜けているのは純然たる事実だ、そんな財産を無駄にしてスケートを諦めるなんてもったいない。そこでだ」
ぐっと前に一歩、晶は踏み出す。そして親指を自身に突き立てると、したり顔を貼り付けて言い放ったのだった。
「僕とカップルにならないか?」
「……は?」
参考音源
オペラ『イーゴリ公』より『韃靼人の踊り』
https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI