005.電子書籍なら捨てるのもボタンひとつ
リビングから別室の仕事部屋に移りPCの電源を入れる。Googleカレンダーを開いて11時から予定されているリモート会議[AI開発事例共有会]に参加するためのボタンをクリックする。
「お疲れ様ですー。」
「お疲れ様です。」「お疲れ様です。」…
カメラをオンにしているのは事例発表者と部長と俺だけでディスプレイ画面内の他の参加者を表示する枠はブラックアウトされている。顔を出したくない人はカメラをオフに、音を聞かれたくない人はマイクをオフに。ボタン1つで部分的に繋がったり途切れたりするコミュニケーションがこれから会社でもきっと普通になっていくだろう。
カレンダーに記載されたアジェンダの共有事例に目を通す。
・kaggleコンペで入賞した学習モデルの共有
・feature importanceの評価バイアスを軽減する方法
・キャッチコピー評価AI(LSTMの活用)
離婚する前の自分ならもっと興味を持っていただろうな。でも今は仕事に対するモチベーションを失っている。
結婚していた頃は自分以外のためにもっと所得を増やそうと本や論文を読んで勉強会にも積極的に参加していた。けれど、1人に戻り改めて自分と向き合ってみると俺にとって所得を増やすことの優先順位はそれほど高くなかった。
各発表が終わり部長が俺に質問するように促してきたので、軽い賛辞を述べてからきっとここに興味も持ってほしいだろうな、というポイントについていくつかの質問を投げた。AI技術者は水を得た魚のように長々と専門用語を多用して質問に答えてくれた。その内容を分かりやすい言葉に置き換えでビジネスにどう応用出来るのかという注釈を添えて部長にバトンを繋げた。
1年前の俺だったら自分の知りたいことだけをもっとシンプルに追いかけていただろう。でもその好奇心は自分の内側から自然にわき出たものではなかった。
だから枯れてしまったのだ。
リモート会議の接続を切るのと同時にジルがデスクの上に飛び乗ってきた。決して仕事中のカメラに映り込むようなヘマはしない。賢いのだ。右の前足でキーボードのF11ボタンを長押ししている。でも触ると怒られるENTERキーは決して押さない。ズル賢いのだ。
それから夕方にチャイムが鳴るまで仕事を進めた。