勤勉な女子高生である私がギャルに助けられた件について
夢を見ている。
私が大好きなその人は、私の大好きな笑顔を浮かべて、
大丈夫、大丈夫だからね――
赤子をあやすように、何度も何度も呟いた。
いつもなら心の底から安心できるささやきを聞いて。
何故か、とても悲しい気持ちになって……
◆◆◆
「ん……」
ゆっくりとまぶたを開ける。どうやら不覚にも寝てしまっていたようだ。
定期テストが近いので、昨日……いや、今日の夜明け近くまで勉強していたのは、さすがにやりすぎだったかもしれない。
視界がぼやけていることで、掛けていた眼鏡がずれていることに気付く。直してから、顔を上げて、時刻を確認した。
昼休み終了15分前。寝過ごして午後の授業を欠席するという大間抜けなやらかしは回避できたようだ。
薄いカーテンから秋の穏やかな陽光が差し込み、静寂に支配された図書室。
自分の他に利用者はおらず、受付に座った女生徒が、退屈そうに窓の外を眺めていた。
私は机の上に広げた教科書やノートを手早く片付け、席を立つ。
受付の女生徒に一礼してから、自分の教室である二年A組へと向かった。
ここ、和巣高校は、偏差値が高くもなく低くもなく、これといった特徴もない凡庸な公立校だ。進学理由も「家から近かったから」が一番の、地元民からは愛されている学校である。
かくいう私――東雲輪花もそのうちのひとりで……入学してから、もっと真面目に考えればよかったと後悔した。
その最大の理由は……
「でさー、ソイツ散々自分のテク自慢してたくせに、いざヤッたらへったクソなの! 全然気持ちよくねーから、ムカついて引っぱたいてやった!」
「何それ笑える~、ってか、アンタ前の彼氏とは別れたんだっけ?」
「アイツは彼氏じゃなくてタダのパシリ。向こうはあたしと付き合ってるって勘違いしてるみたいだけど」
「ふ~ん、いいな~、わたしも便利なパシリ君欲しいな~」
「今度手頃な男紹介しよっか?」
「マジ? うれし~、ってか、アマちゃんそろそろ起きなよ~センセー来るよ~」
「……へあ? はいは~い……起きます起きます~」
「げ! アマノよだれやっば!」
……教室の外にまで、下品な笑い声が聞こえてくる。頭が痛くなってきた。
視界に入れないようにしながら、さっさと通り過ぎて、窓際にある自分の席に座る。次の授業の準備を整えつつ、横目でちらりと彼女たちの様子をうかがった。
ひとりは金髪、ひとりは茶髪、ひとりは真っ赤。
生まれもったであろう黒髪を台無しにするほど派手に染め、スカートを限界ギリギリまで短くして太ももを露わにし、挙げ句ピアスまで付けた、いわゆるギャル3人組。
始業前だというのに、ひとりは誰かの机の上に座り、だらだらとくだらない雑談に興じている。聞きたくないのに、声が大きいせいで嫌でも内容が分かってしまう。
やれイケメン見かけただの、やれどこどこの男子校のレベルは高いだの、やれ隣のクラスのだれだれはセッ――げ、下品極まれる低俗な発言ばかりだ。同じ女とは思えない。そもそも学校は勉学に励むための場であり、男漁りの話題に花を咲かせる場所では断じてない。
しかし、そんな彼女たちの容姿や態度の乱れを、厳しく注意できない学校にも問題はある。明らかに高校生らしからぬ格好なのに、過去にとある女生徒に「校則を強制された! パワハラだ!」と訴えられて以来、事件性がない限りは口頭で軽く注意されるだけが現状である。
そこに目を付けた、おしゃれ好きだと勘違いしている一部女生徒が、男へのアピールのために入学してきているのだ。進路を決める際にもっと下調べをしておけば、この程度のことは分かったのに……
一年の時は、同じクラスに悪目立ちする子が、男子も女子もいなかったのでまだよかった。
二年になって、あの3人組と一緒になってから、私の心の平穏は遙か遠く彼方だ。
あの子たちのようにはなるまいと、勉強に打ち込むようになったのは、唯一の救いかもしれない。おかげで、入学時には中の上くらいだった私の成績は、学年トップを争うまでになった。
「そうだ、アマノ、放課後空いてる? 今日こそ服買いに行かね?」
「ごめ~ん、今日も予定入っちゃってるの~」
「えー! ここんとこ毎日じゃん!」
「えっへー! 欲しいもんあるから、がんばってお金貯めてるの!」
「ってことは……」
「うん! 今日もタマちゃんぺろぺろしてくる!」
恥ずかしげもなく言いながら、舌をちろりと出した金髪ギャル。
周りの男子が一斉に前屈みになったのを、私は見逃さなかった。
……授業前だというのに、頭痛がしてくる。
「ってか、その前に病院も行きなよ、アマノ。全然ケガ治らないじゃん」
「あー……これは……」
「エンコー相手ってそんなDV激しいワケ? 相手選んだほうがいいよマジで」
仲間たちから心配された金髪ギャルは、包帯を巻いた右腕を隠しながら「あはは」と笑っていたが、私からすれば自業自得だ。いかがわしい商売に手を出し、自分を安売りしているからそうなるんだ。
心中で罵倒を飛ばしている内に、始業のベルが鳴り響き、私の意識は教室に入ってきた先生へと向かった。
◆◆◆
街灯に照らされた、住宅街の路地。
時刻は、もうすぐ午後10時になろうかというところ。塾を終えた私は、自宅への帰路を歩いていた。
辺りに人気は無い。担任の先生から「最近変質者が出没しているらしい。注意するように」との言伝があったことを思い出す。ああいう輩は、抵抗できなそうな大人しい……そう、私のようないたいけな女子を標的にしていると聞いたことがある。注意しなければ。
どうせなら、アイツらみたいなビッチを狙えばいいのに。
そうすれば、需要と供給が満たされるってものだろう。男の尻を追っかける手間が省けるというものだ。
……大嫌いだ。
私の母親がそうだった。真面目な父を騙して、お金だけ横取りし、別の男を追いかけて……私たちの前から姿を消した。
父の再婚相手、「今」の私のお母さんが、とても優しく、父に負けないくらい真面目な人でよかった。でなければ、私は道を踏み外していたかもしれない。
そうして、過去に思いを巡らせていたからだろうか。
「――お嬢ちゃん」
私は、背後から忍び寄る男の影に、全く気付かなかった。
振り向いた瞬間、手で口をふさがれた。
力任せに押され、背中がブロック塀に叩きつけられる。
まさか、本当に。
「ハァ、ハァ、お嬢ちゃん、可愛いね」
荒い息が顔にかかる。
狂気を含んだ野太い声が震えている。
街灯の明かりが届かないので、詳細は分からない。が、自分の目の前にいる、ニット帽をかぶった黒ずくめの男が――件の変質者であることは明らかだった。
もぞもぞと動く男は、左手で私の口をふさぎ、右手で肩を押さえつけている。
――怖い。
助けを呼ばなきゃ。
とにかく何でもいいから叫ばなきゃ。
頭では分かっているのに、私の体はセメントで固められてしまったかのように動かない。
男の力が強いのか、私の力が弱いのか。
動けない。振りほどけない。
このままじゃ――
「見て、見て見て見て。そんで触って。俺の――」
そこで、変質者の言葉が途切れる。
動きもぴたりと止まったかと思うと、ふらふらと後ずさり、そのまま道路に倒れた。
たす……かった……?
恐怖で動けない私は、それを呆然と眺めることしかできない。
心臓が早鐘を打っている。私は震える体を抱きしめながら、徐々に街灯の下へと移動した。
静かだ。ゆっくりと辺りを見回してみるも、近くに男以外の人影はない。
チカチカ、と街灯が明滅する。
気の動転を落ち着けようと、深呼吸をする。
何度か繰り返している内に、少しずつ動悸が収まってきた。
まずは、警察に連絡しないと……
何故倒れたのかは不明だが、男が立ち上がってこないとも限らない。この場から離れるべきだろうか。
私はカバンからスマートフォンを取り出し。
「バ、ア」
気付いた。
背にしたブロック塀の上。そこから顔を覗き込ませている――
「――――きゃあああああああああああああああ!!」
化け物、に。
ぎょろりと動く大きな一つ目。目一杯に裂け、鋭い歯が不揃いで並んだ口。真っ白で凹凸の無い体。そして、蛇のようにうねうねと動く両腕……いや、あれは腕と言っていいのだろうか。
原型は人ではあるものの、明らかに人間ではない生物。
混乱した脳では「化け物」としか表現できない、この世の物とは思えない異質さ。
反射的に塀から離れて後ずさる。
「ケヒ。ケヒヒ。ケヒヒヒヒヒヒヒ」
口は一切動いていないのに、どこからか不気味な笑い声を発する白い化け物。
これは、夢を見ているのだろうか。
変質者に襲われたことも含め、全て幻覚なんじゃないかと、脳が眼前の光景を拒絶する。
恐怖。
血走った目玉が、私を見ている。
困惑。
うねる触手が、少しずつ伸びている。
驚愕。
裂けた口の両端が、さらに吊り上がる――
――逃げなきゃ!
弾かれたように駆け出す。
が。
「ニゲナイデ」
それを見透かしていたように、伸びた触手が私の首に巻き付いた。
「あっ……!」
「ニゲ、ナイ、デ」
機械音声のような無機質さで、私でも分かる日本語を発しながら、化け物が近づいてくる。
嫌だ。
嫌だ嫌だ。
「イマ、タベテ、アゲルカラ。ニゲナイデ」
死にたくない。
殺されたくない。
食べられたくない。
「――いやああああああああ! だれか! だれかたすけてえええええええ!」
ありったけの力を振り絞って叫ぶ。
怖い、怖い、怖い。
誰か、誰でもいいから。私を助けてください。
「はぁ~い、助けにきましたよっと!」
救いの声は、頭上から降り注ぎ――
私の切迫さとは真逆の、呑気な声色だった。
ザン! と。
私の首を絞めていた触手が切り裂かれる。
支えを失った私は、そのまま尻もちをついて。
「救世主」の背中を――正確には、彼女が履いていた派手なパンツを、目の当たりにした。
「ごめんね、ちっと遅くなっちゃった。大丈夫かな――って、シノノメさんじゃん!」
「あ……え……?」
「ほら、あたし、同じクラス。覚えてない?」
にこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべながら自分を指さしたのは、私が目の敵にしていたギャル3人組のうちのひとり。金髪に両耳ピアスの――
「桜山さん……?」
「そ! 桜山甘乃! あたしの名前知ってたんだ~うれし~!」
その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてうれしさを表現する、金髪ギャルこと桜山甘乃さん。
彼女の右手には、おおよそギャルには似つかわしくない、無骨な剣が握られていた。
「ど、どうして……」
「あ、えっと、それはね――」
「キシャアッ!」
悠長に話を続けようとしていた桜山さんの背後から、化け物がもう一方の触手を鞭のようにしならせ、叩きつける。
「わっとと、あぶな~」
背後からの急襲を、軽々と避ける桜山さん。
手にした剣で、無造作に触手を払う。
「オマエ、マジョ、ダナ」
「そうそう。あたし魔女だよん。アンタを倒しに来た」
「コッチ、ノ、セリフダ。マジョハ、コロス!!」
先ほどまでとは違い、白い化け物は荒々しい音で叫ぶ。
「いや、それ無理」
桜山さんは、化け物の迫力に気圧されることなく。
まるで、興味の無い男子からの告白を断るような気軽さで言い放つ。
「だって、アンタもう死ぬから」
次の刹那。
文字通り、桜山さんの姿が消えた。
ゴシュッ! と肉が飛び散る音が響く。
「ハ……?」
化け物の目玉が、自身の体の異変を捉える。
胸の中心に、ぽっかりと大穴が空いていた。
穴を埋めていた肉片は、化け物の背後に散らばっている。
そして、目の前には、悠々と剣を構えた桜山さんの姿。
断末魔を発する暇も無いまま、化け物が崩れ落ちる。
私の頭は困惑に支配されていて――それでも、一瞬で決着がついたことは理解できた。
「大勝利! ぶい!」
桜山さんは夜空に向かってピースサインを掲げると、私の方に振り向いた。
「立てる? シノノメさん。もう終わったから、これからジジョーを……」
「甘乃! まだ終わっていないぞ!」
突如、私でも桜山さんでもない女性の声が響いた。
発信源は、桜山さんが右手に付けているシンプルなデザインのブレスレットだ。
「ちょ、タマちゃん!?」
「周囲に先程の個体と同様の反応多数だ。おそらく、この魔獣は単体ではなく群れで行動している!」
「――シノノメさん!」
桜山さんが、私を抱きかかえて一気に跳ぶ。
近くの民家の上に着地し、「急にごめんね」と謝りながら降ろしてくれた。
見れば、先程までいた路地の、塀から、道路から、電柱から……どこからともなく白い触手が生え、そこからぬるぬると白い化け物が這い出してきていた。数は、少なく見積もっても10体以上。
「うわっ、キモ! アレ全部はさすがにきついよ~。タマちゃ~ん」
「悪いが増援は出せない」
どうやらブレスレットには通話機能が搭載されているらしく、桜山さんは上司のような人と会話しているようだ。
「代わりに、『2枚目』まで許可する。それなら問題ないだろう?」
「さっすがタマちゃん! 話が分かる! 帰ったらぺろぺろしてあげる!」
「やめろ。それと、タマちゃん呼びもやめろ。佐金隊長、せめて珠子さんと呼べ」
「え、やだ」
「甘乃!」
叱責を無視し、桜山さんはブレスレットを指でなぞる。通話を終了したようだ。
「シノノメさん。ごめんだけどもうちょっと待ってね。あとでちゃんと説明するから……タマちゃんが」
状況についていけず、私はただ頷く。
桜山さんは私を安心させるように、もう一度にっこりと笑うと、
「じゃ、スパスパ斬れる君でいこう」
いきなり胸の谷間に左手を突っ込み、そこから1枚のカードを取り出した。
絵柄はよく見えない。桜山さんは手にしたカードに口づけをしながら、屋根を飛び降りる。
カードが光り輝く。
輝きが収まると、カードを握っていた左手には、もう一本の剣――いや、漆黒の刃を持つ、刀が収まっていた。
路地に着地した桜山さん目がけて、白い化け物たちが一斉に襲いかかる。
二本の刃を構えた金髪ギャルは、トン、と地面を蹴った。
屋根の上に残された私では、何が起きているかなんて説明できない。
視界に映ったありのままを言うならば。
桜山さんは、踊っていた。
剣と刀。二つの刃を煌めかせながら、夜の闇に沈んだ路地で踊る。
それに合わせて、化け物の触手が、足が、首が切り払われ、飛んでいく。
化け物たちの攻撃は、自由に舞い踊る金髪の少女には届かない。
ただただ、舞踏を彩る部品になっていくだけだ。
その光景を見て、私は――
「綺麗……」
そう、呟いた。
◆◆◆
日付が変わる瞬間を、私は柔らかなソファに身を委ねながら、ボーッと眺めていた。
テーブルの上に置かれた湯飲みには緑茶が注がれていたが、すっかり冷めてしまっている。私が一切手を付けなかったせいだ。
同じクラスの金髪ギャル、桜山甘乃さんに助けられた私は、ロクな説明もないまま抱きかかえられ、まるでハリウッド映画のアクションシーンのように街中をぴょんぴょんと飛び回り、最終的に駅近くにあったビルの一室に連れてこられていた。桜山さんは、私が怪我をしていないことを確認したあと、お茶を注いでから「ここで待っててね」と言い残し部屋を出て行った。それから1時間以上経っている。
通されたのは、よくある応接室のようだった。非現実的な白い化け物と関わりがある場所とは思えない。
体の震えは止まったし、恐怖も大分薄れてきていたが、未だに状況は呑み込めない。変質者に襲われて「きゃー助けて」で終わっていた方が、余程分かりやすかっただろう。
夢ではないことを確かめるために、何度も頬をつねったが、普通に痛い。
あれは……あの白い化け物と、それを軽々と倒した桜山さんの姿は、全て現実のものなのだ。
「はぁ……」
もう何十回と漏れたため息。未知の異世界に迷い込んでしまった気分だった。
「申し訳ない。随分待たせてしまった」
ガチャリ、と扉が開き、見知らぬ女性が入ってくる。ブレスレットから響いていた声の主だ。
厳格な言葉使いからは想像できないというか……テーブルを挟んで向かい側の椅子に座った女性は、小学生かと思うほど小さかった。ツインテールに結った銀色の髪と、左目を隠した眼帯のせいで、アニメの世界から飛び出してきたかのように見える。
「東雲輪花さん……でよかったかな。私の名は佐金珠子。先程キミを助けた桜山甘乃の……上司といったところだ」
「は、はい……」
「まず始めに伝えておくと、キミが魔獣――あの白い化け物に襲われたことによる後遺症は無いことが確認できた。幸いにも怪我はなかったようだし、明日からは通常通りの生活が送れるだろう」
「………魔獣、ですか」
「さて、本題だ」
少女なのか成人しているのかも判別できない年齢不詳の女性、佐金さんは、両腕を組み、表情を険しくした。
「東雲さんが遭遇した『事件』について。キミは詳しい事情を知りたいかい? それとも――」
一呼吸置いてから、続ける。
「――全て、忘れたい?」
私は面食らって言葉を失う。そんな問いが投げかけられると思っていなかったからだ。
「東雲さんはライトノベルとか読むかい? もしくは、ゲームやアニメが好きだったりすると、話が早いのだが」
「えっと……少しなら……」
「まあ、私たちはフィクションの中でしか存在し得ないような力を持っている、と思ってもらえればいい。そういった力のひとつに、キミの記憶を封印する……思い出せないようにするものもあってね。もし、東雲さんが今日の出来事を忘れたいと言うのであれば、わざわざ事情を説明する必要は無い。速やかに封印措置を取らせてもらうよ」
正気を疑うような目に遭ったからだろうか。記憶封印なんて芸当が、本当に可能なのかと問う気にはなれなかった。
私が答えなければならないのは、忘れるか、忘れないかの二択だ。
「もちろん、どちらを選んでも、今後キミに害が及ぶことはない。事情を知った場合、無関係な人間に口外しないという条件は付くが」
そこまで告げてから、佐金さんは、間を区切るように咳払いをした。
「対応が後手にまわったせいで、危険な目に遭わせてしまい、すまなかった。本来なら、返答までの時間を与えてあげたいところなのだが……こちらの都合上、そういう訳にもいかないんだ。今、この場でどうするかを決めてもらいたい」
申し訳なさそうに、佐金さんが頭を下げる。
彼女が謝る必要はない。悪いのは、白い化け物……魔獣なのだ。
私は、冷めたお茶に視線を落とした。
今は平気だ。けれど、家に帰ってひとりになったら?
これから先、夜道を歩いたら?
襲われた路地を通ったら?
……きっと、何かの拍子であの恐怖を思い出す。トラウマになる。
それは、一生消えない傷になるかもしれない。
なら、答えは決まっている。
「……決めました。佐金さん、私は――」
◆◆◆
ビルの玄関まで佐金さんに見送ってもらい、私は外へ出た。冷えた風が顔に当たり、思わず身震いしてしまう。
「おつかれ~、家まで送ってくよん。女の子を送り届けるまでが、あたしのオシゴトだからね!」
ひらひらと手を振りながら近づいてきたのは、桜山さんだ。深夜で気温も下がっているというのに、学校にいた時と変わらず短いスカートを履いたまま。私を待っていたようで、その間に飲んでいたのか、缶コーヒーを手にしている。砂糖がたっぷり入った甘いやつだ。
「……そうなんだ」
ぶっきらぼうに言って、歩き出す。
「そうなんです」と微笑んだ桜山さんが、隣に並んだ。
「タマちゃんから聞いたよ。今日のこと、忘れろビームしてもらわなかったんだって?」
「……うん」
「シノノメさんはすごいなぁ。もしあたしが逆だったら、絶対忘れろビームしてもらうよ。だって怖いもん」
「…………」
「あ、でもでも、あたしバカだから、ビームされなくてもそのうち忘れちゃうかも。あはは」
「……ねえ」
「ん? どしたん?」
「桜山さんって処女なの?」
ぶほっ、と。
桜山さんが盛大に飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「な、ななななな……」
そして、夜道でもはっきり分かるくらい、顔を真っ赤にした。
「佐金さん言ってたよ。あの武器を使えるのは、経験の無い女の子だけだって」
記憶封印措置を断った私は、佐金さんからざっくりとした事情を聞いていた。
桜山さんが胸元から取り出したカード。あれには「魔装具」と呼ばれる特別な力を持った武器が封印されているらしい。
それを取り出し、使えるようにするためには、純潔な乙女の口づけ――すなわち、処女のキスが必要なのだと。
そして、魔装具を操る少女が「魔女」。
魔獣と呼ばれる白い化け物たちは、魔女を食らって、その力を自分のものにするために、異世界から現れ、処女を狙って襲っている――それが、私が巻き込まれた事件の概要だった。
「え、や、あたしがバージンとか、その……そんなわけ……」
口元に付いたコーヒーをぬぐうことも忘れ、経験豊富そうに見える金髪ギャルがわたわたと慌てる。この様子では、男を手玉に取ることなど無理だろう。
「…………かわいい」
「んん!? 今なんて?」
「何でもない。それよりも――」
私は歩みを早める。桜山さんに背中を向けながら、尋ねた。
「どうして、桜山さんは魔女になったの?」
私を助けてくれたの? ……とは訊かなかった。あの笑顔を見れば、彼女が困っている人に手を差し伸べられる優しい人だと、分かるから。
「んー、大した理由じゃないよ?」
言い淀むことなく、桜山さんは続ける。
「あたしも、シノノメさんみたいにマジュウに襲われて……助けられたの。あたしのお姉ちゃんに」
「お姉さんも魔女だったの?」
「そうっぽい。でも、あたしを助けた時にお姉ちゃんは大ケガしちゃって……今もまだ入院してる。だから、あたしが代わりにやらなきゃって」
重い過去を語る彼女の声色は、学校でギャル友達と雑談していた時と同じ、軽いままだ。
「タマちゃんは『キミのせいじゃない。責任を理由に戦うことはない』って言ってくれたけどね。でも、あたしは才能あったみたいで、カードいっぱい使えるし。お金ももらえるし、いっせきにちょー、みたいな?」
たたっ、と軽やかに駆けた桜山さんが、私を追い越して前に立つ。
「それに、かっこいーじゃん! 正義のヒーローみたいでさ!」
ぶんぶん腕を振り回しながら、笑う。
制服の袖からちらりと覗いた腕には、包帯が巻かれている。あれは、援交相手に暴力を振るわれたのではなく――きっと、誰かを助けるために負った傷なのだろう。
すごいなぁ、はこっちのセリフだ。
私は、恐怖を消すことよりも、彼女の眩しさを覚えていることを選んだ。
彼女が、私のために戦う姿を。
そして、彼女が私に向けた笑顔を、忘れたくなかった。
だから、たとえ怯えることになったとしても、記憶封印措置を受けたくなかった。
「桜山さん」
「なーに? シノノメさん」
私は、桜山さんに見られないよう顔を伏せながら――
「助けてくれて、ありがとう」
ずっと言い損ねていた感謝を、口にした。
「どういたしまして! シノノメさん!」
◆◆◆
「あ~ん! どうしよ~!」
「アマノ、なにかあったん?」
「さっき返された小テスト、0点だった……先生に今度の定期テストがんばらないと留年だぞって言われちゃった……」
「0点とかやばすぎない!? アマノそんなにバカだったっけ?」
「アマちゃん、授業中いっつも寝てるからじゃない?」
いつも通り、教室中に響き渡る、ギャル3人組のうるさい声。
トイレから帰ってきた私は、その傍を通り過ぎて、自分の席に座った。
「勉強しなきゃなのに、どこがわからないのかわからないよ……」
「ごめん、ウチも分からん」
「同じく」
……学生の本分を忘れて遊んでばかりいるから、そんな目に遭うのだ。自業自得だ。
私はいつも通りの愚痴を心の中で呟いて。
「……桜山さん」
カバンの中から一冊のノートを取り出し、席を立った。
「え、シノノメさん?」
私に声を掛けられたことが予想外だったのか、金髪ギャル――桜山さんは目を丸くしている。
助けられた借りを返す、というわけじゃない。
「これ、私がまとめたノート。今度のテストで出そうな範囲ピックアップしておいたから」
「……貸してくれるの?」
「うん」
正義のヒーローを支えてあげられる手段が、これくらいしかなかったから。
彼女の優しい笑顔が、曇ることがないように。
「――ありがと! リンカちゃん!」
「どういたしまして。甘乃」
私は、私に出来ることをしようと思ったのだ。
◆◆◆
余談だけど。
「甘乃さん、これ、この間の助けてもらったお礼。わたしが焼いたクッキーだ。よかったら食べて欲しい」
これは生徒会長(女性)。
「桜山先輩……わたしはチョコケーキ作ってきました……命を救われた礼には見合わないかもしれないですけど……」
これは中学からわざわざやってきた後輩女子。
「甘乃っち! 甘乃っちが助けてくれなかったらあたし死んでたよー! 感謝の気持ちを込めたあたし特製のドーナツも食べてくれよー!」
これは隣のクラスのスポーツ女子。
「わーい、みんなありがと~」
……ライバルは、とても多いようだった。