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夜狐  作者:
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後編

 いつもからかわれている相手の言葉を、すっかり信じてしまっていた。

 ヤコは来たときよりももっと急いで足を動かす。

 狸たちの言っていた二本牙というのは、猪の妖のことだ。主の水辺に来たことはないが、弱い妖を蹴散らして縄張りを広げていると聞く。狸たちは二本牙にヤコを差し出すために連れだしたのだ。

 森のなかをずっと走ってきたけれど、道はさっぱりわからなかった。

 鼻を利かせても、いろいろなにおいが混じっている。狸たちとは逆の方向へとにかく駆けたが、水鏡の泉ははたしてこの先にあるのだろうか。

 胸が苦しかった。

 息が切れているだけではなく、込みあげてくる重たいものが、喉を焼いているかのようだ。

 どうしよう。ヤコの耳でも、泉の音は拾えない。どうしよう。帰れない。鈴もなければ、戦う術もない。狸たちに見つからぬとも、ここは妖がひそむ森。弱い妖狐など容易く食われてしまう。

 ヤコは妖の気配を避けながら暗闇をすり抜け、茂みの隙間に身をすべらせる。はあはあと荒くなる呼吸に、とうとう我慢できずに嗚咽が混じった。

 母上には会えない。水辺にも、戻れない。

 主は、よろこんでいるのだろうか。狸たちの言うとおり、ヤコがいなくなって、よかったと笑うのだろうか。


「――きつね?」


 はっとしてヤコは立ち上がる。

 森のなかに、新しいにおいが混じったことに気づかなかった。泣いている場合ではない。

 獣の姿で身を低くすると、屈みこんでいるなにかと目が合う。どうやら、人の子らしい。


「どうして、泣いているの?」


 葉の向こうからヤコのことをうかがっている。身を硬くしたヤコは、その場から相手を睨み上げた。威嚇の声を精一杯上げながら様子を探る。

 すんと鼻を鳴らしても、獣臭くない。妖が人の子に化けているわけではなさそうだ。あたたかな体温と汗のにおい。それに混じって、かすかに主のにおいがした。

 ヤコは銀の目を丸めた。もう一度鼻を動かすと、やはり主のにおいがする。

 なぜ、人の子から主の気配がするのだろう。どうすればいいのか、ヤコにはまったくわからない。

 人は、妖に食われる弱いものだ。けれどもなかには、妖を蹴散らす力を持つ者もいるという。ヤコが人に会うのは、これが初めてだった。目の前の人の子が弱きものなのか、そうでないのかよくわからない。

 静かにヤコの返事を待っている、深い緑色の目。

 しばしながめてから、ヤコはすぐそばにあったシダの葉を一枚咥える。軽やかに地を蹴ってくるりと舞った。

 ヤコがシダの色の単衣をまとった童になっても、人の子は大声を上げるでもなく、わずかに目を見開いただけだった。


「おまえは、人の子だろ?」


 声が震えないように気をつけながら、ヤコはじっと相手を見つめた。

 人型で並ぶと、人の子はヤコより頭ふたつ分大きい。人の子なのに生意気だ。ヤコはこっそり顔をしかめる。

 人の子は、ヤコの問いにうなずいた。そして、樅の木みたいな瞳を細めてヤコを見つめる。


「ぼくは、リョク。母上に内緒で、薬草を探しにきたんだ」


 今度はヤコが目を見開く番だった。

 リョク。名を明かすだなんて。

 主からきつく言われているから、ヤコは自分の名を明かしたことはない。それに、明かされたこともなかった。

 自ら明かした相手でなければ、名を聞き取ることはできない。命にも等しいのだから、特別なまじないが施されているのだと、主は言っていた。

 ヤコは眉を寄せる。


「名を、明かしてはいけないんだぞ。ぬしさまが言っていた。名は大事で、己をしばる。よいと思う相手でなければ、言ってはいけないんだぞ」


 きゅっと瞳を鋭くすると、人の子――リョクはきょとんと目を丸めた。

 そして一拍の間をおいてくしゃりと破顔する。


「うん、だからぼくは名乗ったんだよ。きみだから、言ったんだ」

「わたしだから?」


 思わず首をかしげたヤコに、リョクは大きくうなずく。


「ぼくだって、嫌な妖には絶対に教えない。きみならいいと思ったの」


 ヤコだから。まっすぐとそう言うリョクに、ヤコは不思議な気持ちになった。こんなふうにヤコに向き合ってくれるのは、主だけだった。主だけだったのだ。

 それなのに、もう、主に会うことはできないかもしれない。あの心地よい水辺から、ヤコは自ら飛び出してきてしまった。お気に入りの着物も、主の鈴も、ぜんぶ置いて。

 ぽろりと涙がこぼれた。

 白い頬を伝っていくそれを、ヤコはぐいとぬぐう。


「ヤコ」


 かすれた声で、ヤコは紡いだ。

 初めてヤコを受け入れてくれた、この不思議な相手に、どうにかして応えたかった。


「ヤコ。わたしは、ヤコ」


 嗚咽混じりの上ずった声にも、リョクは笑わない。うん、とうなずいて、次から次へとこぼれる涙を丁寧に拭ってくれた。






 リョクがヤコの手を取る。びっくりするくらい、それはあたたかかった。


「ヤコ、泉を探そう。ふたりならきっと見つかる」


 しゃくりあげながら今までのことを話すと、リョクはそう言ってほほえむ。

 聞けばリョクも、ひとりで森に入ったのは初めてなのだとか。満月の晩に花をつけるという薬草があると聞いて、こっそりと忍び込んだと笑っていた。

 森のすぐ外にある、人間の暮らす村。

 そこにリョクの家があって、母上から秘術を教わっているらしい。薬を煎じ、病を治し、まじないを施す。主と同じでヤコは驚いた。

 人に妖力はないが、まれに不思議な力を持つ者がいるそうだ。リョクの家は代々その力が受け継がれている。だからその力を持って生まれたリョクは、秘術師になることが決まっている。リョクはヤコにそう説明して困ったように笑った。

 日が暮れた森は一層闇を濃くして惑わすが、どういうわけかリョクに手をひかれていると、道が勝手に目の前に現れる。すると、ヤコの耳が水の音を拾った。


「泉だ」


 シダの岩肌の先に、ちいさな泉。まちがいない。水辺へと続く入口だ。

 ヤコとリョクは顔を見合わせてからうなずく。手をつないだまま一緒に駆ければ、もう泉は目の前である。

 けれども、ヤコは急いでリョクの手を引っ張った。驚いてヤコを振り返ったリョクのことを見もしないで、ヤコは反対側の木陰を見すえる。


「リョク」


 獣の、におい。きししと笑うかすかな声に、ヤコの耳がぴくりと跳ねる。緊張に声が震えた。

 急いでリョクの手を引いて駆けたけれど、大きな地響きが迫るほうがうんと早かった。

 どん! とヤコは力いっぱいリョクの背を押した。たたらを踏んだリョクがシダの岩肌の前に転がったときには、強い衝撃がヤコを襲う。激しく地面に打ちつけられて、声にならない悲鳴が喉をつく。


「ヤコ!」


 駆け寄って膝をついたリョクに、来てはだめだと言わなければならないのに。

 吐き気がするほどの痛みに、視界が霞んだ。


「ふん、手間取らせやがって」


 地を這う野太い声が、吐き捨てるように言った。ヤコはなんとか体を起こして牙をむく。低いうなり声が喉を震わす。

 大きな猪は、二本ずつある牙を噛みあわせてヤコを見ると、大きな鼻でふん笑う。素早く横に並んだ狸たちを振り返った。


「簡単に逃げられるとは、この阿呆狸めが。足りない頭でも三匹いるのだから、見張りを立てればよいものを……ほんに阿呆で使えぬわ」


 耳をたらした狸の顔がみっつ。赤い紋を同じようにゆがませ、媚びるように目尻を下げた。


「二本牙の旦那ぁ、そう言わんでくだされ」

「おいらたち、ちぃっとうっかりしちまっただけで」


 ヤコとリョクを取り囲んだ三狸は、きししと笑ってすっかりいつもの調子である。


「ほら、しかと見つけたではありませぬか。それに人の子まで一緒とは、これで腹もふくれましょう」


 痛みとふらつく体を叱咤して、ヤコはリョクを隠すように前に出た。リョクのほうが大きかろうが、関係ない。ヤコは弱くても妖だ。こんなときに妖術を使わなくてどうする。


「ヤコ!」


 指で印を結ぶと、腕がひどく痛んだ。リョクが慌ててヤコの前に出ようと踏み込んだが、強く首を振って留める。

 折り重なるように身を寄せたふたり。じりじりと近づく妖たちは、勝ちを確信していやらしく笑っている。

 息を大きく吸うと、ピンと張りつめた空気が肌を刺す。リョクが剣印を構えたのが気配で伝わり、またいっそう空気が鋭さをおびる。りん、と鈴が鳴った。

 はっと息をのんだのは、ヤコだったか、妖たちだったか。


「なっ! おい、鈴は外せと言っただろう!」


 目を見開いた二本牙が狸を罵る。慌てた三狸はおどおどと顔を見合わせた。


「お、おいらたち、言われたとおりにしたぞ?」

「なんで鈴の音がするんだ?」


 ヤコの鈴は着物と一緒に水辺だ。あれひとつしか持っていない。

 ヤコはくんと鼻を動かす。たしかに、リョクから感じた主の気配。すると、それは鈴からしていたのか。リョクが、主の鈴を持っているということか。


「くそぅ! 獲物を目の前にして食えぬのか! 阿呆狸どもめがっ!」

「だ、旦那。わしらはたしかに鈴を外させたんでさあ。でなければ、こいつは水辺を出れなかったはずで」


 必死な狸の声に、ヤコは周囲を探る。言い争うのなら、隙ができるはずだ。いつでも駆けだせるよう、ヤコはそっとリョクの手を取った。

 リョクが主の鈴を持っているのなら、妖は手出しできない。そのはずだ。

 けれども、狸たちはちらちらとこちらをうかがう。


「駆けてくるとき、鈴の音なんてしなかった。そうだろう?」

「そうだそうだ。……それに、旦那。ここまできて逃すのももったいない」


 にたりと、赤い紋をゆがませて笑う狸は、ヤコたちをなめるようにながめてから、猪を得意げに見上げた。


「椎まで来たとき、たしかに鈴はなかったのだから、さっき食ったことにすればよいではないですか」

「おお、そうだそうだ。たしかに、鈴はなかったはずじゃ。旦那、そうしましょう」


 鈴が、あるのに。

 主までもを騙そうとする狸に、ヤコの体はカッと熱くなった。それが怒りからくるものだと自覚する前に、リョクがヤコの手をぎゅっと握り返してくれる。

 ヤコはゆっくりと息を吐き出した。気を乱しては、相手の思うつぼだ。


「……ふむ、それもそうだ。食ってしまえば、わからぬからな」


 猪は少しの間考えを巡らせて、それから自慢の牙をねっとりと舐める。狸は手を叩いて喜んだ。


「きしし! そうこなくちゃ。旦那、おいらたちにも少し分けてくだせえよ。指一本でもかまいませんで」

「それに、うまくいったのだから、約束をまもってくだされ」

「旦那旦那、椎の小路はおいらたちの縄張りじゃ」

「ええい、うるさい。わかっておるわ」


 かわるがわる言い寄る狸は、飛んだり跳ねたり忙しい。

 わずらわしいと猪が睨みつけたのに、ヤコは今だと駆けた。視線が外れた瞬間に地を蹴って、リョクもそれに遅れずに並ぶ。


「弱狐っ」


 気づくのに、一拍の間があった。

 出遅れた妖は、それでも二度も逃がすまいと追う。くやしいことに、獣型のほうが足は速い。ヤコはリョクの手を強く握った。この手を離したくない。変化を解いてヤコだけが逃げるなんてしたくなかった。

 四肢で駆けた狸がヤコの背に飛んだ、そのとき。

 さっと闇を切り裂いたものが、狸の行く手をはばむ。

 矢のごとく現れたそれに、ヤコもリョクも思わず振り返った。

 白い、紙でできた人形。

 ふわりと宙に留まると、カッと目にまぶしい光が弾けた。ぎゃあああ! 狸の悲鳴が上がる。

 強い光に思わず目をそむけたヤコが視線を戻すと、目を抑えて転げる狸の上で、人形が細かく破れて散っていく。白い花弁がはらはらと落ちていくように見え、ヤコははっと息をのんだ。


「――やめよ」


 響いたのは、聞き慣れた不思議な声色。

 ヤコの胸がぎゅっと潰れるように痛んだ。熱いものが込みあげてきて言葉にならない。リョクが緊張に肩を震わせたのを感じながら、ヤコは自分の前に立ちふさがった黒い着物を信じられない気持ちで見つめた。

 森の暗闇に羽織を溶かして、主は殺気立った妖たちへひたりと視線を向ける。


「そこな猪。それに狸。この森の掟を破るのなら、容赦はせぬぞ」

「白の君!」


 森の主は、低く言うと三狸と猪を順に見やった。ヤコの聞いたことのないくらい、強く、低い声。思わずヤコは身震いした。

 慌てた猪は一歩踏み出し、大きくがなる。


「おれは知らぬ! こいつらが勝手にやったのだ!」

「なっ! 旦那が言い出したことじゃろう!」


 ガチガチと牙を鳴らす猪に、今度は狸が黙っていない。今まで媚びへつらっていたことも忘れ、そろって猪を取り囲んだ。


「わしらの棲家を奪うと言うから、しかたなく従ったのだぞ!」

「椎の木はおいらたちのものだったのに!」

「小路まで取りあげられたら、棲むところがなくなっちまう!」


 猪はふんと鼻を鳴らす。鋭い爪をいらいらと地面にぶつけて、めくりあがった土が狸たちに飛んでいく。


「なにを言う! おまえらが妖狐の妖力を欲していたのはしかと聞いたぞ! 主、阿呆な狸の戯言を信じますな!」

「黙らぬか」


 一喝した言葉は、ひどく落ち着いた短いものだった。

 主の一言に、誰もが言葉をのみこむ。白い布面がおおう顔からは、その表情は読み取れない。けれども、肌で主の怒りを感じる。痛いくらいに澄み渡ってしまった空気。そのなかで、ゆっくりと主の唇が動く。


「この森で鈴の音に逆らうことは許さぬ。それはよく知っておろう」


 びくりと妖が震えた。主は面の向こうの瞳で彼らをとらえ、容赦なく続ける。


「私が諌めるのはこれで何度目じゃ。 おまえたちに、忠告は届かぬとようわかった。――もう、おさがり」

「し、白の君!」


 必死にすがる声にも、主はまったく取り合わなかった。

 白い指で印を結び、慌てふためく妖たちの動きを封じる。足元に、紋が浮かび上がった。

 後生ですから! 白の君……! 叫び声もなにもかもを封じて、主は朗々と祝詞を唱える。

 カッと白い光が弾けた。人形とは比べものにならない、まばゆい光。

 不思議な声色が闇に溶けきったとき、四つの光の玉が空へと消えていった。






 妖の涙が星にまぎれてしまうと、主はヤコの目をまっすぐと覗き込んだ。

 森はすっかりと静けさを取り戻している。妖の気配も鳴りを潜め、忙しなく動く胸の音が聞こえそうなほど、静まり返ってしまった。

 リョクの手を握ったまま固まっているヤコに、主はゆっくりと口を開く。


「ヤコ」


 主は、ちいさなヤコを見下ろす。

 主の長い髪を月が照らして、うつくしく染めた。きれいで、いつもならため息がこぼれるのに。今のヤコには、身をすくめてたたずむことしかできない。

 うつむきたくなる頭を必死に持ち上げて、主の言葉を待った。


「ヤコ。おまえはまだひ弱なのだから、鈴を離してはならぬと言ったであろう。まして、水辺から出るなど」


 ヤコの視界がぼんやりとゆがむ。目の奥も、喉も、胸も、痛くて痛くてたまらなかった。

 ひく、としゃくりあげるのを堪えながら、ヤコはどうにか口を開く。


「ぬしさま、怒ってる……? ヤコも、妖の涙にならねばなりませぬか」

「ヤコ」

「ご、ごめんなさい。ヤコは、もっと強くなります。たくさん修行もします。へ、変化も、できるようになります。だ、だから、だから、おそばにおいてください」


 主に、ヤコは必死に言葉をつなげた。息をするのもやっとなくらい、みっともなく声が震える。ぽろぽろと頬を涙が転げ落ちていくが、拭っている暇もない。


「ぬしさまは、ヤ、ヤコがいないほうがうれしいのだと、みんな、言っています。やはり、ヤコは、出ていかねばなりませぬか」


 ふうとため息がこぼれた。主のこぼしたそれに、ヤコの肩がびくりと跳ねる。

 そんなヤコを、主は静かに見つめた。


「ヤコ。どうしてみなの言葉に耳をかたむけるのに、私にはそうしてくれぬのだ。私は一度でも、おまえに去れと、言ったことがあったか?」

「ぬ、ぬしさま」


 主はやんわりと首を振る。


「……怒ってはおらぬし、命もとらぬ。だが、ヤコ。次はないぞ」

「は、はい」


 ぐいとヤコが目を拭うと、ずっと黙っていたリョクが握ったままだった手をくいと引いた。ヤコの顔を覗き込んでほほえむ。


「ヤコ。この人はね、怒っているんじゃないんだよ。ヤコのことを心配しているんだよ」

「しんぱい?」


 顔をあげたヤコに、リョクは大きくうなずく。


「そう。いなくなったら困るし、悲しいってこと」


 だから、泣かなくても大丈夫。

 リョクの言葉に、ヤコの耳はぴんと上を向く。思わず振り返ったヤコに、主はわずかに眉を動かしたが、結局口をつぐんでしまった。

 リョクが主を見上げる。


「思っていても言葉にしないことは、思っていないのと一緒になることがあるんだよ。母上が言っていた。だからきちんと、大事なことは言葉で伝えなさいってね。ヤコは、まだちいさいからなおのことだよ。それに、とってもさみしがり屋だ」


 くすりと笑ったリョクに、ヤコの頬は赤くなった。そこに落ちたのは、やわらかなため息。

 ふたりが見上げた主は、赤い唇できれいな弧をえがく。


「ほんに、ちいさな人の子には困らされると決まっているらしい」


 呟くと、主はまっすぐとリョクを見た。


「礼を言おう。よく、ヤコを助けくれた。おまえの鈴がなければ、ヤコを失った挙句、あの困り者たちを懲らしめることもできなかっただろう。おまえの母は気が利くのう」


 くつくつ喉の奥で笑った主に、リョクは首をかしげた。


「猪たちも言っていたけれど、鈴ってなんのこと?」

「おや、自分の身に着けたものを知らぬのか。首に下げているだろう」


 驚いたリョクは、襟から手を入れてなにかを引っ張り出す。紺に染めた紐の先には、守り袋があった。

 リョクの指が結び目を解くと、銀色の鈴が手のひらに転がる。


「母上が、いつも持っていなさいと。……鈴だったのか」

「それは必要なときにしか鳴らぬ。おまえが妖に会うのは、今宵が初めてだろう? 気づかぬのも無理はない」


 楽しげな主は、ひとしきり笑ってから視線を森の奥へと向けた。じっとながめて、笑みを困ったものに変える。


「……さあ、夜も更けた。私がヤコを案じたのと同じく、おまえの母も帰りを待っておろう。鈴をしまって、早うお帰り」


 ちりん、とリョクの鈴が鳴る。

 主の言葉にうなずいて、リョクは鈴を着物に戻した。鈴があれば、無事に村へと帰れる。


「ヤコ、よかったね」


 ほっとしたヤコの頭をなでたリョクに、ヤコは目を丸めた。

 よかったのは、ヤコじゃなくてリョクだ。ヤコのせいで妖たちの争いに巻き込まれ、危うく食べられてしまうところだった。ようやく家に帰ることができるのだから。

 ヤコの胸は忙しい。あたたかくなったり、ぎゅっとしたり、熱いものが込みあげてきたり。うまく言い表せずに、ヤコはリョクの着物をつかんだ。


「……リョク」


 ありがとうと言いたいけれど、口から出てこない。言ってしまったら、リョクはいなくなってしまう。

 どうすればいいのだろう。こんなとき、言える言葉をヤコはまだ知らない。

 すると、主がヤコの背をぽんと叩いた。


「ヤコ、これで終いではない。安心いたせ」

「ぬしさま」


 驚くヤコをなでて、主はリョクにほほえんだ。


「おまえの母がよいと言うなら、泉の先まで訪ねておいで。鈴を忘れるでないぞ。――それまで、よく励め」

「はい」


 それだけで、リョクはすべてを心得たようだった。

 うなずき、踵を返す。

 木々を避けて軽やかに駆ける背中に向かって、ヤコは大きな声をあげた。


「リョク、ありがとう!」


 言葉にしなければ、思っていないのと同じ。

 さっきのリョクの言葉に背を押され、ヤコは大きく大きくそう言った。


「会いにゆくよ! ヤコ、きっとだ。すぐにまた会える!」


 夜にまぎれてゆく、リョクの声にヤコも負けじと張りあげる。


「リョク、待ってる! ぬしさまと、待ってる!」


 約束だ。ヤコ、忘れないで! 森に響くかすかな声を、ヤコの耳は必死に拾った。

 また会える。約束だ。リョクとヤコの約束。ヤコが初めて交わした、約束。

 どんどんちいさくなっていく足音が消えてしまっても、ヤコはずっと見えない背中を見送った。

 ほんに、あっという間に叶いそうじゃ。

 楽しげな主の声に、ようやくヤコは振り返る。すると、やさしい手がヤコの頬をなでた。擦りむいた肌を労わるその手に、ヤコは思わずほうと息をこぼす。一度、離してしまった主の手。


「おまえも負けぬよう、励まねばなあ」


 ちいさいちいさいと思っていたが、おまえも大きくなっているのだねえ。ほほえむ主は、ぎゅっとヤコの手を取った。

 帰るぞと、泉を示す主にヤコはうなずいて握り返した。帰ってよいことが、延べられた主の手が、うれしくてうれしくてたまらなかった。

 泉を抜けて、霧の道を進めば、その先は主の水辺。

 ヤコはようやく肩から力が抜けていくのを感じた。水辺は何事もなかった顔で、水をたたえ、木々を潤す。

 リョクが来たら、ヤコは水辺を案内しよう。蛙や猿たちがリョクをからかわぬよう、こらしめてやらねば。

 木の幹が吸い上げる水の音や、シダの葉と風の合唱も聞いて、毎朝咲き誇る白い花をながめて。

 リョクの話も聞かせてもらおう。村のこと、秘術のこと、母上のこと。あとは、どうしよう。


 会うまでに、考えることはたくさんありそうだ。ヤコは弾む胸をぎゅうと抱える。

 主と一緒に考えるのもいいかもしれない。つないだ手を見上げ、ヤコは頬をゆるめることがやめられなかった。主もそれに笑みを返してくれるので、ますますヤコはたまらない。

 主とふたりで、会える日まで指折り数えよう。大事に大事に数えていよう。

 次に会う、そのときまで。


以前載せていたものの再掲です。

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