前編
ヤコはぴくりと耳を動かす。
さらさらと流れる水に、蛙が飛び込んで水しぶきがあがった。小魚の群れを、大きな口を開けて追っている。背中に描かれた青い紋が、ぼんやりと流れのなかをすべっていく。
シダの葉をかきわけていたヤコは、水際に駆け寄ってその様子をながめた。澄んだ水面に、大きな耳のついた童の顔が映る。
ゆらりゆらりとゆがむ影の向こうに、岩についた苔や小魚の群れがあって、ヤコは鼻先がつきそうなほど顔を近づけてみた。ひんやりした水の冷たさが頬をなでる。
まだ陽の高い森は、木漏れ日と一緒に光の玉が踊る。手のひらほどの大きさの光は、ちらちらと輝きながら森の灯りとなっている。
まるで、光の木の実だ。たわわに灯りがともる。それが死んだ妖の涙だとヤコをからかったのは、件の蛙だったか、夕暮れに現れる鴉だったか。
水際にしゃがんでいたヤコは、蛙の姿が見えなくなると着物の袂をたくしあげた。澄んだ水はきらきらと光ってきれいだ。裾も結んでからおそるおそる足を出し、ゆっくりと水にひたす。
すると、冷たいと思う間もなく、ぐいと引かれてドボンと落ちた。
透明な水のなかに真っ白な泡。慌てて体を起こし顔を出す。
驚きながらむせるヤコに、岩の上で蛙がげらげら笑った。ぎょろりとでかい目。顔の半分まで裂けるように大きな口。悪戯ばかりする妖である。
「とろくせぇ子狐め。おれがもう少しでかかったら、おまえもまるっと食ってやるのに」
胸まで水につかりながら、ヤコはむっと顔をしかめた。
「おまえになんて、食われるものか」
「弱っちい妖狐がなに言ってんだよ。おまえを食らう妖なんて、木の葉の数より多かろう」
けけけ。喉を膨らませて笑う蛙に、ヤコは銀の瞳をぎゅっとした。ヤコはこの蛙にさえ敵わない。自分にまともな妖術が使えないことはよくわかっていた。それでも言われっぱなしではいれない。
「これ、蛙」
ヤコがとがらせた唇を開く前に、不思議な声色が響いた。
大きな大きな木の根元にある洞窟から、黒い影がのぞいている。
「げ」
この水辺の主に、蛙は慌てて水のなかへと逃げてゆく。すうっと遠くなる影に、ヤコはほっと息をついた。帯につけた鈴がちりんとゆれる。
「ぬしさま」
「ヤコ。早うおあがり。そのままでは水になってしまうぞ」
黒い着物をさらりと揺らし、腕を組む主の顔は布面のせいでうかがえない。
けれども唯一のぞく口元が弧を描いているので、ヤコは急いで岸辺に向かって底を蹴った。
ぺったりと張りつく着物は重たくて、よいしょと力を入れてもうまくあがれない。岸にはいつくばるヤコに、主は白い手を差し込んでひょいと抱える。ザバァと水が落ちた。
「ぬしさま、着物がぬれてしまいます!」
片腕に乗せるかたちで抱き上げたのに、ヤコは慌てて口を開いた。
したたる水は容赦なく主の着物をぬらす。腕や着物をつたって、茂る緑までとととっと雫が落ちた。すると唇が楽しげに声を紡ぐ。
「おやおや。私よりもずぶぬれな子狐に、着物の心配をされるとは。ほんに、おまえはおもしろい」
主は、鈴を転がすように笑った。それにヤコの頬は勝手に赤くなってしまう。
主がうれしいと、ヤコもうれしい。楽しそうだと、ヤコもうれしい。へたっていた耳がぴんと上を向いた。それに主は歌うように言葉を続ける。
「ぬれたならば、乾かすとしよう。おまえの尾も、耳も、もとに戻してやらねばなあ。さあ、火のそばはおまえには危ない。気をゆるめるでないぞ」
「は、はい」
木の根が作る洞窟に、妖の涙がきらきらと輝く。その先にあるのが、主とヤコの棲家である。
深宵と呼ばれる森の、奥の奥。大きな木々が生え、下草と苔が覆う水辺に妖はいた。人間たちはたどり着けない、妖の森。
黒い着物に白い布面を着けた主は、かつてこのあたりの妖を根絶やしたと言われている強い妖だ。今ではひっそりとこの森に棲んで、妖たちを見守っている。
親なしの妖狐を拾ったとき、妖たちは主の気まぐれに驚いたものだ。まだ歩くことさえままならない、弱い妖狐。
ヤコと名付けて手元に置いて、もう何年経っただろう。命の尽きない妖たちは、年など数えることはない。ゆるやかに流れる時間を気ままにすごす日々。
妖たちにちょっかいを出され、見守られ、ときには食べられそうになりながら、ヤコは少しずつ大きくなった。主の手のひらに納まるほどが、今では人の童ほど。ずいぶん大きくなった気がする。けれども、主と並ぶとその膝小僧に届くまでである。早く大きくなりたいものだと、ヤコは常々思っている。
主は手ぬぐいを出すと、ヤコの髪を耳ごと包む。端を折り込んで止めると、ぬれた着物を脱ぐように言った。
ヤコのちいさな手が帯を解いている間に、箪笥からあたらしい着物を取り出す。主が刺繍をさしてくれた若草色の着物だ。ヤコはそれが大好きだった。
ぬれた銀の髪と、白い耳、べしょべしょになった尻尾を、主が丁寧に拭ってくれる。手ぬぐいが水分を含んで重くなるにつれて、耳や尻尾がふわふわと手触りよくなっていく。
ヤコは主に毛並みを褒められると誇らしくなるから、毎朝毎晩、よぉく櫛を入れて整える。蛙のせいでくったりしてしまった毛並みは、主の手で元に戻ってヤコはうれしくなった。
「水浴びをしたと思えばよい。いずれおまえが蛙をおどかすようになろう」
主の手が、ぽんとヤコの頭をなでる。冷たくて大きな手に、ヤコの瞼は勝手にさがる。
思わずうとうととしてしまったヤコは、くすりとこぼれた主の笑みにはっと目を見開いた。いけないいけない、寝てしまうところだった。
こしこしと瞼をこすって、ヤコは主の膝から体を起こした。
「鈴は持ったか」
主の声に、ヤコはぱっと帯に手をあてた。丸くて、ヤコの瞳と同じ銀色。
着替えをしても、しっかりと帯に結びつけた鈴は、いつから身に着けるようになったのか覚えていない。言葉を覚えるよりも前から、きっと主がヤコに持たせたのだろう。
触りなれた丸いそれに、ヤコはうなずく。肌身離さず持っているよう、言い含められている鈴。たまにしか音が鳴らない不思議なそれは、この妖の森で主の加護があるといわれているのだ。
「しかと、持ちました。――おもてにおります」
「慌てると転がってしまうぞ」
駆けたヤコを、主の笑い声が見送った。楽しげな色に、ヤコは弾む気持ちをぎゅっと抱きしめて、木の根の洞窟を通り抜けるのだった。
***
ちいさな妖であるヤコは、主のまねごとをして日々過ごす。
主は妖力を込めた薬を作り、ヤコの飯になるだんごをこしらえる以外は、水辺でのんびりとしている。森の外を出歩く妖たちから話を聞き、困りごとがあれば助言をする。気が向かないと放っておく。
それでも森の妖たちは主に一目をおいて慕っているように見えた。
ヤコは早く主のような立派な妖になりたくて、妖術を使う練習を毎日していた。
水辺に戻ったヤコは、大きな木の根元に腰かける。ひんやりした空気と、水を含んだ苔の湿気を肌で感じる。苔むした幹からちょんと出ていた葉をもいで、ヤコはそれを口にくわえた。短い指で印を結んで、ふっと額に力をこめる。
どろんと舞ったもやが消えるまで待つと、ヤコはぴょんぴょんと水辺へ急いだ。
澄んだ水面に、緑色のちいさな蛙がいる。ヤコが前のめりになると、蛙も同じようにした。やった! うまくいった!
「ぎゃはは! おい、弱狐ェ。おめェそれで蛙のつもりか!」
枝に尾でぶらさがった猿面が、腹を抱えてぶらぶらゆれる。
さっきまでいなかったくせに。嫌なやつに見られてしまった。この猿面は揚げ足を取っては大騒ぎするのである。ヤコは蛙の頬をふくらませた。
「どこからどう見ても、かえるじゃないか」
「ぎゃはは! 耳もそのままで、よく言うなァ! それで蛙か、ぎゃはは!」
はっとして水面をもう一度のぞくと、緑色の蛙の面に、ぴくぴくと動く三角の耳。
ヤコはうっと言葉に詰まる。
「できそこないの弱狐ェ。小物に変化もできぬとは、親に捨てられるのも当然じゃァ!」
どくりとヤコの胸が跳ねた。水かきのついた手をぐっと握る。
耳障りな声は愉快愉快と歌うように弾んでゆく。
「ちいさな狐ェ、弱狐ェ。お荷物狐ェ、弱狐ェ。ほんに主も大変だなァ! こんな狐の面倒を見るなんてなァ!」
ぎゃははと猿の声が水辺にこだまする。枝と枝を伝って遠ざかっていく音と、嫌な笑い声がすっかり消えるまで、ヤコはじっと水面を見つめて動けなかった。
できそこないの妖狐。妖たちはヤコのことをそう言う。主は気にすることはないと頭をなでてくれるが、そのやさしさがうれしくも、ヤコの胃をぎゅっと重くすることがある。主はこの界隈では一番の力を持った妖なのに、自分はこんなに弱くて出来が悪いのか。
ヤコはどろんと人型に戻った。若草色の着物をまとった童に、狐の耳と尾がついた姿だ。この姿になら、物心ついたころから変化できる。しかし、それはほとんどの妖であたりまえのこと。
薬を煎じることもできなければ、他の姿を取ることも満足にできない。主の鈴がなければすぐさまほかの妖に食われてしまうくらい、弱い弱い妖狐。
さっき主になでられて幸せな気持ちだったのが嘘みたいに、ヤコは真っ黒でよどんだものが自分のなかでいっぱいになっていくのを感じた。
どうしたら、主に恥じない妖になれるのだろう。いくら考えてもヤコにはわからない。主に聞いたところで、あの不思議な響きを持つ声でそのままでよいと言ってくれるだけ。
ヤコは、嫌だ。このままだなんて、嫌だ。ヤコを置いていったという母狐のように、主もそのうち捨てるだろうか。
どろどろで重たい気持ちを抱えたまま、ヤコは木陰の灯りをながめる。
妖の涙。
白くてまろい光はふわりと森を灯している。ヤコも命が尽きればあれのひとつになるのか。そのときはすぐ訪れる気もして、よけいにヤコの体は重たくなっていく。
「おい、狐。弱狐」
うつむいていたヤコを、呼ばう声。ぴんと張った耳がその出処を正しく伝える。
対岸のシダの茂みから顔を出したのは、赤い紋をもつ狸である。手招きする狸に、ヤコはいぶかしげに眉を寄せた。
この狸にも、毎回からかわれてしまうのだ。意地悪でお調子者の狸は、三人兄弟でそろってヤコを恰好の獲物とする。
警戒心からその場に縫いつけられているヤコを、狸は早く来いとしつこく手招いた。ヤコは渋々と岸を回って駆け寄る。
「遅えんだよ、チビ狐!」
茂みにいた狸が舌打ちをすると、その後ろにまったく同じ顔が増えた。
「相変わらず弱っちい面してるなあ」
「きしし! 赤ん坊のおまえなんて、おいらたちに敵いっこないからなあ」
にたりと赤い紋をゆがめて笑う顔がみっつになる。三兄弟はそっくりな顔を並べてヤコを見下ろした。背丈も顔も紋も、まったく同じ三狸。ヤコにはどれが誰だか見分けがつかない。
ひとりがずいと一歩出て、なめるように視線を浴びせる。
「よく白の君が捨てずにおくものよ。それにすがる親なしの子狐め、なんとも浅ましいのう」
「白の君の気まぐれにも困ったものじゃ。こんな能なし、早う食ってしまえばいいものを」
「さすれば、わしらを可愛がってくれるかもしれぬなあ」
きしし! 三狸はそろって腹を抱えた。
ヤコは睨みつけながら、ほんのわずか、後ろへさがる。こんなことを聞かされるために呼ばれたのならたまらない。隙を見て逃げよう。
しかし、そんなヤコの考えは狸たちにも予想できたのだろう。さっと行く手をはばむように取り囲まれてしまった。
「まだ話は終わってねえんだ」
「そうだぞ、弱狐。おまえに、いいことを教えてやるぞ。主も褒めてくれるだろう」
「そうだそうだ。――おまえの親を見つけてやったぞ」
えっ! ヤコは逃げることなど忘れて顔をあげる。三狸はそろってしかりしかりと笑った。
一度も顔を見たこともない、ヤコの母上。生まれたヤコを置いて、この森から出て行ったのだと主は言っていた。
目を見開いたヤコに、ひとりの狸が指をさす。
「水辺の外じゃ。森のすぐそこまで、おまえを迎えに来ておるぞ」
「ほんとうに?」
期待に声が上ずった。一歩踏み出したヤコに、三狸はきししと笑う。
「わざわざ呼びに来てやったのだから、うんと感謝しろよ?」
「おまえがここからいなくなれば、白の君も清々するじゃろ。おまえは親に会え、主も喜び、わしらは褒美をもらえる。どうだ、みなが得をする話じゃ」
「早う、来い。おいらたちの気が変わらんうちにな」
ヤコはもう、今すぐにでも水辺を駆けていきたかった。
大きくうなずく。母上に会える。そうすれば、きっとこんな黒いなにかを体に溜めることもなければ、妖たちにからかわれることもない。
なによりヤコは、母というものに会いたかった。会って、その毛並みに鼻先をうずめ、あたたかさにほっとしながらぐっすりと眠ってみたかった。
ひとりの狸がさっと茂みの先へ踵を返した。真ん中のひとりが、ついていこうとするヤコを振り返って鼻を鳴らす。
「人型は遅い。遅れを取りたくないなら、変化を早う解け」
――ヤコ。
主の不思議な声が自分の名を紡ぎ、冷たい手が頬をなでるのを思い出してヤコはぎゅっと着物を握る。
主は、よろこぶのか。それなら、ヤコもうれしい。そう、うれしいはずなのだ。
なぜか体の奥が痛んで息が詰まった。けれども、すぐにヤコは頭を振って地を蹴った。どろんともやが舞い、四肢で着地したちいさな狐は狸の背を追う。
その場に落ちた着物から、ちりんとちいさく鈴が鳴った。
***
がさがさと木々をかき分け、水際を駆け、根を飛び越え、飛び石も渡る。
苔むした岩や大きな木々を追い抜いて、ヤコは初めて水辺の先までやってきた。今まではなるべく主の近くにいたくて、棲家から離れすぎないようにしていたのだ。
気づけば、目の前に霞がかかっている。
水辺のにおいとは違う、知らない森のかおり。暗闇にただよう霧の、薄いほうへ薄いほうへと三狸は駆けていく。
見失っては戻ることも進むこともできなくなってしまいそうで、ヤコは息を切らせて必死に足を動かした。
さっと霧が晴れると、目の前にはちいさな泉があった。水辺と森とをつなぐ水鏡。澄んだ水は、主の水辺と同じ水だ。
来てしまった。
初めて踏み入れた外の世界に、ヤコはごくりと唾をのむ。しかし、立ち止まることも許さず狸は急かす。
「止まるな! もう陽が落ちる。暗くなりすぎても厄介だ」
「主以外にも、強い妖はおるからな」
「駆けろ駆けろ!」
ヤコは慌てて狸を追った。
暗い森は、土と緑のにおいにあふれていた。妖たちの気配も多い。水辺の外にも、こんなに妖がいることをヤコは初めて知った。
シダの生い茂る岩肌に沿って駆け、もっと奥へ奥へと向かう。
「は、ははうえは、どこにいる?」
はあはあと息をあげながらヤコが尋ねると、前を走るひとりがちらりと振り返って笑った。
「きしし! もっと先じゃ!」
赤い紋をゆがませて笑う狸に、ヤコはついていくほかない。
「早くしないとおいてゆかれるぞ!」
「駆けろ駆けろ!」
自分の息づかいばかりが聞こえるほど走って、もう森のどこにいるのかもわからない。
ようやく狸が足を止めたのは、幹の腐った椎の木の前だった。
枯れた葉をいくつかつけた椎は、干からびた枝を暗闇へと伸ばしている。きょろきょろと周りをうかがうヤコに、三狸はにたりと笑って根元を示した。
「よいか、ここで待っておれ。呼んできてやる」
「動くでないぞ」
ずいと踏み出して念を押す狸に、ヤコは思わずうなずいた。きししと笑いながら、狸は連なって暗闇に駆けてゆく。あっという間に見えなくなった。
ぽつんと残ったヤコは、はあはあと弾む息を整えながら耳を澄ませる。がさがさと狸が落ち葉を蹴散らしている。
もうすぐ、母上に会える。すぐにこちらへ向かってくるだろう足音を聞き逃さぬよう、ヤコは大きな耳で狸を追った。
「きしし! ほんにあいつは弱狐じゃのう!」
遠のく狸の声が、しっかりとヤコに届く。ヤコは、目を見開いた。
「簡単に騙されおって。あれの親など、いるものか」
「これで二本牙も喜ぶぞ」
なんて、言った? ヤコの胸はどくりと跳ねる。
耳にすべての気力を集めて、ちいさくなっていく声を必死にとらえる。
「わしらもちぃっと分けてもらおう。妖狐の妖力は貴重じゃからなあ」
かすかに聞こえる、いやしい声。
「どんな味がするんじゃろうなあ。楽しみじゃ」
「きしし! よだれが出るわい」
耳障りな笑いがかき消える前に、ヤコは急いで駆けだした。