どれが現実で夢?
貴方はだあれ?
幼いあたしが泣いている。
彼はあたしを抱き寄せ涙を流す。
あたしの頬に何かが当たる。
ポタポタ流れる雫があたしの頬を伝わり
囁いてくる。
『おかえり、夕月』
あなたはだあれ?
あたしは泣きじゃくりながら
朧月の中で彼を抱きしめてる。
『ゆ……き』
『ゆ………ず』
脳内がまだ痺れてる気がする。
うまく言葉が聞き取れないけれど、今までとは何かが違う感じがした。聞こえるはずのない音が、声が聞こえてくる。全身に巡って血液が沸騰する。徐々に失われていた感覚が戻ってゆく。
『ゆう……づき』
そう鼓膜が振動し、人としての機能を取り戻してゆく。目を開けて確かめたいが、少しの恐怖で心が竦む。
『だい……じょうぶ』
『ゆっく……きいて』
『もど……って』
少しずつ聞き取れるようになった気がする。
今まで洗脳されていたのだろうか?機械でしかあたしは命を保てないはずなのに、何か違和感を感じる。解放感と言うのだろうか?全身を包み込んでいた液体の存在を感じれない。気のせいではないかと思うけど、体がそれを否定してる。怖い、正直怖い。その言葉しか頭に浮かばない。ゆらりゆらりと揺れる感情。それはあたしの中で懐かしさを思い出させ、心を揺さぶる。涙など出ないはずなのに、何故か泣きたくなる。変な感じだ。まるで魂が揺さぶられて、翻弄されているみたい。温かい温もりが頬を伝って、人の手の感触を感じる。恐怖が少しずつ和らいでいく。人の温もりのおかげだろうか、目を閉じていても感じる温もりにいつの間にか安心を覚えている自分を感じている。彼の声に誘導されるように、少しずつ目を開いていく。光が瞳を刺激し、眩しく感じて、ぼやけてみえた。ゆらり揺れる人の影がはっきりと色を増し、色彩を取り戻し、彼の姿を捉える。
あたしを見つめながら、泣いてる彼がいる。
あたしは彼を見つめながら、心が痛くなる。
悲しいとかじゃなく、なんて言ったら、いいんだろう。この感情は…。よく分からないけれど、胸が締め付けられて、涙が溢れてくる。どうして泣けるの?あたしは。今までのあたしならもっと冷静に物事を見ていたはずなのに、その冷静さを感情が突き破って、暴走してゆく。こんな感情なんて知らない。誰かも分からない、ここが何処かも分からない状態でパニックを起こしているのかもしれない。
『夕月、よかった…』
あたしを夕月と呼ぶ、彼は見つめながら涙を流し続けている。知らない人のはずなのに、なんだか懐かしい気がして、安心している自分がいる。心の中にもう一人の自分が見えた気がした。彼女はあたしに向かいこう言うのだ。おかえりなさい。その言葉の意味を、今のあたしは何も理解出来ない。だけど一つ言える事は大事な何かを失っているという事位は分かる。彼の声に合わせ、もう一人のあたしが囁く。リンクする言葉は懐かしさを灯し、過去のあたしへと変えていく。気のせいかもしれないけれど、そんな気がするんだ。
『おかえりなさい』
それがあたしに向けられた言葉。
ここはどこ?
貴方はだあれ?
なんで泣いているの?
心が痛い
なんであたし泣いているの?
心の中で混乱する言葉達。錯乱する脳みそと言葉達に導かれている。大きな瞳を開けると、眩しい光が刺激する。今までとは違う自由がここにある感じがした。
『夕月、会いたかった』
そう注がれる言葉が耳を刺激して、心の奥底を刺激する。動かなかった腕が無意識に動いて、気がつくと彼を抱きしめ、わんわんと泣いている自分がいる。それが彼との出会い。今のあたしの記憶の中では、初めての感情だった。彼の存在があたしの過去に繋がっているような錯覚を覚えるのはあたしだけだろうか?今はそんな事どうだっていい。ただ彼の中で包まれて、子供に戻っているあたしを大切にしたい。今の空間を余計な言葉で壊したくない。それだけの思いで彼にしがみ付く、自分がいる。感情の震えが止まらない。どうすれば止まるのか、分からない。
『少しずつ、動かせるようになるから大丈夫』
そう寂しく微笑む彼の表情は切なさと、温もりの眼差しを感じて、あたしの心を掴んで離さない。もう離れられない錯覚に陥り、あたしがあたしへと覚醒してゆく。今までの事が夢みたいに感じているのはあたしの気のせいだろうか?ううん、今はそんな事どうだっていい、ただこの温もりと安著を全身で感じていたい。そう思う自分がいる。ゆらゆら動く、運命の針は少しずつ加速してゆく。彼とあたしを阻むようにゆっくりと、もう元には戻れない、そう直観が脳内でサイレンを鳴らす。右手、左で、右足、左足、全身の感覚がゆっくりと戻っていく感覚がする。
『すぐ元に戻るよ。悪い夢を見ていたんだ』
そうやって微笑む彼の表情が悲しく思えたのはあたしの気のせいだろうか?そんなあたしと裏腹に、心の中を蠢く彼女の姿を捉えた。ゆち…、今あたしが感じてる存在が、ゆちなのだろうと直観が働き、彼女は背中から這い出てきて、あたしに囁く。
(彼はあたしのもの。夕月はもう寝なさい。貴女はもう過去のあたし)
過去のあたし?そう聞こえたのは妄想なのか、幻聴なのか…それとも。混乱する脳内が全身の機能を停止していく。まるで誰かに操られているように、ゆっくり、目が閉じてゆく。
(おやすみ、夕月。もう貴女はいらないの。)
ニヤリと微笑む彼女の笑顔は悪意に満ちている。いや悪意と言うのより的確な言葉は嫉妬だと感じた。あたしはゆちで、あたしは夕月。どちらもあたしだって事は分かる。あの研究所で作られたゆちはあたしの全てに浸透して、全身の機能を自分のもののようにしようとしてる。心の中で泣いているあたしの姿が見える。
(彼は、あたしの………)
その言葉の続きは今のあたしには何も聞こえなかった。続きの記憶は、目を覚ましての記憶。これが今の現実なのか、錯覚か分からないけれど。一つだけ理解出来る事が分かる。自分の身体が動いている事。今まで隔離状態でいたから少し動かすのが鈍く感じるけれど、全身に力が入り、人間に戻っていっている気がする。あれは夢だったのだろうか?長い夢を見ていた気がする。頭を起して、全身を見てみると、ちぎれてなかったはずの足があるのだ。あれは何だったのだろう。そんな疑問をかき消すのは彼の言葉。
『おはよう』
その一言で、これが現実なんだと実感してゆく自分がいる。だけどあの時感じた感情も感覚も夢とは思えない程リアルなのだ。どちらも夢とは思えない程鮮明で、どちらも現実としか実感できない状況で、どうなっているのか頭が錯乱してる。
『混乱してるみたいだね、僕の事覚えてる?』
あたしは何て言ったらいいか分からなくて、頭を横にフルフルと振る、すると彼は寂しそうな顏でそっか…と呟きながら目線を床に注いだ。彼は自分の感情を抑え、一呼吸おいて、あたしの顏を見つめながら呟いた。
『大丈夫だよ、時間かかるけど思い出すから。きっと夕月は今の状況が呑み込めていないと思うから説明するよ』
夕月?さっきから誰の事を言っているの?この場にいるのはあたしと彼だから、必然的にあたしになってしまう。だけどそんな名前知らない。あたしの事あの研究所ではゆちと皆呼んでいたから…。ゆちになるとか言ってた気がするし、よく分からないから、何て答えたらいいのか分からない。そんなあたしに勘づいて、彼は言葉を選びながら話し出した。
『君は全ての記憶を失ったんだね。君の本当の名前は夕月と言うんだよ』
彼は優しくて賢い人なのだろう。こちらが理解できるように、まるで子供に言い聞かせるようにゆっくりと説明し始めた。
『半年行方不明になっててね、警察にも届けを出したけれど、何も掴めなくて君を探すのに時間がかかった』
はぁ、と溜息をついた彼は自分を責めているみたいだった。
『だけどね、君を監禁しろと指示し、その後始末をしようとした人間と接触する事が出来てね。僕が彼に諭すと、色々吐いてくれたよ。首謀者の事は聞けなかったけど、居場所は分かったから機会を伺っていたんだ』
監禁?あたしがされていた?あたしはあの研究所で死にかけの状態で保管されてた。あたしの記憶と彼の言っている事は若干だが違うが、はたから見たら監禁と言うのかもしれない。どれが普通でどれが当たり前かなんて今のあたしには分からない。この今の状態が洗脳というものだろうか。
『僕はね、君と付き合っていたんだ。夜の仕事をすると言う君を止めたんだけど、強情な君は聞かなくてね。心配していたんだけど、まさかこんな事に巻き込まれるなんて…』
チラリとあたしの顏を見つめる彼。その瞳は潤んでいて、演技をしているようには思えない。
『君は綺麗で、皆の憧れだから。僕の事を覚えてないって事は、君の姉の事も覚えていないのかな?』
「え…」
今まで黙っていたあたしの口から自然に出た。溜息にも似た、反射的に出た言葉。そのあたしの反応を見て、彼はそうか…と呟き話の続きをし始めた。
『君には双子の姉がいたんだよ、君と顏がそっくりで名前がゆちと言うんだ。覚えてない?』
「知らないけど…ゆちは知ってる」
研究所でよく聞いた名前、ゆち。誰の事を言っているのか分からなかったけど。彼女の事を言っていたのかと思い始めた。
『覚えているのかい?』
「違う、他の人達がゆちと私を呼んでた」
はぁ、と大きなため息をつきながら、手で顏を隠す彼のオーラーが変わったような気がした。まるで怒りを隠しているように。
『君の姉もね、一年前に行方不明になったんだ。何も情報が入らず、姉が働いていたキャバクラで情報を掴んでくると言い出して、僕は危険だから止めたんだけど』
「ごめんなさい…」
『君に謝らせたい訳じゃないんだ。時間はかかったけど、やっと会えたのだから』
『ね?だから安心して、君にあった事を教えてくれないかな?少しずつでいいから…』
彼の言葉は縋り付くような言葉にも聞こえたけど、全てを話していいのか分からないし、あたしの頭が狂っているだけかもしれない。不安な感情の波が寄せてくる。それを止めるのは彼じゃなくてあたし本人しかいないのは分かっている。だけどその前に一つ聞きたい事があったから、冷静さを保ちながら質問をしてみたの。