傑作品
滴り落ちる血潮はあたしの血管を通りながら、外気に触れて、腐る。まるで塾れた果実のように、美味しそうな匂いを漂わせながら、夢幻のドアを開くのだ。突き立てられた刃はあたしの首から流れるジュースを飲み干しながら、赤く染まる。まるで生気を吸い取られて、干からびていくみたいに。貴方は最初は腕と呟いた。恐怖と戦いながら、腕の痛みを和らげる為に、自分自身に暗示をかけていた。それなのに、意識していない、全く関係ない所に包丁の刃先を突き立て、喜びながらあたしの血を飲み干す貴方は吸血鬼。
『私は…嘘などついていないよ?首なんてカウントに入らない。これは序章なのだから。痛みの…ね?』
微笑みなんてあるわけないのに、貴方の声は静かに微笑んでいるように感じるのは、気のせい?視界を遮られたあたしには、瞳から入る情報が欠落している。傍に誰かいる訳でもないし、何も把握出来ないのが現状。
「もう…やめて」
その一言を吐くはずじゃなかった。恐怖しか感じれないあたしは、自分の身を守る為に言葉で自分を囲む。防衛本能の現れと言った所だろうか。
『その一言が夕月…君を苦しめる事になるの、分からないの?それとも、僕の存在に怯えているからこそ、言葉で突き放すのかな?』
その言葉に揺られるように、遠くで蛇口からポタポタと毀れる水滴の音が部屋中に響いていく。そしてあたしと貴方のいる、この空間を支配しながら、心に戻る。消えては現れる、翳り雲に右往左往される満月のように、幻想的に怪しく微笑む暗闇が襲ってくる。
(いやだ…もういやだ)
心の声は誰にも届かないはずなのに、心が繋がっているみたいに、あたしと貴方の言葉は常にリンクしながら、狂わしていく。夕月として存在しているあたしの心も体も。
『嫌だとか考えているんだろう?君はすぐに表情に出るんだ。他の人からしたら分かりずらい表情でも、私は君をずっと見てきたからこそ、把握出来るんだよ。もう逃げれないよ。僕が君を逃がしはしないのだから』
見たくない、もう何も見たくないの。
『ちゃんと私を見てくれないかい?逃げる君は美しくないよ?そうやって逃げても過去から逃げる事は出来ないのだから…ね?』
バシャンと冷たい水があたしの顔に飛んできて、全身を濡らしながら、地面に溶けて消えてゆく。
『…これで目が覚めた?真っ赤な血で視界も見えにくいだろう?右目は見えないかもしれないけれど、左目で確認出来るよね?自分の身体を見てみなよ』
クスクス笑いながら、あたしに近づいてくる。コツコツと足音が静寂の中で奏でながら、声と狂気があたしを包み込んで、離そうとはしない。
『ほら見てよ、夕月…君の為に、用意したんだ』
貴方はあたしの身体を包み込みながら、そっと頬に触れる。額はガラス片で少し裂け、ヒリヒリと痛みが走る。乾ききった血潮の原型をなぞりながら、傷跡を抉る。そして額にキスをするのだ。タラタラと流れる血潮が唇を濡らす。まるでルージュのように。その時だった。優しく額にキスをしたかと思うと、次に鋭い痛みが走ったのは右腕だった。
『言ったろ?序章だって…ここからが本当の地獄だよ、夕月。あの時と同じように、僕の支配下になって…僕を殺して、君が僕を取り込む。そしたら壊れた君の心の中で生き続ける事が出来る。な?美しいだろ?それが俺が思い描くシーンの再生だよ』
少しずつ口調が変化していく。貴方は常に二つの呼び方で自分を名乗る。冷静さを表現する為に『私』と使い無邪気さを表面化する為に『僕』と名乗る。クルクル変わる口調の変化は、まるで万華鏡。見えない『美しさ』があたしの見えない『右目』に見えた気がした。
『ここからが過去の記憶…そして俺の…黒幕としての仕事なんだよなー』
「え?」
『待ってな、夕月、癒智。二人を逃がしたりしねぇよ。俺の傑作品だもん』
貴方は何を言っているの?