般若
絡み合う鎖は誰のもの
何の為に縛り続けるのかい?
両手両足に絡みつくものは
亡くしたパーツの悲しみの叫び声
全てはここから始まり、ここで終わる。そう感じるのはあたしだけなのかもしれない。遊離の傷跡が浮き彫りになりながら、あたしの身体へと移っていく。痛みなど感じない。あるのは心の傷跡だけ。右手首に広がる、リストカットの跡は広がりながら、あの時と同じように血を垂らしていく。まるであたし達が抱える悲しみの涙みたいだと感じた。心の傷跡は体へと電線して、あたし達の身も心も鎖が締め付ける。亡くしたパーツを埋めるみたいに。あたしの場合は両手両足だけれど、感じる事なんか出来ないはずなのに、まだ胴体についている気がするのは遊離の脳内操作のせいなのかもしれない。何をいじって、記憶をすり替えたのか分からないあたしは、ただこの流れ落ちる血を眺める事しか出来ない。
溢れる血潮は命の灯のようで、少し安心するのは、狂っている証拠なのだろう。壁に凭れかかるあたしの身体は、もう自分では動かす事が出来ない本当の人形になってしまった。その事に気付かずに、雪兎の言葉を信じてしまう自分がいるなんて、誰にも言えない。ゆちの心とあたしの心が混ざり合いながら、複雑な感情を産み出していく。誰かに助けを求めても、助けてくれる人は見つからない。暗闇に埋もれたあたし達は、道化師になるしか選択肢はないから。狂いながらも、平常心で微笑み続ける。
『「「大丈夫」」』
三人のあたしの声が音色のように合わさって、違う別人へと堕ちていく。圭人の願いはあたし…夕月をゆちに完璧に変える事だった。遊離の願いは圭人の願いを潰し、あたし達を本当の意味で抹殺する事だろう。今は遊離の願い通りに進んでいる気がする。管理を任せた圭人のミスだと思うけれど、これさえも計画に盛り込んでいる可能性があるのは否めない。全てはあたしの妄想と虚像なのかもしれないけれど…それもまた心地よい。ピーと警報音が脳内を走り廻る。これは合図。あたしが切り替わる号令。三つの精神と、二つの身体は、あたしのもの。二人の『ゆち』には絶対に渡してはいけない、重要物件。
(周りの奴らの思惑通りに動いたりしない…まだあたしは夕月だもの)
半分ゆち達に支配されている状況を受け止めれないあたしは、言葉で自分に暗示を掛け、自らを守ろうとする。そんな事しか出来ない自分を無力と思うのは、おかしいだろうか?パクパク口を動かしてみても、声が出ない。あの時は出ていたはずなのに、どうして出ないのだろう?全ては妄想?それとも夢の欠片?頭がグチャグチャになって、失った両手で掻きむしる。目には見えない、あたしだけの幻想が作り出した体で、心を支える為に傷つける。ザシュッザシュッとナイフで体を痛みつけ、切り裂くのは過去のあたし。夕月の心の弱い部分。リンクする現在のあたしと過去のあたしが同じ悲鳴を上げる。
「「思い出したくない」」
その言葉を遮るように、聞こえてくるのは雪兎の声。
『僕は…ゆちも夕月も二人共手に入れたい。だからもう抗わなくていいんだよ?もう君は後戻り出来ないからね』
「「雪…兎ぃいいい」」
愛情を感じていたはずなのに、あたしの恋人なはずなのに、重ねられても何も感じないはずなのに。過去に戻ってしまうあたしは、感情の制御の仕方を知らない。
「「お前に分かるものか…あたしの事を、ゆち…いやあいつの事も」」
あたしのせいじゃない。悪いのはゆちの方だ。全て罪を被ってまで、助けたのに、当たり前の態度をして逃げるゆちが大嫌いだった。でも…大好きでもある。嘘じゃない。全て本音。
『分からないからこそ、君の心を見ているのさ。遊離さんのおかげだよ。やっと支配出来る』
「「ゆきとぉおおおおお」」
クスクス微笑む雪兎は、あたし達の知らない表情をしながら、煙草を吸う。彼は煙草なんか吸わないのに、何故煙草を吸っているの?疑問は疑問でしか返ってこない。
『綺麗な顔が台無しだよ?般若みたい』
小馬鹿にする雪兎の声があたしを地獄へと誘う。思い出したくもない記憶のノートの1ページを開くの。