溺れる快楽
『あの子はもう人には戻れません』
『何故そんな事を言うんですか?』
『私は夕月の母ですから、産みの…。あの子の事は一番私が、分かっているつもりです』
『捨てた癖によく言えますね』
『親子なのには変わりありませんから。他人の貴女が口出ししていい場面ではないのでは?』
『……私は夕月…いえ、ゆちの管理を任されているので、責任があります』
『あの子は人の心を捨てた哀れな子なの。私がいないとあの子は潰れてしまう』
『それはゆちが記憶を取り戻した場合の話ですよね?そう簡単には思い出せませんよ?』
『何故、そう言い切れるの?』
『私達が手を打たなくても、記憶はロックされていますから、母と名乗り出ても信じないでしょうし。今更出てこられると困るのです』
『…何度も言っているでしょう?夕月を返して!』
『ですから…ゆちはもう貴女のモノなんかじゃないので、無理ですね』
『ゆちゆちゆちって…あの子は夕月よ。ゆちはあのババアの子供なの。同じにしないでほしい』
『自分の姉の子供ゆちをそこまで否定するのですか。お金のために捨てたのは貴女ですよね?』
『こちらにも事情があるの』
『もう話す事は何もありません、お帰りください』
そう言って遊離は、深いため息を付きながら、あたしの母と名乗る人物を追い返そうとした。しかしその人はしつこく、諦めたりなんかしない。諦める事なんてしない。全てはあたし達に残された財産の為。そう考えるしか出てこない答えの数々。
『…話終わったから、帰ってもらいましょう。迷惑だわ、皆来て』
遊離の言葉一つで全ては終わる。複数の研究員がゾロゾロと出てきて、あの人を囲む。両手両足を抑えつけ、外に放り投げようとする。人間に対しての対応じゃなくて、まるでガラクタを放るように荒々しく、捨て去る。
『いやあ……夕月を返して…私の子供を奪わないで!』
身勝手で欲の強いあの人は、自分の人生の色を変える為だけにここに来たのだろう。その欲望を目の当たりにした、遊離は頭を抱えながら、ポツリと呟く。
『圭人…これでいいんでしょう?』
人の感情を捨てたのは遊離の方かもしれないと思うような言動に、何が正しいのか分からずに生きている。そんな遊離の疑問と不安を攪乱させるように、出てくるのは黒い霧に包まれた残酷な人。
『そう、それでいい。私の為にゆちを守り続ければいい』
『……』
私はこんな事望んでいないのに…。そうケイト遊離の心の声が聞こえた気がした。圭人とケイトは幼馴染。RIMで連絡を取り合いながら、上司と部下の関係を保つ、不思議な関係。圭人は遊離の事を苗字で呼んでいた。それは心の距離を保つ為と、自分の名前と同じ苗字である事を利用し、遊離と自分が同じ人種だと錯覚を与える為の一つの策。遊離は過去も今も、これから先も気づく事のない真実。慶徒遊離。それが彼女の本当の名前。研究者としてではなく、ただ一人の人間として、女として存在するのが『遊離』懐かしく思い出に溺れながら、もう二度と幼馴染に戻れないと落胆するしかない。
『いい子だね。遊離。それでこそ私が選んだ人間だよ』
圭人はそう微笑みながら、遊離に近づいていく。遊離が望んでいる事を簡単にする圭人の気持ちはここにはない。ゆちに支配され、夢を見ている圭人の心に入り込む隙はないから。唯一、圭人を止めれるのはゆちとして生まれ変わりつつある、夕月…あたしなのかもしれないね。遊離の耳元で囁く言葉は誘惑と残酷さが入り混じる『麻酔の味』クスクス微笑みながら、狂った圭人は簡単に愛の言葉を呟く。
『愛しているよ』
そう呟きながら、遊離の耳を軽く噛み快楽へと誘う。取り込むのが上手な圭人は悪魔の化身。狂った歯車は、加速しながら、あたしとゆちに電線していく。同一人物となりつつある、あたし達にも止めれるのか、分からないけれど。今は、この景色を見つめながら、二人の運命を見つめている。冷え切った心を温めるように抱きしめる圭人に対して、抵抗しない。いや抵抗出来ないのかもしれない。溺れていくのは遊離自身なのかもしれないね。