初日前夜
夏場所初日の二日前の金曜日。
初日と二日目の取組が発表された。
初日の目玉は、
羽黒蛇-豊後富士。
そして、
金の玉-近江富士である。
玉武蔵-豊後富士は二日目の取組となった。
三役以上の力士がからむ取り組みを除いて、初日は番付順に取り組まれるのが通例であるので、本来であれば、
近江富士-満天星。
金の玉-吉野川。となるはずであるが、
取組を編成する協会審判部は、夏場所幕内の最初の取組に、通例をくずして、金の玉-近江富士を選んだ。
さらに、東横綱には西小結の力士を当てるのが、初日の通例であるが、この通例もこわして、四十連勝中の横綱羽黒蛇に、横綱初挑戦、人気の美少年力士、豊後富士を当てた。
それは、ただ一回対戦した千代の富士-貴花田(貴乃花)戦に倣い、注目の取組を、両者にまだ、場所の星取表がまっさらな内に当てよう、という意向が働いたものである。
その考えでいくのならば、と、取組編成の際、初日に、羽黒蛇-金の玉の取組を推す一部の委員の声もあった。
金の玉の実力は、既に、全力士の中で、羽黒蛇に次ぐNo.2になっているのではないか。
この取組こそ、今場所の最大の目玉であり、場所を盛り上げるためには終盤戦に、この取組を持ってきたほうが望ましいことは分かる。
本来、幕内の下位力士は、よほど勝ちこまない限り、横綱と対戦することはないわけでもあるし。
しかし、と同時に、この両者については、ともに負けがつかない連勝記録継続中に対戦が実現すれば、その盛り上がりは大変なものになるだろう。
今の両力士の力からいって、終盤戦の対戦であっても、連勝記録継続中のまま対戦となる可能性はかなり高い。
しかし、勝負事である限り対戦前に金の玉に、あるいは羽黒蛇にだって黒星がついてしまう可能性はある。
初日に対戦させれば、間違いなく連勝記録継続中の力士の対戦となる。四十連勝継続中と、二十二連勝継続中の力士の対戦など、今後見られるものじゃない。
初日にこの取組を実現させてしまっても、今場所は注目力士目白押しなのだから、好取組は、
羽黒蛇-金の玉以外でもいくらでも作れる、と。
が、結局この提案は、慣例からはずれすぎるとして見送られた。と同時に、金の玉が勝ち進んでいった場合、早い段階から上位力士にぶつけていこう、との方針も確認された。
初日の前夜となった。
幕内力士としての金の玉との初顔合わせ。しかし、近江富士にとっては、初場所、春場所に続く三度目の対戦という思いが強い。
初場所に幕下だった力士で、この夏場所に幕内力士となっているのは、もちろん、近江富士と金の玉のふたりだけである。
近江富士と金の玉にとっては、お互いが、この三場所で、三度対戦する唯一の力士となることは間違いない。
俺は、この男を倒すために、相撲の道を選んだのだ。今も、近江富士の心の中には、その思いが強い。
しかし、過去の二度の対戦は、ともに鎧袖一触。あっさりと押し出された。どうやったら金の玉に勝てるのか、近江富士にはそのイメージがわかない。
抜群の運動神経をもち、高校時代に相撲を取っていないにもかかわらず、図抜けたスピード出世を遂げている近江富士。
ではあっても、十両以上の関取力士の中で二番目。幕内力士では最軽量の近江富士に、寄り、押し主体の相撲はまだ取れない。
スピード。ここぞというときの勝負勘。そして、かつて150キロのスピードボールを投げた右腕から繰り出す上手投げ。これが今の近江富士の相撲だ。とにかく右上手だ。右上手がほしい。近江富士はそう思った。
それにしても、初場所、そして春場所の金の玉との対戦の際も感じた、あの土俵上の感覚を、明日また味わうことになるのだろうか。近江富士は、恋人とのランデブー前夜にも似た、ときめきを覚えた。
羽黒蛇関と初日にいきなり合うのか。
豊後富士の胸は高鳴った。
自分は時代を担う力士になる。豊後富士にはその思いが強い。これだけの美貌の持主だ。そういう運命をもっていないはずがないではないか。
今場所横綱を倒せば、十八歳六ヶ月での金星獲得。貴花田の記録を三ヶ月更新しての新記録である。
来場所でもまだ新記録になるが、来場所は、俺は三役に昇進しているから、もう金星を得ることはできない。
今場所が唯一のチャンスだ。十両昇進、幕内昇進では貴花田の記録を更新することができなかった。豊後富士は悔しかった。すべての最年少記録を更新するつもりだったからである。
貴花田の初金星は、優勝三十一回の大横綱、千代の富士との唯一の対戦という歴史的一番で獲得したものだった。
奇しくも同じ、夏場所の初日。
明日、俺が羽黒蛇関に勝ったら。それは千代の富士-貴花田戦をも超える歴史に残る一番になる。羽黒蛇関の連勝記録を四十でストップさせることになるのだから。