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稽古総見 後の先

 近年、本場所の土俵は連日、満員御礼となっていた。

 初場所、夏場所、秋場所と、東京の国技館で場所前に行われる、一般ファンにも無料で公開される、稽古総見。近年は、この行事のときも、満員になる。

 が、その夏場所前は、異常だった。開催日の数日前から、入場するための徹夜組が出現したのだ。この報道が流れたことにより、徹夜での順番待ちはどんどん増え、二日前には、その時点で、もう満員になるだけの人数が列を作った。相撲協会は、その前日から、列の先頭のファンから順番に、国技館内の客席に誘導していた。


 なぜ、ただ稽古を見せるにすぎない行事が、それほどの人気を呼んだのか。それは、稽古土俵であっても、まだ一度も実現していない、四十連勝中の横綱、羽黒蛇と、入門以来、二十二連勝中の、新入幕力士、金の玉の土俵での初対戦が、この日、実現することになるであろうと、予想されたからである。


 羽黒蛇は、照富士三兄弟の、豊後富士、近江富士とも本場所ではまだ対戦していない。だが、羽黒蛇が属する庄内部屋と照富士部屋は同じ一門でもあり、稽古場では、これまでに既に何度か胸を貸し、対戦もしていた。

 そのときもマスコミは、稽古風景を大きく取り上げた。稽古場での対戦では、豊後富士も、近江富士も、やはり、羽黒蛇の敵ではなかった。


 だが、羽黒蛇と金の玉は、まだ一度も土俵で顔を合わせてはいない。違う一門とはいえ、しばしば出稽古を敢行する羽黒蛇が瀬戸内部屋に、あるいは、金の玉が庄内部屋に出稽古に行けば、ふたりは顔を合わせることになったはずだが、なぜか、ふたりとも、そうしようとはしなかった。


 また、ふたりの対戦には、別の興味も持たれていた。立ち合いである。長田が書いた記事により、ともに後の先の立ち合いをする両者が対戦したら、いったいどちらが先に立つのか、という興味である。


 国技館での公開の稽古総見の日がやってきた。

十両力士を中心とした稽古。幕内力士を中心とした稽古。大関を中心とした稽古と続き、羽黒蛇が、土俵に上がった。


 大きな歓声が上がった。いきなりの金の玉の指名があるかと、満員の観衆は固唾をのんだが、羽黒蛇が最初に指名したのは、もうひとりの新入幕力士である近江富士だった。

 これまた人気力士である。歓声があがった。

三番取った。いずれも羽黒蛇の完勝だったが、内一番は、近江富士に存分に取らせる、という意図があったのか、三十秒足らずの相撲になった。


 横綱が次に指名したのは豊後富士。

そこここで「照さまあ」という若い女性ファンの嬌声がこだました。


 横綱は、今度は四番取った。やはりすべて羽黒蛇の勝利であったが、内一番、豊後富士が、横綱を土俵際まで持っていく相撲があり、大きな歓声が沸いた。


 羽黒蛇の体が十分に温まった。羽黒蛇と、土俵の周囲に立つ、金の玉の視線が交錯した。

「征士郎」

横綱が、金の玉に呼びかけた。

「来い」

金の玉が、新鋭とは思えない、悠然たる態度で土俵に上がった。

大歓声があがった。


 一度の仕切で羽黒蛇と、金の玉がともに仕切線に両手をついた。

ふたりは、にらみ合う。

十五秒たった。

満員の観衆は、息をつめて見続けるが、両者ともに動かない。


 記者席にいた長田は、ふたり連れてきたカメラマンの内、ひとりに指示して、金の玉が土俵に上がった時から、ずっとビデオをまわさせた。もうひとりには立ち合いに入ってからの連写を指示していた。

三十秒たった。

羽黒蛇が立ち合うことなく、すっと立ち上がった。

 合わせて、金の玉も立ち上がった。

羽黒蛇が、ふっと顔をくずし、右手で金の玉の左肩を軽く叩いた。金の玉がお辞儀する。

 長田は、後刻、

「これは羽黒蛇の力士生活における、初めての「待った」ではないか」

と気付いた。


 両者は、再び仕切線の後ろに下がった。

一度、仕切り、

両者が仕切線に両手をついた。

十秒を超えたところで、両者が立ち上がった。

どちらが先に立ったのか、肉眼では分からなかった。

 金の玉がやや押し込んだと見えた瞬間、羽黒蛇の右が入った。金の玉の体が起こされた。

相手力士に廻しを取られることはおろか、組まれることさえほとんどない金の玉が、横綱に組まれた。

 そのまま横綱が、左の上手を取りながら一気に寄り、寄り切った。

観衆の間からため息がもれた。


 金の玉は、今や稽古場では、大関早蕨を圧倒し、先頃瀬戸内部屋に出稽古にやってきた横綱玉武蔵と三番稽古をして、むしろ分が良かったという。

 その金の玉をもってしても、やはり羽黒蛇には敵わないのかと。


 この相撲のあと、横綱は、すぐに次の稽古相手として、荒岩を指名した。

稽古総見の中で、羽黒蛇と金の玉はただ一番だけ、相撲を取った。


 金の玉との取り組みが終わった直後、

羽黒蛇は、記者席に座る長田のほうを見た。偶然かと思ったが、羽黒蛇の視線は明らかに長田の視線をとらえていた。横綱は、長田に向かって、軽く笑った。


 長田は、社に帰るのももどかしく、すぐに、撮影したビデオを再生した。


 分析には長い時間がかかった。超低速で再生しても、ふたりは同時に立ち上がったとしか思えなかった。

だが、さらに精密な機械で解析した結果、長田は、横綱が、いつもとは異なる立ち合いをしたことを知った。

 立ち合いは、・・・羽黒蛇が先に動いていた。刹那の差で、金の玉が動いた。これは、金の玉のいつもの立ち合いだ。金の玉は、今、マスコミ、ファンの間では、その稽古のすさまじさや、相撲への打ち込み方から「修羅の力士」というニックネームが定着しつつあるが、この絶妙なタイミングの立ち合いにより、一部のファンから「刹那の力士」とも、呼ばれていた。

 すると、羽黒蛇の動きが止まった。これまた刹那の時間のみ。金の玉の動きは変わらない。羽黒蛇が再び動く。金の玉の体に微妙な驚きが走った。当たるはずの瞬間に、相手はまだ、その地点に到達していない。金の玉の体が、わずかに伸びた。両者が激突し、羽黒蛇が少し押し込まれるが、押し込まれながら、羽黒蛇の右が入り、金の玉の体をとらえた。


 翌朝、長田は勤務する雑誌社と提携しているスポーツ紙の朝刊に、横綱の立ち合いを分析し、解説した記事を書いた。見出しは「神技、先の後の先」


 しかし、長田は疑問に思った。

なぜ、横綱は、この立ち合いを本場所まで秘めておかなかったのだろう。


 この記事に対し、さすが横綱羽黒蛇、との賞賛の声が集まった。と同時に、相手が横綱であっても自分の立ち合いを押し通そうとする金の玉に対して、一部批判の声もあがった。また、羽黒蛇に対しても、相手が望む存分の立ち合いをさせて、それでも勝つのが横綱ではないか、との声も少数ながら寄せられた。


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