十三日目
土俵の向こうに、金の玉征士郎が、静かに座っていた。
この男はこんな顔をして、呼び上げを待っているのか。羽黒蛇はそんなことを思った。
立呼出しが、羽黒蛇と金の玉の四股名を呼び上げる。
地を震わすような大歓声が轟く。
東横綱、羽黒蛇六郎兵衛、五十二連勝。
東前頭十六枚目、金の玉征士郎、初土俵以来三十四連勝。
ついにそのときがきた。
土俵に上がる。
相対して礼をする。
力水を受ける。
塩を手に取り、蹲踞をして、背中で立行司の結びの一番の呼び上げを受ける。
塩を撒く。
塵手水を切る。
再び塩を取り、塩を撒く。
土俵中央で相対して四股をふむ。
羽黒蛇と金の玉。ふたりのすべての所作がぴたりと合っていた。
羽黒蛇は目に映っていようが、映っていまいが、金の玉の動きを、その呼吸にいたるまでを、全身で感じ取った。
また塩を取りに行く。土俵に向かって振り返る。
金の玉も同じタイミングで振り返っていた。
土俵の上にいる行司が消える。
土俵を掃く呼出しが消える。
土俵の下にいる、勝ち残りと負け残りの力士が消える。
検査役が消える。
すべての観客が消える。
この広い天と地の間で、存在するのは、ただ彼と我のふたりのみ。
そうか、金の玉征士郎よ。お前は、こんなところまで私を連れてきてくれたのか。
最後の仕切。
両手をつく。
静止する。
立ち合う。
後刻の確認によっても、刹那の差もない同時の立ち合いだった。
当たる。
金の玉が押す。
羽黒蛇が受ける。
土俵際までしばしの距離を残して止まった。
両力士の静止時間は六秒に及んだ。
後に「凍結の六秒」と称される時間である。
このときの、押し込む金の玉と、受け止める羽黒蛇の姿は、相撲の攻防の理想の型が具現化した姿として、その映像、画像は、様々な場所で引用されることになる。
金の玉は押した。おのれの十九年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。
羽黒蛇は受けた。おのれの二十六年の人生を。相撲のことを思い続けた精神と、鍛え続けた肉体の、そのすべてをこの刹那にかけて。
だが、羽黒蛇の精神と肉体は、その最も深い場所で、明日も、そしてその先も相撲を取り続けることを選択した。
凍結の六秒が経過し、時間が再び動き出す。
羽黒蛇がじりじりと下がる。
金の玉は、押して、押して、押し切った。
羽黒蛇の足が、土俵の外にでるやいなや、金の玉の動きはぴたりととまった。
これまで勝利しつづけた三十四番と同様、金の玉の体は、土俵の俵の中に残った。
そのまますっくと立ち、土俵の外から、土俵に上がろうとする羽黒蛇に手を添えた。
対戦を終えた両力士は、東西に分かれ、礼をする。
金の玉は、美しい所作で勝ち名乗りを受け、常と変らぬ姿で、支度部屋に引き上げた。
羽黒蛇が土俵を割ったあとの、いつもどおりの金の玉の姿は、彼の肉体が記憶する、力士としての最後の矜持だった。
支度部屋に駆け付けた武庫川親方が見たのは、人としての光を失った、ひとり息子の眼だった。
又造は征士郎を抱きしめ、まだ髷の結えないその頭をゆっくりと撫でた。
十三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)
勝 負
豊後富士(六勝七敗) 1(上手投げ) 1 梅ヶ枝 (九勝四敗)
若飛燕 (四勝九敗) 4(引き落とし) 1 北都国 (六勝七敗)
曾木の滝(七勝六敗) 4(寄切り) 1 神ノ花 (三勝十敗)
緋縅 (六勝七敗) 1(寄切り) 0 竹ノ花 (四勝九敗)
荒岩 (九勝四敗) 3(寄切り) 4 若吹雪 (八勝五敗)
伯耆富士(十二勝一敗)8(首投げ) 4 早蕨 (八勝五敗)
玉武蔵 (十勝三敗 )1(突き倒し) 0 近江富士(九勝四敗)
金の玉 (十三勝 )1(押出し) 0 羽黒蛇 (十二勝一敗)




