三日目~六日目
三日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(二勝一敗) 1(送り出し) 0 北乃王 (二勝一敗)
金の玉 (三勝 ) 1(押出し) 0 備前山 (二勝一敗)
白根山 (一勝二敗) 3(寄り倒し) 1 緋縅 (二勝一敗)
荒岩 (三勝 ) 3(寄切り) 1 曾木の滝( 三敗)
若吹雪 (三勝 ) 1(突出し) 0 豊後富士(一勝二敗)
伯耆富士(三勝 ) 4(寄切り) 2 獅子吼岩 ( 三敗)
早蕨 (三勝 )13(押出し) 4 神ノ花 (一勝二敗)
玉武蔵 (二勝一敗) 1(寄切り) 0 竹ノ花 ( 三敗)
羽黒蛇 (三勝 ) 9(寄切り) 0 若飛燕 ( 三敗)
四日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(三勝一敗) 1(寄り倒し) 0 大蒙古 (二勝二敗)
金の玉 (四勝 ) 1(押出し) 0 大乃洋 (三勝一敗)
荒岩 (四勝 ) 4(突出し ) 2 若飛燕 ( 四敗)
曾木の滝(一勝三敗) 4(外掛け) 3 緋縅 (二勝二敗)
早蕨 (四勝 ) 1(突き落とし) 0 豊後富士(一勝三敗)
若吹雪 (四勝 ) 5(寄切り) 2 神ノ山 ( 四敗)
伯耆富士(四勝 ) 1(打棄り) 0 竹ノ花 ( 四敗)
羽黒蛇 (四勝 )21(上手投げ) 3 白根山 (一勝三敗)
玉武蔵 (四勝 )20(押出し) 1 獅子吼岩 ( 四敗)
五日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(四勝一敗) 1(上手投げ) 0 若狼牙 (三勝二敗)
金の玉 (五勝 ) 1(押出し) 0 神ノ海 (四勝一敗)
緋縅 (三勝二敗) 6(寄切り) 2 若飛燕 ( 五敗)
豊後富士(二勝三敗) 1(寄切り) 0 荒岩 (四勝一敗)
伯耆富士(五勝 ) 5(内無双) 2 神ノ山 ( 五敗)
竹ノ花 (一勝四敗) 1(押出し) 0 早蕨 (四勝一敗)
若吹雪 (五勝 ) 6(はたき込み) 0 獅子吼岩 ( 五敗)
玉武蔵 (四勝一敗)29(寄切り) 2 白根山 (一勝四敗)
羽黒蛇 (五勝 ) 4(寄切り) 0 曾木の滝(一勝四敗)
荒岩が、二分を超える大相撲の末、兄弟子の横綱玉武蔵に次いで、豊後富士に敗れた。
取組後、荒岩が付け人を引き連れて西の支度部屋にやってきた。玉武蔵と荒岩は、お互いに黙って頷きあった。この菱形部屋コンビは、今や記者の間では秘かに(いや・・・露骨に)
「ソープの義兄弟」と呼ばれている。
「記者さんたちも一緒にどうです」
声をかける横綱に応じる記者はいなかった。
横綱玉武蔵は、自分の後援者の中で、最もスケベな某社社長の携帯電話の番号をプッシュした。
ところで、例の請求書を受領したニッポン新聞の清水と、さくらスポーツの野口だが(この日の前日に到着)、清水は、送られてきた請求書に仰天し、心を大いに乱したが、場所も終盤に入ったあたりで、上司の笠間におずおずとその請求書を見せ、事情を説明した。
笠間は、自分も相撲を担当した経験があった。部下に対し、あらためて相撲界の慣習を説明した後、当該請求書に関しては、「継続的な取材対象者との、友好な人間関係を構築するための必要経費」という名目で、交際費で処理することとした。
「天下のお関取とそういうところに一緒に行ったとなれば、本来であれば、こちらからご祝儀をお渡しするのが礼儀だ。まして今回は、相手は横綱と関脇なんだからな。まあ、この件については上に報告しておく。
後日、
「うちの若い者が、先日、懇ろなお世話になりまして」と言って、あらためてご挨拶となるだろう。
うちの西尾社長も相撲はお好きだから、玉武蔵関と荒岩関となれば、
「私が行く」と言われるんじゃないかな。
その際は、多分、お前と私も同席を仰せつかるだろう。
玉武蔵に荒岩か。うちの社長だって、経済界ではそれなりの立場におられる方だ。きっとこれまでの人生で一番高い食事が食べられるぞ」
清水は、「どうすればいい」と悶々と悩み続けた時間を思い、夢にも思っていなかった結末に狂喜した。
「会食の際は、話の流れ次第では「それでは、今夜も行きますか」となる可能性もあるぞ。・・・いや、どう考えてもそうなるな。社長もそれなりにお好きな方だ。そうか。ベルサイユかあ」
笠間は、とろんとした目つきで、座っていた椅子の背に、深々と身を預けた。
清水記者は、このときほど、ニッポン新聞に入ってよかった、と思ったことはない。
さくらスポーツは、「事前の申告が無かった」と、この請求書の会社経費としての支払いを却下した。野口は、自分の給料のほぼ二ヶ月分にあたる額を自腹で支払わなければいけない破目に陥った。野口は、結婚二年目、妻帯者である。
「嫁にどう説明すればいいんだ」
と暗澹たる気持ちになった。
「巨大な体をしたお兄さんに、だまし取られた」
という理由で妻が納得してくれるとは思えなかった。
この話は、関係者の間にすぐに広まった。
伯耆富士は「それは充分に殺人の動機になるな」と受け止め、
「ソープ横綱殺人事件」というタイトルが思い浮かんだ。
だがこのタイトルでは、誰がモデルかあまりにも明らかだ。将来の一代年寄に、こんなことで目をつけられるのは避けておこう、との賢明な判断により、伯耆富士は、このタイトルの小説の執筆については、やはりまだ、一行も書かないうちに断念した。したがって、このタイトルの推理小説も、世に出ることはなかった。
この話には、聞く人の涙を誘わずにはおかない美しい後日談がある。
二ヶ月分の給与がふっとぶことになった野口記者の元に、その金額を超える額面の商品券が送られてきたのだ。
送付主は、荒岩亀之助。
野口は、結局、収支計算で、二ヶ月分の小遣いにあたる額の利益を得たことになった。
その利益分は、すべて、妻をなだめるためのプレゼント代で消えてしまったが、記者は、財政破綻を救ってくれたこの関取の、弱冠二十歳の若者とは思えない配慮にいたく感動した。
野口は、荒岩の元に御礼を言うために赴いた。そのときの話で、あの日、野口が個室でともに時間を過ごしたレカミエ夫人は、かつて、荒岩のお相手をしたこともある女性であったことが判明した。
ふたりは義兄弟の杯を交わし、終生の友情を誓ったのであった。
六日目の取組結果(数字は幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(五勝一敗) 1(上手投げ) 0 神天勝 (三勝三敗)
金の玉 (六勝 ) 1(押出し) 0 梅ヶ枝 (四勝二敗)
荒岩 (五勝一敗) 4(首投げ) 3 白根山 (一勝五敗)
豊後富士(三勝三敗) 1(下手投げ) 1 竹ノ花 (一勝五敗)
若飛燕 (一勝五敗) 5(蹴手繰り) 3 若吹雪 (五勝一敗)
伯耆富士(六勝 ) 8(吊り出し) 1 神ノ花 (二勝四敗)
早蕨 (五勝一敗) 7(押出し) 2 緋縅 (三勝三敗)
羽黒蛇 (六勝 )13(寄切り) 0 獅子吼岩 ( 六敗)
玉武蔵 (五勝一敗) 3(突き倒し) 0 曾木の滝(一勝五敗)
大関若吹雪が苦手力士である小結若飛燕に敗れ、幕内での全勝力士は、羽黒蛇、伯耆富士、金の玉の三人になった。
中入りの、翌七日目の取組言上で、豊後富士-金の玉の対戦が告げられた。満員の客席から大歓声が起こった。
豊後富士の左の顔面には、男の勲章ともいうべき、二日目の土俵で受けた傷がまだ残っていた。
この傷が、自分の男としての、力士としての株を一段と揚げたことを、豊後富士は、充分に自覚していた。相撲のためなら、この美貌を犠牲にすることもいとわない少年力士。なんてかっこいいのだろう。
支度部屋で、取り囲む記者から豊後富士は、明日の金の玉戦に臨む心境を訊かれた。
対戦が決まれば必ず、この質問を受けるであろうことはもちろん想像できていた。
その質問を受けたら、日頃、自分が思っていることを語ろうと豊後富士は決めていた。大きな話題になることは間違いない。
「僕は、金の玉関の相撲と生き方を否定したいと思っています」
その答えを聞いた記者たちの眼が輝いた。フンドシ王子が、大きなネタになることは間違いない話をしようとしている。
「僕は、金の玉関のことは尊敬しています。年上とはいっても、相撲界への入門については、僕よりずっと後輩になるわけですが、あの人の相撲に打ち込む姿勢は凄いと思います。それに、とにかく強いです。もう何度も稽古していますが、僕はほとんど勝てたことがありません」
正確に言えば、一度も勝ったことがないのだが、まあいいだろう。
「でも、あの人の相撲を見ていると、息がつまるんです。あの人の相撲は、見ていて面白い相撲ではない。あまりに研ぎ澄まされ過ぎています。金の玉関の、相撲にかける必死な覚悟がそのまま伝わってきて、見る人を緊張させる相撲です」
記者たちが熱心にメモを取る。
「僕は、相撲にあまり精神的なものを持ち込んでほしくない。相撲はもっと単純明快なものだと思います。刹那の立ち合いとか言われて、ずいぶん騒がれていますが、相撲をそんなに窮屈にとらえることはないと思います。金の玉関は、相撲漬けの毎日を送っているようですが、それで楽しいんでしょうか。
僕にはできないですね。
稽古するときは、一生懸命稽古する。鍛えて、鍛えて、強くなる。そして、遊ぶべきときは遊ぶ。僕はそれでいいと思います。」
記者から確認の声が出た。
「関取。このコメント、記事にさせていただいて、いいのですよね」
「いいですよ。金の玉関に対する挑戦状と受け取ってください。もっとも今の段階では、まだあの人には勝てないと思います。でも二年後、三年後には、そうはいかないと思っています」
よし、言うべきことを言った。フンドシ王子は顔が良いだけでなく、勝負根性もある。その上、きちんと自分の意見を語ることができる、と。いいね、いいね、僕。それに最後は、明日負ける予防線もちゃんと張っておいたし。二、三年の内には勝たないといけなくなっちゃったけど、それだけあれば、間違って一番や二番は勝てるだろう。
が、豊後富士の中には、忸怩たる思いもあった。自分は、時代を担う運命をもった力士だという信念があったが、同じ時代にあの男がいるのであれば、自分は時代のNo.2にしかなれないではないか。
でも、そんなことはないのではないか、とも豊後富士は思う。
相撲の稽古と言うものが、どれほど短時間での集中を要するものか。そしてそのあと体を休めることもまた、不可欠なことのはずである。伝え聞くことをそのまま受け取れば、金の玉関は、毎日、自分の何倍もの時間の稽古をし、稽古以外の時間も相撲のことを考え続けているということになる。そんな生活を続けていれば、そう遠くない時期に、あの人は壊れてしまうのではないだろうか。
二年後、三年後には、そうはいかない、か。だが、あの力士にそれだけの時間が残されているのだろうか。
時代を担うこの僕の前に輝いた、一陣の風、一瞬の光。それがあの人の運命なのではないだろうか。
それは、自分自身を納得させるため、豊後富士が無理矢理に考え出したことである。が、その考えはそうはずれてはいないのではないだろうか。彼はそう思った。
豊後富士が記者に語ったコメントは、直ちにインターネットにアップされた。
「征士郎、入るぞ」
そう断って、武庫川親方が、金の玉の部屋に入ってきた。
親子であっても、このふたりの間に、普段、会話はほとんどない。
武庫川は、息子を見ていて、痛ましくて仕方がない。
なぜ、こんな生き方しかできないのか。
征士郎の大相撲界への入門が決まると、武庫川は、直ちに瀬戸内部屋を出て、独立した。
師匠ひとり、弟子ひとりの武庫川部屋。
この行為については、協会の内外からずいぶんと批判を受けた。
「それまでずっと瀬戸内部屋で厄介になっていながら、超有望力士を自分ひとりで囲い込むための忘恩行為」と。
そしてその理由が、金の玉に、関取ではない若い衆が行わなければならない、付け人としての雑務をさせないためであるということが知れ渡ってからは、その批判の声はさらに大きくなった。
相撲界の長きにわたる伝統を無視する行為である、と。修行経験のない関取など、存在させたらいけない、と。
しかし、我が息子は、そんな世間の常識とはかけはなれた人間だ、ということが、父である武庫川にはよく分かっていた。
征士郎は、いつも相撲のことしか考えていない。相撲に憑かれた男だ。それ以外のことなど何もできない。付け人の仕事などできるわけがない。
息子は・・・。武庫川は認めざるをえない、相撲以外のことについては無能力者であり、生活不適格者であると。
幼いころはそうではなかった。弘子が家にいた間は、明るくて活発な子だった。弘子が家を出てからは、母のことを思ってよく泣き、いつも自分にくっついていて、随分と甘えん坊になったが、境遇を考えれば、それは仕方がないことだろう。生活に関しては、母親がいない分、自分のことに関しては、むしろ他の同年代の子よりも、しっかり自分でやっていた。
変わったのは。そう、小学校六年生になった春からだったろう。相撲の稽古に臨む態度が、それまでより、さらに一段、真剣になった。そして、その分、その他のことに関しては、えらく無頓着になった。
中学時代、よく、学校の先生から注意を受けた。学校のなかで、他の生徒から浮いていて、ひとりでいることが多く、集団生活になじめないのではないかと。
でも、その段階では、中学を卒業して、相撲界に入門し、部屋で若い衆としての厳しい生活を送れば、それで矯正されるだろうと多寡をくくっていた。
高校に入ったら、さらにひどくなった。学校にも行かないようになったし、高校の相撲部にも行かず、瀬戸内部屋でただひたすら稽古に励む毎日だった。高校時代、色々な大会で、優勝したけれど、相撲部の他の連中とは、その大会のときに一緒に出場するだけで、普段は、ほとんど交流はなかった。
師匠ひとり、弟子ひとりの部屋。
征士郎を、それでも人間としての生き方をさせてやろうと思えば、こうするしかなかった。私が保護してやらなければ、息子は生きていくことなどできないのだ。
幸い、幼少時代から征士郎を見続けてきている瀬戸内親方も、征士郎がどういう人間かは理解してくれていた。
それにしても、と、武庫川は思う。征士郎のあの研ぎ澄まされた相撲が、そして、ひとつのことだけに憑かれてしまった生活が、いったい、いつまで続けられるというのだろう。ただのひとりの人間の精神と肉体の、その限界は、いったい、いつやってくるのだろう。
武庫川は、もうそう遠い日ではないであろう崩壊の予感におののいていた。
武庫川は、征士郎に、豊後富士の談話の概略を伝えた。豊後富士は、無意識であろうが、征士郎の相撲と生活の本質をつかんでいた。
それを伝えたら、征士郎が何か反応を示さないか。あるいは、自分自身のことを考えてみる、その契機にでもならないだろうか。
征士郎は、父の話を聞き終えると、ぽつんとつぶやいた。
「そう、豊後関が、そんなことを言っていたの」
しばらく待った。が、息子は黙ったままだった。やはり何も話さないか。
武庫川が、あきらめて引き揚げようとしたとき、
征士郎がまたぽつんと言った。
「僕は平凡な男だから。才能なんてない。ただの男がはるか高くまで昇りたいと思ったら・・・」
征士郎は、それ以上は、何も言わなかった。
「父さん」
「ん」
「四股をふんでくる」
武庫川部屋に土俵はない。朝稽古は、瀬戸内部屋に出かけている。
しかし、征士郎は、本場所中の夜も、思い立てば近所の公園に行き、四股をふみ、古木に向かっての鉄砲を繰り返す。
「征士郎」
武庫川は叫んだ。
たったひとりの息子に、そしてたったひとりの家族に、背中から抱きついた。
「もう、やめよう。やめてくれ征士郎。相撲だけが、相撲だけが人生じゃないんだ。才能がないのならそれでいいじゃないか。豊後関も言っていただろう。楽しんだらいいじゃないか。何かほかのこともやってくれ。横綱だって、大関だって、みんな相撲だけじゃないぞ。ちゃんと楽しくやっているじゃないか。普通に、真面目に稽古して。それで行ける場所までいけたら、それでいいじゃないか」
息子が振り返った。
「父さん、ごめん」
またぽつんとつぶやいた
「僕は、相撲しかできないんだ」




